第10話 寂しさ
無料体験の日がやってきた。水着に着替え、コーチに呼ばれ、プールサイドにいった。私以外にも、女の子が二人来ていて、やはり、私と同じでまったく泳げず、学校での授業で困るからという理由で、来たようだ。
私の通う学校は、水泳は自由選択で、受けなくても大丈夫だったから、私は中学1年の頃から、受けなかったんだよね…。それに、小学校の頃はなぜか、夏に中耳炎になったりして、プールに入れなくて、それも、泳げない理由の一つかもしれないな。
コーチは、優しそうな若い体育会系の女のコーチ。日に焼け、体型は、逆三角形型。肩なんて男の人並みに、いかつかった。でも、笑顔も話し方も、教え方もすごく優しい。
「椎野さん、じゃ、顔をつけてみましょうか」
そう言われ、顔をつけるけど5秒と持たない。水が怖くて、顔をまともにつけることもできない。
「ぶわ!」
と顔を出し、手で思い切り顔を拭く。でもコーチは、そんな私に、
「あ、良くできました。その調子です」
と言ってくれる。
他の子たちにも、一つ何かをするたびに、褒めていて、このコーチならついていけるかもっていう勢いで、私も、他の子たちも、無料体験の時間が終わり、着替え終わると、すぐに受付に行き、申し込んでしまっていた。
体験が終わり、プールから上がっても、そのコーチは、
「今日はみなさん、素晴らしかったです。泳げるようになる日も、すぐですよ」
なんて言ってくれたから、私も他の子たちも、テンションがあがったようだ。受付に行く間も、
「なんか、泳げるような気になってきた。私、頑張る」
「うん、私も!」
「一緒に、頑張ろうか!」
なんて、盛り上がってしまっていた。
申し込みをしていて、初めて私はその子達の年齢を知った。一人は私と同じくらいの背で、まだ、小学校6年だった。もう一人は、胸も大きかったし、背も高かったから、高校生だと思っていたけど、中学3年生だった。
ああ…。年下だったんだな~~。
家に帰る電車の中、幹男君に、
>スイミングスクール、申し込んだよ。
と、メールした。すぐに、
>やったね!桃ちゃん。頑張ってね。応援してるよ。
と、返信が来た。
もし、聖君に言ったら、なんて言うかな。驚く?それとも、そんなことしなくてもいいって言う?わからないけど、やっぱり、言う気になれず、もう少し内緒にしておこうと思った。
菜摘たちに言っても、聖君にばれちゃうかもしれないから、菜摘たちにもしばらく、内緒にしておくことにした。
翌週から、早速通うことになった。毎週火曜、夜6時から。私は5時半にはスクールに着き、水着に着替え、準備をしていた。そこへ、例の中学3年の子がやってきて、
「あ、よろしくお願いします」
と、頭を下げられた。それから小学校6年の子も来て、
「こんばんは」
と、恥ずかしそうに挨拶をしてきた。
3人揃って、プールサイドに行くと、あの優しいコーチの姿が見当たらず、その代わり、背の高い逆三角形の体型の、男のコーチがいた。
「えっと…。初心者コースに、申し込まれた3人ですか?」
と、その人が言う。
「あ、はい」
緊張しながら、3人で返事をすると、
「僕が担当のコーチの、森山蓮です。よろしくお願いします」
と、言ってきた。
「え?」
3人とも驚いて、中学3年の子が、
「この前のコーチは?」
と聞いた。
「米原コーチですか?米原は、先週いっぱいで、他店に異動になりました」
「ええ?」
そんな~~…。あのコーチだったらついていけると思ったのに…。と、私はがっかりした。他の子たちもがっかりしてると思ったら、中学生の子なんて、目をハートにさせ、森山コーチのことを見ていた。
「えっと、お名前は、椎野さん」
「はい?!」
いきなり呼ばれ、声が裏返った。
「あ、お名前を確認しただけですから。それから、根本さん」
「はい…」
小学校6年の子が答えた。
「それと…、小松さん」
「はい」
「はい、この3人ですね。では、準備体操を始めましょうか」
プールサイドで、コーチの掛け声のもと、準備運動を始めた。
私は複雑だった。なにしろ、男の人が苦手というか、免疫がないというか。女子高にずっと行っているからな~~。
幹男君や聖君は、話しやすいけど、どうも、こういう体育会系の人は、苦手。だから、実はほんのちょっと、基樹君も苦手だったりする。
準備運動が終わると、コーチは先にプールに入り、
「さ、入ってください」
と、無表情のまま、そう言った。あ、わかった。苦手な理由の原因。この人、ずっと笑顔がないんだ。
「椎野さん、入ってください」
「はい」
他の子達よりも、出遅れてプールに入った。
「では、真ん中の方まで来てください。それから、10秒顔をつけてみましょうか」
え??真ん中?それにいきなり、10秒?
「はい!」
いきなり、コーチが手をたたいて合図をした。
私以外の二人は、顔を水につけた。
「椎野さんもですよ」
と、コーチにまた無表情で言われ、私も顔をつけた。
でも5秒で、顔を上げ、必死になって顔を拭いた。
「…。椎野さん、まだ10秒たってないですよ」
ものすごく冷静にそう、言われてしまった。他の子たちは、10秒顔をつけることができていた。
「じゃ、次は、頭のてっぺんまで、潜ってみましょうか」
え??!!!
「はい!」
またいきなり、手をたたかれた。
二人を見ると、足を曲げたり、しゃがみこむようにして、潜ってしまった。私は、おろおろしてしまったが、コーチに、
「椎野さん。聞いてましたか?頭まで、潜ってください!」
と、大きな声で、言われてしまった。
思い切り息を吸い込み、頭まで潜ろうとした。でも、その前に怖くなり、顔を上げてしまった。それも、顔を上げる時、息を吸ってしまったのか、鼻に水が入り、思い切り、むせてしまった。
「根本さん、小松さん。よくできていました。では、ビート版を持ってきて、少しバタ足の練習をしましょうか」
コーチは、私の名前は言わなかった。
「ビート版は、あそこにあります。プールから出て、ご自分で持ってきてください」
「はい」
二人は、プールから上がると、ビート版を取りに行った。私は、どうしたらいいものやら、おろおろとしていると、
「椎野さんは、まだです。顔をつけるのをもっと、練習しないと」
とコーチに、また無表情で言われてしまった。
ああ…。駄目だ。なんだか、どんどんへこんでいく。
二人ともう、差がついてしまった。というか、二人とも、ビート版を持って、上手にバタ足もしてて、泳げないことなんてないじゃないかって思えるほどだ。
「小松さん、もう少し足を曲げないで伸ばして。根本さんは、その調子です」
コーチは、若干明るい声で、二人にそう言うと、こっちを向いて、
「椎野さん、じゃ、10秒顔をつけてみましょうか?」
と、低い声で言ってきた。
すうっと息を吸い込み、顔をつける。でも、今度は3秒も持たない。
「水の中で目、開けてますか?」
コーチが聞いてくる。
「いいえ」
「目を開けてください、ちゃんと」
コーチが、声に抑揚をつけずに言う。
米原コーチって言ったっけ?どうして他店に移動なんてなったの?どうして、初心者にこのコーチなのよ?!
落ち込むのと同時に、腹まで立ってきた。せめて、笑顔とか、声にも優しさとかあれば、こっちだって、少しはやる気が出てくるのに…。
もう一回、目を開けて、顔をつけた。
「1、2、3」
コーチが、数を数えているのが聞こえる。
「8、9、10」
10まで数え終わり、私は慌てて顔を上げた。苦しくって、どうにかなりそうだった。息もぜえぜえいって、顔を必死で拭いていると、
「やればできるんですから、ちゃんとやってください」
と、また無表情で言われてしまった。
「……」
こっちは、必死なのに。水に顔をつけることだって、怖いのに。
「少しここで、顔をつける練習をしててください。僕は小松さんと、根本さんの方を見てきますから」
コーチはそう言うと、プールの中を悠々と泳いで行ってしまった。
泣きそうになった。でも、こんなことで泣いたりするのも、悔しかった。
もう一回顔をつけた。顔が水で濡れて、泣いてるんだか、どうだかもわからなくなった。悔しくて、涙が勝手に出ていたかもしれない…。
コーチを見ると、小松さんにやたらと、アドバイスをしてあげてて、たまに和らいだ表情も見せていた。もう、明らかに態度が違う。
暗い…。一気にやる気をなくしてしまった。その日は、顔をつける練習だけをして、私は終わった。
ロッカールームで着替えていると、小松さんが、
「あのコーチ、かっこよかったよね」
と話しかけてきた。
「そうかな。私はあまりそう思わなかったけど」
そう答えると、小学校6年の根本さんまでが、
「かっこよかったです」
と、ほっぺを赤らめていた。
聖君の方が、何百倍もかっこいい。それに優しいし、それに可愛いし、それに素敵だし、それに、それに…。ああ、悔しさでまた、涙が出そうになった。
小松さんも、根本さんも楽しそうに話しながら着替え終わると、
「それじゃ、椎野さん、さようなら」
と、先にロッカールームを出て行った。
「はあ…」
私は、力なくロッカールームにある椅子に座り、しばらくぼけっとしてしまった。そのあと、ドライヤーで髪を乾かしながら、また思い切り、ため息をついた。
「こんなで、泳げるようになるのかな」
いったいいつ泳げるようになり、聖君を驚かせられるんだろうかと、また落ち込んだりもした。
でも、1番に思うことは、今、聖君に慰めて欲しいってことだ。きっと、大丈夫だよって言ってくれたり、何か私が笑うような冗談を言ってくれたり、励ましてくれるんだろうな。あの優しい可愛い笑顔で…。その笑顔が無性に恋しくなり、切なくなり、悲しくなった。
家に帰ると、食卓に幹男君がいた。
「お帰り。お邪魔してます」
と、私に向かって、言ってくると、
「今日のスイミングスクール、どうだった?」
と、笑顔で聞いてきた。
「う…」
私は、言葉を失った。
「まあ、いいから、座ってご飯食べなさい、桃子」
母に言われて、席に着き、私もご飯を食べだした。
「そんな初めから、泳げるようになったりしないわよ。ねえ?幹男君」
「なんで、お母さん、わかるの?」
「落ち込んでいるのが、一目瞭然だもの」
「そうか…」
そうかもしれない。なにしろ、ご飯を食べながらも、私は大きなため息をしているんだから。
ご飯が終わると、幹男君はお茶をすすりながら、
「あの優しい女のコーチだったんでしょ?」
と、聞いてきた。
「ううん」
「あれ?違ったの?」
「なんか、すんごく冷たい、男のコーチだった」
「なんだ、そうだったんだ」
幹男君はそう言うと、
「冷たいって、何か、ひどいことでも言われたとか?」
とちょっと、心配そうに聞いてきた。
「ううん。別に…。な~~んにも、言ってくれなかった」
「ああ。なんにも言ってくれないのも、けっこう嫌なもんだよね」
「うん…」
「ま、始まったばかりじゃん。頑張れよ」
「うん」
幹男君の言葉に、うんと答えたものの、私の気持ちがあがることはなかった。
その重い気持ちを持ったまま、お風呂に入り、さっさ私は寝ることにした。
「メールだよ!」
その時、聖君からメールが来た。
>今週末、空いてる?デートしよう!
う、嬉しい。嬉しすぎる!
>空いてる。全然空いてる!
と、すぐに返信をすると、聖君は、
>良かった。じゃ、待ち合わせとかそういうのは、またメールするね。
と、返信してきた。そして、
>わかった。メール待ってるね。
と送ると、
>おやすみ
と、それだけのメールをくれた。え?もう?たったのこれだけ?
>おやすみなさい。
私もそう返したけど、なんだか前みたいにずっと、メールをすることがなくなっちゃったって、悲しくなった。ううん、勉強もあるんだし、そんな時間聖君には、ないんだよね…。そんなの私のわがままだよ。
聖君からの、おやすみの文字をぼ~~っと眺めながら、また私は寂しさと切ない気持ちを、味わっていた。