第34話 父と私の怒り
聖君は、その次の日曜、父と釣堀に行った。我が家まで来て、父の運転する車に乗って行った。私が作った二人分のお弁当を持って。
「いってらっしゃい」
私と母が見送った。ひまわりは、残念ながらその日、部活だった。
「行ってきます」
聖君はにっこりと微笑み、父は特に何も言わずに家を出て行った。
「だ、大丈夫だよね」
私の方が緊張していた。
「大丈夫よ~~。きっと、すんごく仲良くなって帰ってくるって」
と、母は能天気にそんなことを言った。そうだったらいいけど。
12時になり、母と昼ごはんを家で食べた。大丈夫だと言っていたが、やはり母も気が気じゃないのか、テレビがついていても、上の空だった。
「もうお弁当、食べてるのかしらね」
と、母が言う。
「お母さん、午後エステのお客来るんだっけ?」
「2時から来るわよ」
「それまでには、戻ってくるよね」
「聖君、塾は?」
「今日まで休みだって」
「そう。じゃ、うちにちょっと寄ってもらいましょうか」
「うん」
私と母は、食べたものを片付け、少しリビングでのんびりとしていた。すると、すごい勢いで、ドアが開き、
「桃子!桃子!」
とけたたましい、父の怒鳴る声が聞こえた。
「お父さん?」
玄関に慌てて母と行くと、
「桃子!俺は許さんぞ」
といきなり、怒鳴り散らし出した。
「な、何があったの?お父さん、聖君は?」
母が聞いた。
「あいつは、駅で降ろしてきた」
「どうしたっていうの?何を怒ってるの?」
母は、父をなだめようと、わざと落ち着いてそう聞いていたが、父の顔は真っ赤で、怒り狂っているように見えた。
「沖縄だ!!!沖縄になんか桃子を、行かせるわけがないだろう!!!」
「!!」
私と母は、顔を見合わせた。ああ、聖君、きっと何かとんでもないことを言っちゃったんだ。母もきっと、私と同じことを思っていたに違いない。あちゃ~って顔をしていた。
「お前は知っていたのか?」
父はリビングのソファーにどかって座ると、そう母に聞いた。
「沖縄のこと?」
「そうだ。桃子を、高校卒業したら、沖縄に来させると言っていた。そんなこと俺は何も聞いてないぞ!」
うわ。聖君、そんなこと言っちゃったの?
「聖君はなんて言ってたの?」
母はまだ、冷静に父に聞いていた。
「大学は、琉球大学に行くんだと言った。桃子と付き合ってるのに、そんなに遠くに行ってしまうのかと聞いたら、悩んだけど、桃子ちゃんも賛成してくれたと言っていた」
ゴク…。なんだか、聞いてて緊張してきた。
「そんなに離れていたら、駄目になってしまうんじゃないのかと聞いたら、桃子ちゃんには高校卒業したら、沖縄の専門学校に来て欲しいって、そんな話をしたと言っていた」
「それで、あなたはなんて?」
母は、ちょっと不安げな顔をして聞いた。
「冗談じゃない。沖縄になんてそんな遠くに、大事な娘を行かせられるかと怒鳴ってやった」
「……、聖君はなんて?」
「あいつは、いけしゃあしゃあと、そうですよね、その気持ち、わかりますと抜かしやがった」
「……。それで、あなたは何て言ったの?」
母はだんだんと、声のトーンが下がっていた。私は、今何かを言ったら、父の怒りをもっと大きくさせるんじゃないかと思い、黙って聞いていた。
「お前に何がわかる。平気で桃子を置いて遠くに行って、そのうえ、そんな遠くに桃子を来させようとしてる、そんな勝手なやつに何がわかるって言ってやった」
「それで、聖君は?」
「俺のわがままです。すみませんと頭を下げた」
聖君が?
「頭なんか下げられても、どうにもならん。謝られても、どうにもならん。桃子は絶対に、沖縄になんか行かせないぞ。わかったか?桃子。卒業したら東京の学校に行くんだ。東京で就職もするんだ」
「嫌だ!」
私は思わず、そう叫んでいた。
「桃子!お父さんの言うことがきけないのか!」
「私、いつまでも子供じゃない」
「何?」
「自分で、ちゃんと将来のことは考える」
「バカなことを言うな。ちょっといい男だからって、お前をたぶらかしてるだけだろう?それがわかんないのか」
「聖君のこと悪く言わないで!」
「桃子、お父さんももう、やめてちょうだい」
母が二人の間に入ってきたが、父は母を無視して、
「どこから見てもまるわかりだ。女にモテて、いい気になってるそんなやつだ。お前のこともいいように付き合って、沖縄にいったって、すぐに別れてぽいってされるのがおちだ。あとで泣いて帰ってくるのは、目に見えてる」
「そんなことない!」
「口先だけのいい加減な男だ」
「いい加減にしてよ!何もわかってないのはどっちよ!お父さんの方がいっつも口先だけじゃない!どこかに連れていってくれるって言って、行ったためしがない。私もひまわりも、運動会だって来てもらったことがない!旅行にだって、何年も行ってない!口先だけの男はどっちよ。聖君の方がずっとずっと、お父さんよりも誠実なんだからね!!」
頭に来て、私は父に向かってそう怒鳴っていた。いつも小さな声しか出ない私が、どっから出たんだと思うくらいの、すごい大声で。
バチン!!!
「痛い!」
次の瞬間、私の体が宙を飛んでいた。父に思い切り、ほっぺたを叩かれて、体ごと宙を浮いたんだ。
「桃子!!!」
母が私のもとへと、駆けてきて、私の真っ赤になったほっぺを見ながら、
「お父さん!桃子は女の子なのよ!叩くことないでしょう!やりすぎよ!」
と、怒鳴った。それから、すぐに私の肩を抱き、
「ほっぺた、冷やさなくちゃ。真っ赤よ。痛いでしょう?」
と、優しく言ってくれた。
「お父さんに向かって、口ごたえをしたからだ」
父は、まだ私のことをにらみつけながら、そう言った。ほっぺたが痛い。でも、もっと痛いのは心の方だ。
聖君のこと、何もわかってないくせに。何もわかってないくせに。悔しくて、怒りがおさまらない。父が心底、憎らしく思えてくる。悔しくて、涙が出てきた。
「桃子、大丈夫?」
私がほっぺたを押さえながら泣いていたからか、母が心配して聞いてきた。それを見て父も、少し顔色を変えた。
「桃子…」
と、何か言おうとしたが、私はまだ、頭にきていたので、
「お父さんなんか大嫌い!!!」
とそう叫んで、2階の自分の部屋に走っていった。
「痛い…」
ズキズキした。生まれて初めて、父に叩かれた。でも、心の方の痛みの方が、ズキズキした。父にあんなふうに言われて、まだ、腹が立っていて、おさまっていなかった。
酷い。聖君のこと、何も知らないくせに。聖君の優しさも、聖君の誠実さも、聖君の思いも何も知らないくせに。悔しくて、涙が出ていた。ほっぺたの痛みよりも、悔しさの方が勝っていた。
トントン。ドアをノックする音と、母の優しい声が同時にした。
「桃子、タオル冷やしてきたから、ほっぺたに当てておきなさい」
母は、ドアを開けると、ベッドに座り込んでほっぺたを押さえ、泣いている私の横に座った。
「まだ、痛い?ああ、真っ赤になってる。これ、明日には紫色になっちゃうかしらね」
母はそっと、タオルをほっぺたに当ててくれた。
「お母さん、私、悔しい」
「え?」
「お父さん、聖君のこと何も知らないくせに、あんなふうに言って、すごく悔しいよ」
そう言って、私はひっくひっくと泣き出した。
「そうね。お母さんも、あれはお父さんの方が悪いと思うわ。お母さんからも言っておくから、桃子は少し休んでいなさいね」
母が部屋を出て行った。私はタオルでほっぺたを押さえながら、まだ泣いていた。
「電話だよ!」
聖君の声が、携帯からした。
「もしもし…」
あ、今出ちゃ駄目だったかな。私、思い切り、泣いてる声だ。聖君に泣いてるのばれちゃう。
「桃子ちゃん?大丈夫?」
聖君の優しい声がした。
「……」
黙っていると、
「お父さん、怒ってなかった?俺、何回か電話したんだけど、桃子ちゃん、出なかったから心配で」
「ごめん、部屋に携帯置いてたから、気づかなかった」
「鼻声だね。泣いてた?」
あ。やっぱり、気づかれた。
「うん」
「お父さんに怒られた?」
「叩かれた」
「え?!」
聖君は思い切りびっくりしてた。
「な、なんで?俺が原因?」
「聖君は悪くないの。悪いのは全部、お父さんだもん」
「何があったの?沖縄のこと?お父さん、沖縄の話したら、いきなり怒っちゃってたけど、それで桃子ちゃんのことも怒っちゃった?」
「ううん。そうじゃなくって。お父さんが、沖縄になんか行かせないって言うから、嫌だって言ったら、お父さん、聖君のことすごく悪く言い出して」
「悪くって?」
「私のことたぶらかしてるだけだとか、どうせ、沖縄にいったって、すぐに別れてぽいってされるのがおちだとか」
「へ?」
「口先だけの男だとか、そんなこと…」
「そう。そりゃひどい言われようだね。あれ?でもそれでなんで、桃子ちゃんがひっぱたかれちゃったの?」
「そんなこと言われて頭にきて、口先だけなのはお父さんの方だ、聖君の方が、誠実だって言ったら、バチンって」
「思い切り?もしかして、平手打ち?」
「うん。ほっぺたをビンタされた」
「だ、大丈夫?桃子ちゃん。痛い?大丈夫?」
「タオルで今、冷やしてる」
「そうか。それで泣いてたんだ。叩かれたの、初めて?」
「うん」
「そうか、そりゃ、ショックだよね。俺、まだ家に着いてないんだ。今から電車乗り換えて、桃子ちゃんの家に行こうか?」
「ううん、いい。大丈夫。それに泣いてるのは、痛いからとか、ショックでじゃないし」
「え?」
「悔しくって、怒りがおさまらないから」
「え?」
「お父さんのこと、頭にきてて」
「なんで?あ、ひっぱたいたから?」
「違う。聖君のこと悪く言ったから。なんにもわかってないくせに、あんなこと言ったから」
私はまた、悔しさがこみあげてきて、涙がこぼれた。
「ひっく」
声まで出てしまった。
「桃子ちゃん?大丈夫?」
聖君が優しい声で、聞いてきた。
「ひっく。く、悔しい。すんごく悔しい」
「悔しくて泣いてるのか」
「うん」
「そっか…」
聖君はしばらく黙っていた。それから、
「サンキュー。桃子ちゃん。それって俺のために、泣いてるんでしょ?」
「……。そうかな?」
「でもさ、俺は別に平気だよ?なんて言われても、どう思われても。これから、お父さんにはちゃんと真正面から向き合って、俺のこと知っていってもらう。だから、桃子ちゃんがそんなに、怒ることないよ?」
「だって」
「それよりも、本当にほっぺた、大丈夫?」
「うん」
聖君は、私のことの方を心配してくれてるんだ…。
「お、お父さん、大嫌いって本気で初めて思った」
「え?」
「あんな、お父さんは嫌い」
「う~~ん、そうか…。でも、ほんとは好きなんでしょ?」
「今は嫌い」
「う~ん…」
聖君は、ちょこっとうなって、しばらくまた、黙ってしまった。
「お父さんにも大嫌いってさっき、言ったの」
「え?!言っちゃったの?桃子ちゃん。それで、お父さんはどうしたの?」
「知らない。すぐに部屋に来ちゃったから」
「そう、そうなんだ」
「だって、聖君のこと…」
「うん、わかってる。桃子ちゃんが俺のことで、腹を立ててることもわかってる。それ、すごく嬉しいよ。だけど、なんとなくお父さんの気持ちも、俺わかるんだよね」
「ええ?」
「桃子ちゃんがさ、すんごく可愛いんだよ。すごくすごく大好きなんだ」
「だったら、叩いたりしない」
「う~~~ん。俺も高校1年の時、父さんにぶったたかれたことあるよ」
「え?聖君が?」
「うん。バイトさぼって、友達と遊びに行った時。家に帰って来て、いきなりバチンと」
「あの、優しいお父さんが?」
「うん。母さん一人で、すんごい大変だったんだって。それなのに、俺、遊びたい一心で、バイトさぼっちゃったの。さすがの父さんも、頭に来ちゃったみたい」
そうか。そんなことがあったんだ。
「叩かれた時には、すげえ頭に来た。いきなりひっぱたくやつがいるかよって、逆にくってかかったけど、バイトを自分からやるって言ったんだから、ちゃんと責任持ってやれ!お母さんの大変さもわかれ!って怒鳴られて、俺、またはむかおうとしたら、母さんが間に入って、泣きながらやめてって言って、それで、冷静になった」
「……」
「で、冷静になってみたら、俺って相当なガキじゃんって思ってさ。反省した。そりゃもう、どっぷりと反省して、しばらく立ち直れないくらいに」
「聖君が?立ち直れなかったの?」
「うん。だけど、次の日だったかな。まだ落ち込んでいたら、父さんの方がやってきてさ、俺に謝ったんだ。叩いたりして悪かった。痛かったよなって」
「それで、聖君は?」
「痛かったって言ったよ。だけど、叩いた手も痛かったんだぞって父さんに言われた」
「叩いた手も?」
「父さんも、すんげえ反省したみたい。叩いちゃったこと。だけどさ、そうやってちゃんと俺に謝ってくれたことが、すごいって思っちゃって、俺もすぐに謝ったんだ。すげえ反省したし、もう絶対に無責任なことはしないって」
「うん」
「そうしたら、頭をぐしゃぐしゃってされて、お前、可愛いやつって抱きしめてきたよ」
ああ。そういう光景、何度か見たことある。そうか。聖君もお父さんと、喧嘩したりするのか。
「だからね、今きっと、桃子ちゃんのお父さんも、すんごい落ち込んでると思うな」
「え?!」
なんで、そうなるの?
「桃子ちゃんを叩いたうえに、大嫌いなんて言われたらさ」
「だって、本当にうちのお父さんは、いつも口先だけで、約束を守ったこともないんだよ?連れて行ってくれるといった場所に、行ったこともないし、運動会も行くって約束しても、来ないんだよ?」
「そのあと、謝ってた?」
「うん。謝ってたけど」
「忙しいんだね、本当に」
「だけど…」
「本当は行きたかったんじゃないの?」
「かもしれないけど」
「桃子ちゃんは、好きなんでしょ?前に言ってたじゃん」
「え?私が?」
「うん。俺が父さんと血がつながってないのがショックだったって言ったら、私もお父さんが大好きだから、もし血がつながってないってわかったら、ショックだって」
「そんなこと言ったかな?」
「言ったよ。それで俺、なんか桃子ちゃんが俺の気持ちをわかってくれたみたいで、嬉しかったんだ」
「え?」
「あ、この話は初めてしたっけ」
「うん」
「で、大好きなんでしょ?」
「……」
「今、落ち込んでるよ。お父さん。きっと、桃子ちゃんよりも」
「え?」
「そりゃ、いきなり桃子ちゃんと付き合って間もない、わけわかんない男が、沖縄に大事な娘を連れて行くって言ったら、頭にくるって。そのうえ、そんな大事な娘のことひっぱたいちゃったら、自分でもショック受けてるって。そのうえ、その大事な娘に嫌われたら、再起不能だね。それがもし、俺なら、今頃地底深くまで、落ち込んじゃって、絶対に立ち直れないね」
「ええ~?」
そんな~~。私だって、私だって、こんなに落ちてるのに。
落ちてる?
本当に?確かに悔しかったけど、今はもう、聖君の声も聞けて、しっかりと立ち直っちゃってるんじゃない?
「聖君」
「え?」
「私、お父さんに反対されてもなんでも、沖縄に行くね」
「へ?どうしたの?いきなり」
「なんか、今、いきなりそう思った」
「そ、そう…」
「うん。でも、やっぱりお父さんのことは、聖君が言うように好きだから、これから行って、それ、伝えてくる」
「それって?」
「お父さんが好きだって。大嫌いっていうのは嘘だって」
「ああ、そう…うん。言ってくるといいよ。きっと、お父さん、すぐに立ち直れちゃうよ」
「うん」
「あはは」
「え?」
何?なんで笑ったの?
「桃子ちゃん、強いね」
「え?なんで?」
「だって、桃子ちゃんは立ち直っちゃってるから」
「うん!だって、聖君がいてくれるから」
「……。そっか」
聖君はそう言うと、しばらく黙って、それから、
「うん。俺、そんな桃子ちゃんも大好きだな」
と、つぶやいた。そんなってどんななのか、わからないけど、大好きって言われたのは嬉しい。
「私も、聖君、大好きだよ…」
と思わず、言ってしまっていて、自分でも驚いた。
「あはは。知ってる。そうだ。俺、けっこう釣り、好きかも」
「え?」
「釣りしてた時には、おじさんと楽しく話しとかしてたんだ。帰りの車で、あんなふうに怒らせちゃったけど」
「そうだったんだ」
「じゃ、桃子ちゃん、頑張って」
「え?何を?」
「お父さんとの和解」
「あ、うん」
「お父さんのこと、ハグ!ってしたら、きっとすぐに仲直りできるよ」
「しないよ、そんなこと」
「あれ?しないの?喜ぶと思うけどな」
「しないよ~~」
「あはは。なんだ。俺だったら、してほしいけど」
「娘が出来たら?」
「違う、違う。桃子ちゃんに」
「……。そ、それは」
「今度ね」
今度…?!
「じゃ、電話切るよ。そろそろ電車乗るね」
「今、どこからかけてるの?」
「ホームの先っぽ。人が周りにいないから、話しやすかった」
そうか。それで時々、電車の音や、アナウンスの音が聞こえてたんだ。
「ありがとう。何回も電話してくれてたんだよね?」
「うん」
「ごめんね」
「ううん。あ、でも、ほんとに申し訳ない、ありがとうって思ってるならハグね」
「わ、わかったよ~~」
「あはは。じゃあね、ほんとにもう切るよ」
「うん」
聖君はそう言うと、ちょうど、ベルの音がした。電車が発車するところだったようだ。
電話が切れた。聖君の優しさや、あったかさがそのまま、私の胸に残っていた。ほわ~~~~ん。
そのあったかさの余韻に浸っていると、ほっぺたの痛みも消えていった。
そして私は、勇気を持って、下のリビングに父をハグしに行くことにした。