第44話 彼の弱さ
聖君はまだ、呆然と立ったまま、下を向いていた。拳は握り締めたままで。
「聖…君…」
私は恐る恐る、聖君を呼んだ。そばにはなんだか近寄れなかった。聖君はいきなり、
「くそっ!」
って、吐き出すように言うと、髪をくしゃってかきあげて、泣きそうな顔をした。
「聖君?」
私は、今にも聖君が泣いちゃうんじゃないかと思った。顔を震わせ、手も震わせ、真っ赤な顔をして、目をぎゅってつむっている。
そして聖君は、ドカッとベッドに座ると、下をうつむいたまま、頭を抱えた。
「ちきしょう!」
と、小さい声でそう言うと、頭を抱えてた両手をギュって握り締め、しばらく黙り込んだ。
私はそっと聖君の隣に座った。何を言ったらいいのか、何も浮かばず、ただ横に座っていた。
心臓はドキドキしていた。聖君がものすごく、怒っているのがわかる。でも、泣きそうにもなっている聖君を見て、どうしていいかもわからなくなっていた。謝ったらいいの?何を言っても言い訳に聞こえてしまうんじゃないの?どうしよう…。
頭は真っ白だ。聖君はなかなか、顔をあげようともしなかったし、黙り込んだままだった。
いきなり聖君は、私のことを抱きしめてきた。それもすごい力で。
「ひ、聖君?」
聖君は何も言わなかった。ただ、私を抱きしめていた。
バクバクバク!突然私の心臓は早くなった。さっき、幹男君に抱きしめられてた時は、まったく冷静だったのに。
ぎゅうってしている聖君の腕が、やけに力強く感じる。聖君の胸も、大きく感じる。聖君の髪が私の耳に当たる。それすらドキッてする。息もかかる。それに聖君の匂いに思い切り、包まれる。
バクバクバクバク…。駄目だ。苦しい。息が出来ないくらい、苦しくなる。
「聖君、苦しい」
私はそう言うと、聖君の胸を両手で押した。でも聖君は動かなかった。
「聖君…」
もう一回、押した。さっきよりも力を入れて。すると、聖君はぱっと離れると、
「桃子ちゃんは、俺のことが嫌なの?」
と聞いてきた。
「え?」
「心臓が持たないからとか、苦しいからとか言うけど、本当は嫌がってるんじゃないの?嫌だって言えないでいて、そんな言い訳してるんじゃないの?」
な、何それ?
「幹男ってやつにはさ、抱かれてても平気だったじゃん。俺のことはそうやって、いつも手で押しのけて、嫌がるけど」
「嫌がってない」
「嫌がってるよ!いつもキスしても、抱きしめても、体硬くして、本当は嫌がってるんじゃないの?そうじゃないの?!」
聖君が、怒り出した。ううん、怒ってるって顔じゃない。本当に今にも、泣きそうな顔だ。
「私、嫌がったことなんてないよ」
「嘘だ」
「本当だよ。今だって、嫌がってないよ」
「じゃ、なんで俺から逃げようとするんだよ」
「逃げてない」
「手で押して、離れようとするじゃんか!」
「それは…」
それはだって、本当に胸が苦しくなるから…。
「ちきしょう!」
また、聖君はそう言うと、前髪をかきあげ、
「あいつは?なんで桃子ちゃんのこと抱きしめてたんだよ」
と聞いてきた。ちょっと手が震えている。
「元カノが結婚するって友達から聞いて、すごく幹男君落ち込んでて」
「だからって、なんで桃子ちゃんのこと」
「そばにいると落ち着くって…」
「桃子ちゃんは、なんで、他のやつに抱きしめられてても、逃げないんだよ!なんで、やめてって言わないんだよ!」
「ご、ごめん。でも、幹男君は私にとって、お兄ちゃんみたいなもので」
「でも、本当の兄でもなんでもないじゃんか」
「そ、そうだよね」
ああ。今頃、とんでもないことしていたのかなって気になってきた。もし、聖君が杏樹ちゃんや、菜摘以外の子を抱きしめてたら、ものすごく私嫉妬する。ううん、菜摘にですら、今でも嫉妬することがある。
「ごめん…。もうしない」
そう言って、頭を下げた。でも、聖君の気はおさまらないのか、まだ、手が震えていた。
「俺っ…」
聖君は辛そうに、何かを言おうとした。
「俺…、桃子ちゃんがすげえ大事だ」
「え?」
聖君は下を向き、拳をぎゅって握り締めながらそう言った。
「すげえ大事で、壊さないよう、傷つけないよう、泣かせないよう、ものすごく気を使ってきた。いつだって、もっと抱きしめたかったし、キスしたかったし、でも、ずっと我慢してきた」
「……」
「本気で、桃子ちゃんのことは、傷つけちゃいけないって、ずっと俺…」
ああ。わかってるよ、それ。聖君が大事に思っててくれたこと…。
ほんと?ほんとにわかってた?そこまで、思っててくれたこと、私…。
「でも、俺…」
聖君は、少しだけ顔を上げた。それから、私を見た。それから、少し辛そうに顔をしかめると、また下を向き、
「他のやつに取られるのも嫌だ。絶対に嫌だ」
と吐き出すように言った。
しばらく黙って、下を向いていた聖君は、頭をさらに下げ、髪をかきあげながら、話し出した。
「俺、無理じいをして、桃子ちゃんに嫌われたり、去っていかれるのが怖かった。失うのがすごくすごく怖かった。でも、そうやって、大事に大事にしてる間に、もし、他のやつが強引に、桃子ちゃんをかっさらっていったらと思ったら、気が気じゃなかった」
え?
「他のやつに桃子ちゃんを取られるくらいなら、俺のものにしようかって思ったことも何度もある」
「……」
そ、そんなことを思ってたの?聖君…。
「俺、すげえ身勝手だよな。桃子ちゃんを抱いて、俺以外のやつのことなんて、絶対に考えさせられないくらいにしたいって、そんなことも思ってるんだから」
「…!!」
え~~~~!
バクバクバクバク。う、また心臓が早くなりだしてる。
聖君は私の方も見ないで、話を続けた。
「今だって、幹男ってやつがたまらなく、憎たらしい。あいつに渡すくらいなら、今すぐにでも、桃子ちゃんを俺のものにしたいって思ってる」
ええっ?!
私は思わず、少し座ってる場所を後ろにずらしてしまった。
嫌がったわけじゃない。ほんと、無意識にだ。怖かったわけでもない。
でも、聖君はそれに気がついたらしく、
「そうだよね。呆れるよね。こんな俺」
と言ってきた。
「呆れてない」
と言うと、
「じゃ、怖い?」
と聞いてきた。
「ううん」
私が首を横に振ると、
「いいよ、無理はしないでも」
と聖君は言って、下を向き、ため息をついた。
「情けないし、とんでもないだろ?俺って。桃子ちゃんを失うのが怖くって、どうしていいかもわからなくなってる」
「……」
「すげえ好きで、俺のものにしたくて、でも、嫌われるのも怖くて、避けられるのも、嫌がってる桃子ちゃんも、俺、どうしていいかわかんなくなってて」
「……」
「情けない。自分でもすげえ情けない。最近は勉強だって手につかない」
え?
「沖縄、行くのをやめようかとも思ってる」
「な、なんで?」
びっくりして聞くと、
「だから、怖いんだって。桃子ちゃんを失うの。幹男が言ってるの、当たってるよ。離れて、もし桃子ちゃんのこと、他のやつに取られたりしたら、後悔するなんてもんじゃない」
「ど、どうしちゃったの?いきなり、そんな」
「桃子ちゃんには、自信持ってなんて言ってたくせにね。とんだ弱気になってるって、思ってるよね?」
「……」
「でも、俺もそんなに強くないよ。本当は桃子ちゃんは、俺のこと好きだって言ってくれるけど、俺が想うほど、想ってないんじゃないかとか、沖縄だって無理に来させたら、悪いんじゃないかとか、そんなことも考えるし」
「……」
聖君…が…?
「キスしても、抱きしめても、いつまでも硬直してるのは、緊張とかじゃなくて、嫌だからかなとか、でもそんなのも聞けないでいるし」
あの、自信があって、いつでも明るくて、前向きな聖君が?
「会わないでいると、そんな不安もたくさん出てくるし」
ええ?
「情けね。こんなで1年離れられるのかって、まじ、最近悩んでて」
聖君の悩みってそれなの?
「俺、好きになりすぎてる?こんなで、桃子ちゃん、引いてる?うっとうしい?」
「え?」
「なんか、好きの量が違ってる?温度差がある?」
「……」
聖君は私の顔を見ていた。目は、いつもと違って、なんだか自信のない目だった。私の顔をじっと見た後、私が何も言わないでいると、また下を向いた。
「自分でも、何してるんだって思うよ…」
と、ぼそってそう言うと、頭を掻いた。
ボタボタボタ…。いきなり涙が私のひざに落ちた。それから、思い切り、
「ひっく」
と、声まで出てしまい、聖君が驚いて私を見た。
「え?なんで泣いてるの?」
聖君は、私がぼろぼろに泣いてるから、さらに驚いていた。
「く、苦しくて」
「え?」
「胸が、苦しくて」
「な、なんで?」
聖君は、目を丸くした。
「だって、だって…」
言葉にならなかった。私はそのまま、ひっくひっくとしばらく泣いていた。涙が止まらないし、何も話せなくなるし、聖君は、近づいていいものかどうかも、わからなかったようで、その場でおろおろしているのがわかった。
「なんで、苦しいの?俺、困らせた?そうだよね、困らせたよね?」
「違う」
どうにか、それだけ言うことが出来た。
「何か、俺に言いたいことがあって、それを言えずにいて苦しいの?俺を傷つけるかと思って、言えないでいるの?」
「違う」
「もしかして、あいつ、幹男の方が、好きになったとか」
「ち、違う!」
私は、ぐるんぐるんと首を横に振った。
「じゃ…?」
聖君は、まだ、何か他の理由を見つけようかとしたみたいだけど、そのまま、黙ってしまった。
「わ、私」
私は頭が真っ白だったけど、でも、言葉にしようと試みた。どこまで、自分の今感じてることを、聖君に伝えられるか、わからないけど。でも、言わなきゃ。本当の気持ちを言わなきゃ。
涙があふれるのも、苦しいもの、聖君が好きだからだって。愛しくてしかたがないからだって。
そんなふうに聖君が想っててくれたことが、すごく胸を震わせるんだって。
そんな聖君も、愛しくって愛しくって、胸がぎゅうってなって、苦しいくらい大好きなんだって。
好きで好きで、しょうがないのは私の方なんだって…。そう言わなきゃ、そう伝えなきゃ…。
でも、言葉がうまく出てこない。話そうとすると、涙があふれる。そしてまた、ひっくって泣き出してしまう。
「ま、待って、今言うから」
「うん」
聖君は、ちょっと眉をしかめる。どんなことを言われるのかって、そんな顔だ。
「私」
話そうとすると、また大粒の涙がぼろってこぼれる。それを手で拭って、もう一回話そうと深呼吸をする。
聖君は、そんな私を見て、ちょっとだけため息をついて、
「ゆっくりでいいよ。俺、待ってる。どんなこと言われても、ちゃんと聞く。覚悟決めたから」
と、なんだか落ち着いた感じでそう言った。
聖君は優しい目で私を見てから、下を向いた。さっきまで握り締めていた拳は開いていて、ひざの上で、両手を組んでいた。本当に私が、ちゃんと話せるようになるまで、待っててくれるようだ。
ふわ…聖君の優しい空気が漂ってくる。それから、聖君の匂いも。
きゅ~~ん。胸が痛くなる。切なくて、愛しくて、ますます胸が苦しくなる。
そっと手をのばしてみた。そして、聖君の右手のシャツの袖をつんってひっぱった。
「ん?」
聖君がそれに気がつき、私を見た。目が合うと、聖君はすごく優しい目で、私を見た。
「私…」
私は泣くのも落ち着いて、やっと言葉がちゃんと出てきた。
「私、本当のことを言うからね?」
「うん」
聖君はそう言うと、目をふせた。私はまだ、聖君の袖を掴んだままだった。






