第39話 大きな存在
コーチの顔は、ひきつっていた。それから、外にいる花ちゃんを見た。そしてまた、聖君のことを見た。
「その話は、鈴木さんから聞いたのかな?」
コーチは冷静に話を始めた。
「そうだよ。今、改札から出てきたら、花ちゃんが店から泣きそうな顔をして出てきたのが見えて、話を聞いた」
「花ちゃん、泣いてた?」
私が聞くと、
「泣いてないよ」
と、聖君は、小声で私に言った。
「沖縄に行く話は、今、僕がしていたところだ。それに、君、恋人だって?椎野さんの?」
「そう。桃子ちゃんが泳ぐようになりたいと思ったのも、俺がスキューバするって言ったからだよ」
「君が?」
コーチは、聖君のことをまた、睨みつけた。私は慌てて、
「コーチ。あの、さっき、言おうと思ったんです。私の夢は、ダイビングをすることだけど、聖君と一緒に海に潜りたくって、それが1番の目的なんだって」
「……」
コーチは少し、呆れた感じで私を見た。
「君の夢は、ただ、この男の尻を追いかけること?」
「尻?!」
聖君の顔がひきつり、声も裏返った。や、やばい~~。聖君が怒ってる。
「金魚のふんみたいだね。そんなことのために、泳ぎを習いに来てたんだ」
「あんた、さっきから何言ってんだよ!桃子ちゃんがすごい努力して、泳げるようになったのは知ってんだろ?」
わあ。もうすでに、遅いかも。聖君怒っちゃったかも。
「聖君、いいの。そんなに怒らないで」
聖君の腕を掴んでそう言った。でも、聖君の腕はわなわなと震えていた。
「もう少し、大きな夢を持った子だと思ってたよ」
「桃子ちゃんは泳げなかったんだよ?それなのに頑張って泳げるようになった。桃子ちゃんにとっては、でかいことだったんだ」
「男のあとを追いかけていくことが?」
店の中に、花ちゃんが入ってきた。聖君が怒ってる姿を見て、慌てたみたいだ。
「私、変なこと言っちゃったかな」
花ちゃんは青ざめて、おろおろしていた。
「違うよ。花ちゃんは関係ない」
聖君は、小さく花ちゃんにそう言った。
聖君はまた、コーチを睨んだ。コーチは、冷ややかな目で聖君を見た。
いったいなんで、こんなことになってるの?
「コーチ」
私は何か言わなくっちゃと思い、コーチを呼んだ。コーチは何も言わなかった。だから、もう一回コーチを呼んだ。
「何?椎野さん」
やっとコーチが返事をした。
「私、何を言われてもいいって思ってましたけど、でも…」
何かがブチって切れた気がした。ふつふつと何かが、心の奥から出てくる感じだ。これ、怒り?
「今、思ってること言ってもいいですか?正直に」
「え?ああ。もちろん」
私の言葉に、コーチは余裕の笑みを浮かべた。聖君は横で、いったい私が何を言うんだろうかって顔をしていて、花ちゃんはまだ、青ざめていた。
「私にとって、聖君って、すごい存在なんです」
「え?」
突然そんなことを言い出したから、コーチは真顔になった。聖君も、えって顔をしていた。
「聖君は、手の届かないくらいの存在だったんです。去年の夏からすんごい好きで、でも遠くて、見ているだけで精一杯」
聖君が、頭を掻いた。それから、私に近づいて、どうしちゃったの?ってちょっと心配そうに小声で聞いてきた。
聖君の腕を掴んだ。なんで掴んだかわからない。でも、安心したかったからかもしれない。腕を掴んだまま、話を続けた。
「泳げないから、海でも、私は浜辺にいた。泳ぎに行っても、浮き輪でじっとしていただけ。いつも見ているだけで、聖君と一緒に何かをしようなんて思わなかった」
花ちゃんは私の話を、真剣に聞いていた。コーチは、ちょっと苦笑いをしていた。そんな話をなんでるするのかっていう、そんな表情だ。
「だけど、聖君と付き合うようになって、聖君が大学沖縄に行くって決めて、また、すごく遠い存在になって、今度は見てることもできなくなるって思っちゃって、怖くなって」
「桃子ちゃん…」
聖君が私の顔を見た。切なそうな、そんな目をしていた。
「でも、聖君のダイビングのライセンスを取って、いろんな海を潜るんだっていう夢、一緒に叶えられたらいいなって思うようになった」
「……」
コーチは、笑うのをやめた。
「お、泳ぎを習いに行くことすら、私にはすごく勇気のいることだったんです。本当に水も怖かったし」
「……。そうだね。水、怖がっていたね。ものすごく」
コーチがぽつりと言った。
「でも…、やっぱり、私、どうしても、聖君の夢を一緒に叶えたかったし、一緒に感動を分かち合いたかったし、喜びたかったし、すぐ隣にいたかったし…」
私の目からいつの間にか、涙が出ていた。
「桃子ちゃん?」
聖君がそれを見て、ちょっと驚いていた。花ちゃんも、目を潤ませていた。コーチは、私のことを見て、それから下をうつむいた。
「私には、すご~~く大きな夢だったんです。もしかしたら、手も届かないかもしれない夢。だけど、泳げるようになっていって、どんどん自信もついていって、いつか聖君と一緒に、潜れる日が来るかもって思えるようになって、夢が近づいていって…」
ポロポロ…。涙がこぼれ落ちた。
「だから、コーチに、私の夢が小さいとか、男の尻を追いかけるとか、金魚のふんだとか、言われたくないです」
私はコーチのことを、じっと見てそう言った。
コーチは顔を上げた。私と目が合うと、しばらく私を見ていたが、また目をそらした。
「お、女の子が、好きな人を思う気持ちを、軽く見ないでください」
思わず、私はコーチにそう言っていた。
「私はいつだって本気だし、聖君を好きでいる自分を、好きなんです。聖君っていう存在は私を強くしてくれるし、私に夢をくれたり、力をくれたり、前を向いて歩かせてくれたり…。お、大きいんです。すんごい大きいんだから…」
それ以上は、もう言葉が続かなかった。涙が次から次に溢れ出て、止まらなくなっていた。
「まいった」
と、言ったのは、聖君だった。
「やっべ~~。本当に」
聖君はそう言うと、いきなり私を抱きしめてきた。
「わ!聖君?」
私が驚くと、ぱっと私の体を離して、それから、
「桃子ちゃんの方が、よっぽど強い。俺、わざわざ来なくても、良かったかな?あはは…」
と、笑った。
「も、桃ちゃん~~。すごい~~」
花ちゃんも、泣いていた。鼻水まで垂れそうな勢いだ。
「……。悪かったね」
コーチがぽつりと言った。
「そういえば、その勇気や頑張りや、前向きな姿勢は、僕がすぐそばで見ていたんだっけね」
そうコーチが言うと、下を向いた。それから、まっすぐに私を見て、
「そんなところに、僕は惚れていたんだ。だから、まっすぐに恋人ですっていう彼を見て、嫉妬したんだ」
と、はっきりと言った。それを聞いた聖君は、一瞬顔をきひきつらせた。
「だけど、椎野さんは、彼のことを本気で思ってるようだし、太刀打ちできそうもないね」
コーチは力なく笑った。そして、
「君が羨ましいよ」
と、聖君に言うと、席を立ち、お店を出て行った。
「は~~~~~~」
私はため息とともに、椅子にもたれかかった。一気に力が、抜けた感じだ。
「大丈夫?」
聖君がすぐ横に椅子を持ってきて、私の横に座った。
花ちゃんは、私の前の席に、ちょこんと座り、
「桃ちゃん、かっこよかった」
とぽつりと言った。
「あんなふうに、言えるなんてすごい。あんな桃ちゃんは初めて見た」
「俺も、初めて見た」
聖君はそう言うと、頭をぼりって掻いて、思い切りうつむき、
「すげ、嬉しかった。俺の方が、泣きそうになった」
と、ぼそってつぶやいた。
「い、いいな~~~~!」
花ちゃんがいきなり、そう言うと、大きなため息をついた。
「私もそんな人と出会ってみたいし、そんな大恋愛をしてみたいよ~~!」
「え?」
私が驚いていると、花ちゃんはまだ、羨ましそうに私と聖君を見ていた。
「コーチのことは?」
私が聞くと、
「うん。なんか、もうどうでもいいかも」
と、あっさりと言われた。聖君までがびっくりして、
「もういいって?」
と聞き返した。
「なんか、がっかりした。もうちょっと男らしい人かと思ってたのに」
「え?」
「嫉妬して、あんなこと言うなんて、大人気ない。5歳も上なのにね」
そ、そんなものなの~~?
「俺も、けっこう嫉妬したりするよ?ね?桃子ちゃん」
「うん」
「え?そうなの?」
「大人気ないし、情けないし、性格悪いし」
「え~~?聖君が?」
花ちゃんが驚いていた。
「桃ちゃん、知ってた?知らなかったでしょ?かっこいい聖君のことしか、見てないよね?」
「……。えっと…。私は、その…。どんな聖君も可愛いなとか、思っちゃうから、その」
「え?」
花ちゃんは、目が点になっていた。
「あははは!」
聖君は、思い切り大声で笑うと、
「俺も!」
と、ものすごい可愛い笑顔でそう言った。
そして、花ちゃんの恋は、あっけなく終わった。
終わったというか、終わらせたというか、冷めたというか、なんていうか…。
「出会いが欲しいけど、私にはまだまだ、アイドル追いかけてる方がいいのかもしれない」
と、花ちゃんは笑って言っていた。
でも、どこか無理もしていた。私には言わないでいたけど、コーチのことで、本当は傷ついていたのかもしれない。
「そっとしておくのも、いいかもよ?」
と、聖君も何かを感づいていたようで、そう私に言った。
花ちゃんと別れて、聖君は私のことを家まで、送ってくれると言った。
「塾は?」
「さぼった」
「ええ~?」
「なんかさ、すんごい嫌な予感しちゃってさ。いてもたってもいられなくなって、新百合に来てた」
「……」
そ、そうだったんだ。
「だけど、来て良かった」
「……。コーチと変なことになってたから?」
「違うよ。あれは、俺がいなくても、桃子ちゃん一人でもちゃんと、解決できてたなって思うよ」
「え?そうなの?」
「うん。桃子ちゃんは、強いもんね」
「私が?」
「開き直るの?いきなり強くなっちゃう時、あるよね?」
う、そうかも。父に聖君のこと、悪く言われた時も、そうだったっけ。
「そんな強い桃子ちゃんを見れたってことと、桃子ちゃんがそれだけ、俺のことを思っててくれてるってのがわかったからさ」
公園のベンチに座って、聖君と話をしていた。まだ、明るかったが、昼間のような暑さはなかった。涼しい風すら、吹いていた。
「恥ずかしい。なんで、いきなり私、あんなこと言い出したのか、自分でもわからない。だけど、何かがブチって切れた音がして」
「え?」
「ふつふつと沸いて来て、その思いをそのまんま、口にしてたんだ」
「そうか。桃子ちゃんの本音というか、心そのままだったんだね」
「うん」
「そっか~~~。すげ~~~~!」
聖君はいきなり、空を見上げながら、大きな声でそう言った。
「すげえ?何が?」
私が、突然、ぶちって切れるところがかな?
「桃子ちゃんの思い、すげ~~~~って思って」
「思い?」
「俺に対する思い」
「え?!」
そんなことを言われて、真っ赤になると、
「あはは。あんな堂々と言ってたくせに、今頃そんなに真っ赤にならないでよ」
と、笑われてしまった。
「俺、すげえ嬉しいよ。俺の存在がそれだけ、桃子ちゃんの中で大きいこと」
「……うん」
「俺の中でも、桃子ちゃんはでかいけど」
「ほんと?」
「あれ?信じられない?」
「ううん。信じる」
「はは!」
聖君は最高の笑顔を向けてくれると、優しくキスをしてきた。
「桃子ちゃん」
「え?」
「桃子ちゃんの夢を叶えるのは、誰でもない。桃子ちゃんだ」
「え?」
「で、それを叶える時、隣にいるのが俺かな」
「うん」
聖君は、また空を見上げて、
「空がすげえ、奇麗だね」
って言って、目を細めた。
「聖君」
「ん?」
「でもね、海に潜っても、潜らなくっても、今も夢は叶ってるの」
「俺の隣にいるってこと?」
「うん。それで、一緒に、今を味わってる」
「そうだね」
聖君と一緒に、空を見た。聖君は手をつないでくれた。そっと、聖君の肩にもたれかかってみた。
ふわ~~~。聖君の優しさに一気に包まれた。
「これ」
「え?」
「聖君の優しい空気、大好きなんだ」
「優しい空気?」
「うん。それにいつも包まれる」
「はは!それはあれだよ、あれ」
「え?何?」
「俺の愛だね」
「ええ?愛?!」
「わ!照れくさ!言っててめっちゃ照れる!」
聖君は本当に真っ赤になってた。私もきっと、真っ赤だった。
空までが、だんだんと赤くなっていき、奇麗な夕焼け空に変わっていっていた。