第13話 彼の嫉妬
次のスイミングスクールの日、また、あのコーチに会うのかって、ちょっとブルーになりながら、スクールに入っていった。
ロッカールームで着替えていると、小松さんと根本さんがやってきて、
「こんばんは」
とにっこり、挨拶をしてきた。
「こんばんは」
二人ともなんとなく、嬉しそうだった。はあ…、いいな。嬉しそうで…。その逆で私は、かなりブルーだ。
でも、聖君の頑張ってという言葉を思い出した。家を出る前、これからスイミングスクールに行ってくるとメールをしたら、
>頑張って!冷たいコーチが何を言っても、気にすることないから。
と、メールをくれた。ああ…、優しい…。と、じ~~んってしていると、またメールが来て、
>犬かきだったら、上手に泳げるかもよ?
と、犬の絵文字付きで送ってきた。
>ひどい!犬じゃないよ!私。
と、メールを送ると、
>あはは!冗談だって。俺がついてるから大丈夫。頑張ってね(^▽^)
と、今度は可愛い顔文字付きだった。
嬉しい。やっぱり、私は聖君の言葉一つで、こんなに嬉しくなって、パワーをもらえる。もっと早くに、聖君に言っておけばよかったんだな。スイミングスクールに行くことも、冷たいコーチのことも。
プールサイドに行くと、コーチがまた無表情で待っていた。周りを見ると、他のコーチはにこやかに、スクール生に挨拶をしていた。
ああ。なんでまた、こんなコーチに当たっちゃったのかな…。なんて思って、またブルーになる。
「こんにちは。じゃ、準備体操始めます」
コーチの掛け声で、準備体操が始まった。
「1、2、3、4」
準備体操も、暗い気持ちでしていると、
「椎野さん、もっとちゃんと準備体操しないと、怪我のもとになりますから。足とかつっても知らないですよ」
と、言ってきた。
ああ…。もしや、目の敵にされてる?私…。
準備体操が終わると、
「じゃ、ビート版持ってきてください」
とコーチが言い、小松さんと根本さんは、明るくはいって返事をして、ビート版を取りに行った。
「椎野さん、何してるんですか?ぼ~~ってしてないで、取りに行って下さい」
「私も?」
「そうですよ。さっさと行って下さい」
「はい」
私はまた、顔をつける練習かと思った。慌てて、ビート版を取りに行くと、
「でも、プールサイドは走らないでください。椎野さん!」
と、コーチに怒られた。
や、やっぱり。目の敵にしているに違いない。
「プールに入ってください」
と言われ、3人ともプールに入ると、
「じゃ、バタ足の練習を始めます」
と、順番に泳がされた。
私はバタバタと、足を動かしたが、ほとんど前に進まなくて、前を泳ぐ小松さんと距離が開いてしまった。でも、コーチは、
「小松さん、もっと足を曲げないで。そんなに水しぶきをあげないでも大丈夫です」
と、小松さんにだけ、注意をしていて、私には何も言ってくれなかった。
私が、やっとこ最後まで泳ぐと、もう、後ろでコーチは、根本さんに、
「根本さんは、ビート版を持たないで、泳いでみましょうか。顔をつけて、手はまっすぐに前に伸ばしたまま、バタ足だけで泳いでみてください」
なんて言ってる。
根本さんは言われたとおりに、泳ぎ出した。
「ああ、いい調子です!」
15メートル泳いだところで、根本さんが立ち上がると、
「ほら、もう15メートル泳げましたよ」
と、あのコーチが明るい声で、褒めていた。
ほ、褒めるんだ。あのコーチも、褒めることがあるんだ。それも、明るい声で…。
私はそれを見ていて、思い切り驚いてしまった。
小松さんにもコーチは、
「ビート版を持たないで、泳いでみましょう。大丈夫。バタ足はそんなに足を曲げないで、伸ばしたままにしてみてください」
と、教えてあげていた。小松さんも顔を水につけ、手を前に伸ばし、バシャバシャと泳ぎ出した。10メートルのところで、顔を上げ、立ち上がると、
「10メートル泳げました。あとは、やっぱりバタ足ですね。練習して行きましょう」
と、コーチに言われ、元気良く、
「はい!」
と、小松さんは答えていた。
プールサイドから、私はぼけっとその様子を見ていた。ああ、二人ともなんて上達が早いんだ。
「椎野さん、ぼ~~ってしてないで、プールに入ってください!」
コーチに、半分怒鳴られた。
「はい」
慌てて、プールに入り、コーチの隣に行くと、
「椎野さんは、まだ、ビート版を持ったまま泳いでください」
と言われてしまった。いや、顔をつけて泳いでくださいと言われても、怖くてできそうもなかったからいいんだけど…。
私は、ビート版を持って、バタバタと足を動かした。コーチはしばらく黙っていた。
なんで、私には何もアドバイスがないんだろう?なんだか、悲しいような、悔しいような気持ちになってきた。
「椎野さん…。ただ足をバタバタしたらいいってもんじゃないんです。できるだけ、膝は曲げないでください」
やっと、コーチにアドバイスしてもらい、私は今度は足をまったく伸ばしたままにしてみた。
「それじゃ、進まないですよ。足は動かしてください」
コーチに言われ、またバタバタやると、
「膝は曲げない!」
と、怒鳴られた。
膝を曲げなかったら、足は動かないじゃないか!どうしたらいいのよ?と、頭の中ではコーチにくってかかっていたが、口には出さず、また膝を曲げるのをやめてみた。そうすると、下半身は沈んでいってしまう。
「椎野さん。ふざけてますか?」
「いいえ!まじめにやってます。これでも…」
悔しい。ふざけてなんかいない。これでも必死だ。
「本当に?やる気ありますか?」
「あります。必死です」
泣きそうになりながら、そう答えると、コーチは、
「わかりました」
と言って、私のすぐ横にやってきた。
「こういうの、本当は駄目なんです。いろいろと問題があったりして。だから、前もって椎野さんの承諾を得ますけど」
「え?」
「足とか、お腹とか、直接持ったりして指導しても、大丈夫ですか?」
え…?手取り、足取りってこと?
「椎野さんの場合、どうも、口で説明してもわからなさそうですよね?」
「はい」
そうかもしれない…。
「じゃ、その辺をきちんと、承諾してもらわないと」
「はい。わかりました」
「じゃあ、もう一回、バタ足してもらえますか?」
「はい…」
私がバタバタと足を動かすと、お腹の下にコーチが両手を持ってきて、沈まないように支えてくれた。そして、一つ一つ、足の動きを説明してくれた。
それでも、なかなかできないでいると、手すりにつかまっててくださいと言われ、
「足を、持ってもいいですか?」
と聞いてきた。
「はい」
と答えると、
「ここをこうやって、動かすんです。こんなふうに」
と、丁寧に私の足を、動かした。
「あ、そうか!」
と、私はやっとこ、納得した。
「じゃ、一人でやってみてください」
と、コーチは少し離れた。私は、教えてもらったように足を動かすと、
「そう!それです」
と、言ってくれた。
あ、あれ?なんかちゃんと、教えてくれてる?
「じゃあ、次はまた、ビート版を持って、端から泳いでみましょう。小松さんと、根本さんは、ビート版を持たずに、顔をつけて、バタ足で泳いでみてください」
コーチはそう言うと、プールから上がり、上からみんなにあれこれ、指導をしてくれた。
時間が来て、コーチに挨拶をして、ロッカールームに行こうとすると、
「椎野さん」
と、コーチに呼び止められた。
「はい」
「水に顔をつけるの、怖いですか?」
いきなりコーチに、そう聞かれた。
「あ…、はい」
「でも、それじゃ泳げるようになれないですよ」
「はい…」
「練習してきてください」
「え?」
「洗面器でも、お風呂でもいいです。目を開けて、水に顔をつけて、10秒。できるようになってきてください。宿題です」
「は、はい…」
コーチはそれだけ言うと、さっさと、プールの方へと戻っていった。
ロッカールームに行き、シャワーを浴びた。もしかすると、あのコーチは、単なるくそ真面目なだけのコーチかもしれないな…。私が、やる気がなかったり、ふざけてるようにでも見えてたのかな。それで、怒っていたのかもしれない…。
私は、ちょっと、コーチの印象が変り、少しだけ、やる気も出てきていた。
金曜日の夜、いきなり聖君が、
>明日、プール行かない?
と、メールをくれた。ええ…?いきなり?
>塾は?
と、聞くと、
>午前中だけで終わる。
と、返信が来た。
そして、待ち合わせ場所と時間を決めて、メールを終わらせた。
聖君とプールなら、可愛い水着でもいいよね。私は、午前中に水着を買って、それから待ち合わせの場所に行くことにした。
ドキドキだった。なにしろ、まだ全然、上達していないし。聖君、私がまったく駄目で、呆れないかな。なにしろ、毎日、洗面器に水をはり、10秒顔をつける練習しかしてないし。
聖君は、5分前に待ち合わせの場所に着いたのに、もう待っててくれていた。
「さ、昼食ったら、特訓ね!」
と、いきなり笑って聖君が言った。
「ええ?特訓?!」
「そう。そんで、冷たいコーチのこと、見返してやれ!」
聖君はそう言うと、私の手を取って、歩き出した。
いいのかな。聖君だって受験勉強あるだろうに。気になって、そのことを聞いてみると、
「いいの。コーチにばっかり、いい思いはさせてられないしっ!」
と、鼻を膨らませてそう言った。
いい思い?それは、まったくしていないと思うけどな。どっちかっていうと、迷惑とか、嫌な思いをさせてる気がする。
お昼を食べている間、なんだか聖君はご機嫌な様子で、ウキウキワクワクしているのが伝わってきた。
「聖君、なんだかすごく楽しそう」
「え?」
聖君は、ハンバーグをかじりついたまま、聞き返した。
「楽しそう」
と、もう一回言うと、
「うん!」
と、嬉しそうにうなづいた。
「プールがそんなに、嬉しいの?」
ちょっと、わざとそんな見当はずれなことを聞いてみると、
「うん」
と、また嬉しそうにうなづいた。あ、あれ?あれれ?
私、なんだかうぬぼれたこと、考えてた?もしかして、私と一緒にプールに行けるのが、嬉しいのかって思っちゃった。ただ単に、泳げるのが嬉しいとか?
「ちょっと、今、妄想してて…」
と、聖君がぼそって言った。も、妄想…?
「どんな?」
「どんなって、これから桃子ちゃんとプールに行って、桃子ちゃんに泳ぎを教えてあげちゃって、そんで…」
そして、聖君は少しにやけてから、うつむいた。
「そ、そんで…のあとは?」
すごく気になって聞いてみると、
「内緒」
と、言われてしまった。
「え?内緒ごとは無しにするんでしょ?」
と聞くと、
「…これは、特別」
と聖君は、ちょっといたずらっぽい目つきでそう言った。
「ええっ?」
何?なんか気になるよ~~~。どんな妄想なの?あれ?でも、やっぱり、私とプールに行くのが、嬉しいってことだよね?
「顔、水につけられるようになった?」
「毎日、練習してる」
「家で?」
「うん、洗面器で」
「あはは。そうなんだ」
「だって、宿題だから。10秒顔をつけられるようにする」
「宿題なんてあるのか、大変だね」
「バタ足なら、なんとなくできるようになった」
「そうなんだ、すごいじゃん」
「うん。初め、膝を曲げてバシャバシャしてるだけで、全然前に進まなかったんだ」
「うん」
「でも、コーチがこうやって、動かすんだって教えてくれて、ようやくこつをつかめたって言うか」
と、私は両手を足に見立てて、動かして見せた。
「ふうん…。じゃ、冷たいコーチ、ちゃんと教えてくれるようになったんだ」
「うん。冷たいって言うか、ただ、真面目なだけだったのかもしれない。私がやる気がないって思ってたみたいで」
「ふうん」
「やる気ありますって言ったら、やっとちゃんと教えてくれるようになって」
「…そうなんだ。じゃ、手取り足取り…」
「うん」
「なわけないよね」
聖君の、「なわけないよね」と、私の「うん」が重なって、聖君が、ちょっと間を置いて、
「え?」
って、聞き返してきた。
「え?」
私も思わず、聞き返した。
「手取り足取り、なわけないよね?」
と、もう一回聖君が確認してきた。
「えっと」
私は、どう返事をしようか、困ってしまった。
「…………」
黙ったまま、聖君は私を見ている。その目が、なんだか私の心の中を、探ろうとしているように見える。そして、
「隠し事はなしだよ?」
と、聖君に言われてしまった。ずるい。さっきは、自分は特別って言って内緒にしたくせに。でも、隠せそうにもない。なにしろ、さっき「うん」と言ってしまったし…。
「本来はね、そういうの駄目なんだって。でも、本人の承諾を得たらいいのかな?よくわかんないけど、コーチに前もって、OKかどうか聞かれて」
「何を?」
「だから、足とか持ったりして、指導をするのを」
「まじで、手取り足取り、教えてもらってんの?」
「足だけ」
「あ、足だけって…。桃子ちゃんの足を持って、教えてくれたってこと?」
「私が、口で説明するだけじゃ、わからなさそうだからって」
「それで?!」
みるみるうちに聖君は、怒った表情に変わっていった。
やっぱり、ばらさない方が良かったかな。
「…………。何それ。妄想がなんで、現実になってんの?それもなんで、相手が他のやつなんだよ?」
聖君は、下を向いて、小声でそう言うと、しばらく、目をぎゅってつむって、
「く~~~~~~~~」
と、本当に悔しそうにしていた。
「そういう妄想してたの?」
私は、悔しがってる聖君のことはよそにして、そんなことを聞いてみた。
「え?え?あ!」
聖君は、顔をあげて、慌てた。
「いや、えっと…」
頭をがりって掻いて、聖君は、何かを言おうと考えている様子だったけど、何も言葉にならなかったようだ。
「食べ終わった?もう、出る?」
しばらく黙っていた聖君は、水を飲みほすと、そう言ってきた。
「うん」
それから、レストランを出て、私たちはプールに向かった。
「……」
プールに向かう途中も、聖君は下を向いたまま歩いていて、さっきのウキウキワクワクはどこかに飛んで行ってしまったようだ。
「ごめんね」
「え?」
私が謝ると、聖君はびっくりしてこっちを向いた。
「ちゃんと、コーチに断ればよかった。そういうのは、やめてくださいって」
「……。いや、その…。まあ、コーチは別に下心があったわけじゃないだろうし」
聖君はそう言うと、下を向いた。そして、
「俺が勝手に、嫉妬してるだけだし…」
そう言うと、ちょっとため息をついた。
「っていうか、俺の場合は下心丸出し」
「え?」
それを聞いて、びっくりしてしまった。
「今日も、思いっきり、桃子ちゃんといちゃつけるよな~~なんて、思いながら来たし」
「え?」
ますます、驚いていると、
「呆れてる?もしかして」
と、聞いてきた。
しばらく、私は黙っていた。黙ったまま、下を向いて、とぼとぼと歩いていた。隣で聖君は、私の歩く速度に合わせて、とぼとぼと歩いていた。そして、しばらくすると、
「桃子ちゃん?」
と、ちょっと弱々しく聞いてきた。でも、それにも返事をせず、私は黙って歩いていた。
「桃子ちゃん、やっぱ、呆れてる?っていうか、怒ってる?っていうか、嫌がってる?っていうか」
聖君は、ちょっとおろおろしてる感じだ。
「あ、ごめん。聖君、何?」
私は、本当に聖君の声があまり、聞こえてなくって、聞き返した。
「いや、だから…」
「ごめん。聞いてなかった。何?」
「聞いてなかったって?」
「妄想してた」
「妄想?!」
実は私も、もしコーチでなくて、教えてくれてたのが聖君だったらどうしてたかなって、妄想してた。足なんか持たれたら、やばい。恥ずかしいやら、ドキドキするやらで、パニックを起こしてたかな。じゃ、これからプールで、聖君に、そんなふうに泳ぎを教えてもらったら、わあ、恥ずかしすぎて、教えてもらうどころじゃないかも。そんなことを考えてたら、まったく声が聞こえてなかったようだ。
いや、聞こえてたんだけど、答えるどころじゃなくなってた。
「あのね」
「うん」
「あの」
「うん」
妄想したら、めちゃ恥ずかしくなったなんて言えないよな~~。でもな、そういうのも、隠してたら駄目なのかな。
「もしね、コーチが聖君だったらってちょっと今、考えてたの」
「そうしたら?」
「うん。思い切り、恥ずかしいかなって」
「なんで?!」
「だって、聖君に、足とか、お腹とか、触られるのはちょっと」
「お腹?!!!!」
「え?」
「お腹も?」
「あ、お腹を支えてもらいながら、バタ足の練習もしたから」
「…………」
聖君の顔が固まった。そのあと、ものすごい悔しそうな顔をした。
「もう、やめない?そのスクール」
「え?」
「嘘。今のは、嘘です。冗談です。ただ、悔しいです、俺…」
そう言うと、聖君は小声で私と反対の方を向いて、
「ちきしょう~~~~~」
と、言って、地団駄を踏んでいた。