第10話
「ではそういうことで」
富島聡が言う。
「今月末に800万円融資いたします。今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ助かります、なんとか延命しました」
江古田オート株式会社の青島社長が頭を下げる。
富島は一礼して社長室を後にする。
廊下を歩いている途中、ドアが開けっぱなしだった「医務室」のプレートがある部屋をふとのぞき込む。
すると診察台に作業服姿の女が座って煙草を吸っている。
三上由香里だ。
「なんだ、君じゃないか」
「あれっ、富島さん。なんでここにいるの?」
「仕事でここに来たんだよ。江古田オートはうちの取引先だから」
「まあ、こっちにおいでよ」
富島は言われたまま医務室に入り、由香里の隣に座る。
由香里は作業所で排気ガスを吸って気分が悪くなったので、ここで仕事をさぼっているところだと説明した。
「ここ、禁煙じゃないの?」
富島が訊く。
「まあ、本当はそうだけど」
由香里は煙を吐きながら携帯灰皿に煙草を押し付ける。
富島はバッグから『ドッペルゲンガー』の缶ジュースを取り出し、タブを開け、一口すする。
「それ飲ませて」
由香里が無理やり富島から缶ジュースを取り上げ、一気に飲み干してしまう。
「ちょっと君、ひどいじゃないか」
「ごめん、喉が最高に乾いてたの」
富島と由香里はしばらく言い合いになった。
そのうちにふと富島は自分たちの正面に一人の女が佇んでいるのに気づく。
女は由香里そくりの顔をしており、赤ん坊を抱いていた。
富島は女が由香里の分身――ユカリであることを直感する。
「あんた、なんで出てきたの」
由香里が驚いて立ち上がる。
ユカリはなにも答えず、由香里に赤ん坊を押し付ける。
由香里は反射的に赤ん坊を抱きかかえる。
するとユカリの全身は徐々に透明になり、最後は完全に消滅する。
由香里は赤ん坊を抱えたままゆっくり腰を降ろす。
「多分、缶ジュース飲んだから、あいつが出てきちゃったんだ」
由香里がつぶやく。
「そんなことより」
富島が言う。
「この赤ちゃん、ぼくたちの子供じゃないかな」
「えっ?」
「厳密にはぼくと君のドッペルゲンガーの間に生まれた子だ。
この前の夜、ぼくは君のドッペルゲンガーとセックスしただろう。
あのとき妊娠してできた子供がこの赤ちゃんじゃないかな。
顔だってどことなくぼくにも君にも似ているし。
ぼくが認知したっていい」
「認知って……マジで言ってるの?」
「もちろんさ。よかったら、ぼくと結婚してこの赤ちゃんを一緒に育てないか。
君はぼくのマンションに引っ越して三人で一緒に暮らすんだ。
うちは4LDKだから三人でも狭くないだろう。
君は専業主婦がいいかな。それともこの仕事続けるかい。
ここの職場ならぼくのマンションからも通えるし」
「あんた、狂ったの。自分でなに言ってるかわかってんの」
すると由香里の腕の中にいた赤ん坊が突然、消える。
「あれっ、どうしちゃったの」
次の瞬間、富島が赤ん坊を抱えている。
「すごいなあ」
富島が言う。
「この赤ちゃん、人間とドッペルゲンガーのハイブリッドだろう。だから普通の人間とちがって、姿を消す能力が備わってるんだよ」
由香里は大きく吐息を漏らす。
「富島さん、とにかくあんたとは結婚しないからね。これだけは覚えといて」
(つづく)