第3話
豊玉信用金庫本店の社員食堂はいつもより空いていた。
テーブルの端の席に座り、自販機で買った『ドッペルゲンガー』のタブをあけ、一口すする。
富島聡は吐息を漏らす。
いつもの味......。甘さの中に独特の苦みがある。全身が炭酸の液体と同化するような、みずみずしい体感だ。
「ここいいかな」
木下課長が日替わり定食の盆を持って向かい側に座る。
「君はなにも食べないのかね」
「ええ......食欲がないんで」
「しっかり食べておいた方がいいぞ。でないと午後から仕事ができないぞ」
富島は「はい」と言いながら、缶ジュースをもう一口すする。
昼休みぐらい課長の顔を見ないで過ごしたい。富島はそう思う。こいつの顔を見るとますます食欲が減退する......。
「この前、新宿西口方面に出張したとき、昼飯時だったんでホテルのバイキングに寄ったんだ。
最近のホテルのバイキングは豪華だねえ。グルメ好きにはたまらんよ」
「……」
「富島君も確か、新宿西口の顧客を担当してなかったかな。機会があったらよってみるといいよ
確かこの前バイキングを食べたホテルはホテル・クロウリーだったかな」
「そうなんですか。名前だけなら聞いたことがあります」
富島は機械的に答え、軽く目をつぶる。
トミシマはあたりを物色した。
ホールの床は赤い絨毯が敷き詰められていた。
白いテーブルクロスで覆われた長テーブルが壁際に並び、色鮮やかな料理が並んでいる。
丸テーブルには多くの客が食事をしながら穏やかに歓談している。
トミシマば取り皿に料理を盛っていく。
グラタン、ビーフウエリントン、ガパオライス、餃子、寿司、カルビ焼肉,…盛りながらその場で食べた。
サーロインステーキを見つけると取り皿に盛りつけず、ブッフェトレイからそのままステーキを二枚取って直接食べる。追加でもう一枚食べようとすると、
「お客様」
振り向くと蝶ネクタイをしたタキシードを着た男が立っている。
「申し訳ございませんが、こちらのサーロインステーキは御一人様一枚までとさせていただいております」
トミシマは右手でタキシードを着た男をにらみつける。男の胸のバッチにはホテル・クローリーのロゴマーク。
「追加料金をいただいておりますのでお帰りの際はレジで精算をお願いいたします」
男がそう言い終わらぬういちにトミシマは片手で男の胸元をつかみ、そのまま男の体を軽々と持ち上げる。
男はわめきながら足をばたばたさせる。
トミシマは男を放り投げる。
老夫婦が食事をしている丸テーブルの上に男の全身が投げ出され、テーブルは真っ二つに割れる。
老夫婦の悲鳴。隣のテーブルの客の顔にスープがかかる。
床に仰向けに倒れたタキシードの男の顔をトマトソースが汚し、胸と腹の上はパスタ料理が占拠した。
トミシマは周囲の視線を感じつつ、ドリンクバーまで走る。
ドリンクディスペンサーに『ドッペルゲンガー』を見つけるとグラスに注ぎ、おもむろに口にする。体が水と一体になるような独特の感覚が全身に浸透してくる。
ほどなくして数人のホテルの従業員や警備員がトミシマを取り囲む。
「お引き取りください。警察を呼びますよ」
周囲から自分を非難する声が聞こえるが、徐々に視界と意識が透明になっていく。
「聞いてるのかね、富島君」
富島はふとわれに返る。
目の前には木下課長の不機嫌な顔。
「なにを話してもうわの空か。それだから君はいつも集中力が足りないんだ。集中力が足りないと仕事でミスをしやすくなる。ちがうか」
「はあ、すいません」
富島は謝罪するようにこうべを垂れる。
「バイキングのお話でしたでしょうか」
「ちがうよ。それはさっきの話。今話したのは政治の話だ。米国が関税を引き上げたら日本経済全体に影響をおよばすだろう。うちの顧客もなんらかの影響を受けるはずだ」
「ええ、そうですねえ」
こんなところで仕事の話なんかするなよ。富島は胸の中で毒づいた。仕事は大事だが、休み時間は仕事以外のことをしたり、考えたりする時間のはずだ。
これだから課長のような昭和気質の人間は苦手だなあ。
木下課長が日替わり定食を食べ終えて席を立った後、富島はスマホをいじってみる。
ホテル・クロウリーのことが気になったので、SNSで検索してみた。
するとマナーの悪い客がバイキングを食べているといった書き込みを複数目にした。
マナーの悪い客は人間ではなく、『ドッペルゲンガー』の分身だという書き込みも見つけた。
アップされた動画を再生してみる。
たまたま居合わせた客が撮影したものらしい。
ホテルのバイキング会場で一人の客がホテルの従業員を丸テーブルの上に投げ飛ばす。会場から悲鳴が上がる。この客はどことなく富島に似ている。
シーンがかわりドリンクバーのところでさっきの富島に似た男がグラスに入れたジュースを飲んでいる。
飲み終わると、男の下半身は次第の透明になっていき、ついには上半身も透明になり、最後は画面から消え去った。
富島はアプリを終了し、周囲を見回してだれにも今の動画を見られたないことを確認してから、スマホを腰のホルダーにしまう。
ひょっとしたら、こいつはおれの分身なのか。でもそんな話、とてもじゃないけど信じられない。
社員食堂にいた自分が二つに分裂......一つが新宿のホテルに出現……。おれの分身がホテルのビュッフェでマナーの悪い客になる……。科学的にも常識的にも到底ありえない。
富島は『ドッペルゲンガー』の缶を握りつぶす。
(つづく)