第4話
株式会社ドッペルゲンガー・ビバレッジの本社工場は、さいたま市大宮区の郊外にあった。
「これが調合タンクです」
作業服を着た白髪の男が言った。
「『ドッペルゲンガー』の原液と炭酸、シロップ、その他の溶液をここで混ぜ合わせます」
ベルトコンベアーの周囲に巨大な複数の装置が並び、作業服姿の工員がせわしく動き回っている。
白髪の男は、社長の岩井修三。今年還暦になったばかりだ。
増山亮介と飯塚洋二は岩井の後について行った。
工場のラインを見学するのは、小学校のときの社会科見学以来だ。増山はそう思う。
「このタンクが原液タンクです」
薄緑色の巨大なタンクだった。
「原液の成分は企業秘密でして実は私どもも知らないんです」
「えっ、そうなんですか」
飯塚が頓狂な声を上げる。
「米国のドッペルゲンガー・コア社から冷凍状態で空輸してます。原液の中身を知っているのはコア社の社長と副社長の二人だけという話です。
私どもはコア社のフランチャイズでして」
『ドッペルゲンガー』の成分はこの男も知らないのか。増山は名状しがたい緊張を覚える。あえて秘密にするにはそれなりの理由があるはずだ。
「こちらが充填装置です。缶に液体を注入します。
その隣が殺菌装置です。それからこちらは封緘装置でして......」
岩井の説明が延々と続くと飯塚が軽くあくびをしたので、隣の増山がこづく。
ラインを見学すると、長い廊下を通って応接室に案内された。
ほころびのある灰色の古いソファーがガラステーブルを囲んでいる。殺風景な応接室だ。
増山と岩井は向き合い、飯塚は増山の隣に座る。
「ところで」
岩井が言った。
「警察の方がお越しになるとは、なにかうちが事件と関係しているからでしょうか。
先日、医薬品医療機器総合機構の方がうちに査察に入りましたが、その件と関係ありますか」
「いえ、そういうわけではありませんが」
増山が言った。
「まあ、われわれ警察としましても、いろいろ事情聴取したいことがございまして」
「ニュースで知りましたが、大阪で殺人事件が起きましたでしょう。犯人は人間ではなく、『ドッペルゲンガー』の分身とのうわさがネットに散見しますが、今日はその件でいらしたのですか」
心斎橋筋の殺人事件について増山は大阪府警から情報を得ていた。
被害者は梅村義男、四十歳。広域指定暴力団の幹部で心斎橋筋近辺のソープランドを経営。
事件当日、ソープ嬢とけんかになり、店を飛び出たソープ嬢を梅村がジャックナイフを持って追いかけた。
梅村が心斎橋筋でソープ嬢を暴行していたところ、通りがかりの男がソープ嬢を助け、梅村と取っ組み合いのけんかになった。
結局、梅村のジャックナイフを通りがかりの男が奪い、梅村を刺し殺した。
複数の目撃者の証言では、その後、通りがかりの男の全身は下半身から上半身に向けて段階的に透明になり、夜の大気に溶けるように消滅したという。
まさしく彼は都市伝説の分身そのものだった。
気まずい沈黙の後、増山が口を切った。
「ところで岩井社長は『ドッペルゲンガー』にまつわる分身の都市伝説についてご存じですか」
「ええ、よく存じ上げております」
岩井が言った。
「都市伝説はコア社の人たちからも聞かされてます」
「コア社ですか?」
「もともとコア社はダーパ、すなわち米国軍事高等研究計画局の下請けで、軍需系ケミカル製品を研究開発していたメーカーです。
今回、はじめて民生用炭酸飲料業界に参入したと聞いてます。
ですから『ドッペルゲンガー』はもともと軍事兵器として最初は開発したものを、民生用にアレンジしたらしいです」
「ではやっぱり『ドッペルゲンガー』を飲むと分身するんですか」
「さあ、そこまでは私も断言できません。
ただし都市伝説ですと、『ドッペルゲンガー』を飲むと飲んだ本人そっくりの外見をした分身が生じることがあるとのことです。
しかもときには飲んだ本人がいる場所から何キロも遠方に分身が出現することもあるそうです。もちろんすぐそばに分身が現れることもあります。
分身は通常は飲んだ本人と等身大ですが、ときには百メートルの巨人になったり、十センチの小人になることもあるようです」
「分身と普通の人間の見分け方はありますか」
「はい。分身の一番の特徴は無口なことでしょう。普通の人間とちがって言葉をしゃべりません。
ただし例外的によくしゃべる饒舌な分身もいるようですが、まあレアケースでしょう」
「そうなんですか」
飯塚が口をはさむ。
「それともう一つ。分身はしばらくすると全身が消えるという特徴があります」
そう言い終わらないうちに、岩井の下半身は透明になる。
「どうなってるんだ」
飯塚が立ち上がる。
岩井は上半身も消え、忽然と姿を消した。
飯塚は岩井がさっきまで存在した空間を両手でかき回すが、そこには空気しかない。
よくしゃべるじゃないか。増山は胸の中で毒づいた。おまえさんが、レアケースの分身だったのか。
(つづく)