第9話 一か八かの賭け
「エイリオ!」
ガレンさんが槍斧を構えながら呼ぶと同時に、エイリオくんが咄嗟に身を翻す。
しかし――
「ぐっ!」
完全には避けきれず、グリードウルフの牙が彼の右腕を裂いた。
荷台の上に赤い血が飛び散る。
間髪入れず、ガレンさんの槍斧がグリードウルフの頭を正確に突き刺す。
ズシュッ、という鈍い音とともに魔物は絶命した。
ガレンさんが槍斧を引き抜き、グリードウルフの死体を馬車の外へと放り投げる。
「合理で計れぬ動き……たとえば、こんな動きだな」
ガレンさんが淡々と言った。
いまだ警戒を解いてはいないのだろう、会話しつつも鋭い視線で周囲を見回している。イレーナさんも御者をしている商人さんに問題ない旨を伝えながらも、ガレンさんの死角をカバーするように森へ視線を向けていた。
「いったぁ……勉強に、なったっす……」
エイリオくんが右腕を押さえながら、苦笑いを浮かべる。
私は彼の腕から流れ出ている血を見て、青ざめた。
「エイリオくん! 血が……血がっ!」
声が震える。
なぜ、みんなが平然としているのかがわからない。
こんなにも血が流れているのに。
この世界には魔石や魔術など便利なものはあるが、回復薬などは存在せず、傷を瞬く間に治す方法は治癒聖術以外にない。そしてこの場には誰も、治癒聖術を使える人間はいないのだ。
「これぐらい、大したことないっすよ……」
エイリオくんが軽い調子で言う。
でも、その表情は明らかに苦痛に歪んでいる。
「大したことないわけがないでしょう!」
私は慌てて革製の荷袋から清潔な白い布を取り出し、エイリオくんの傷口を押さえた。でも、どうしよう、血が止まらない……!
おろおろする私に、エイリオくんが言う。
「あの、オレ魔力持ちなんで、マジでそこまで心配しなくても大丈夫っすよ。これぐらいの出血じゃ死なないっす」
魔力持ちは常人と比べ、身体能力が非常に高い。それは純粋な生命力も含むのだろう。
だからエイリオくんの言う通り、これぐらいで死なないのは本当なのかもしれない。でも人間である以上、血を流し続けて大丈夫なはずがない。その証拠に、大丈夫だと言うエイリオくんの顔色がどんどん悪くなっている。
ガレンさんやイレーナさんの顔を見ると、その表情は深刻そうで、とても楽観視できる出血じゃなさそうに見える。それでもイレーナさんは私と目が合うと、微笑んで私の肩に手を乗せた。
「弟の手当てありがとね。でも落ち着きなよ。本当に大丈夫だから」
「そんな、でも……」
じゃあ、なぜそんなに深刻そうな表情をしているのか。
私の考えていることを悟ったのか、イレーナさんは首を小さく横に振りながら言った。
「慌てたって仕方がないし……それにアタシたちは、最悪の場合を考えてるだけだから。そうだよね、ガレンさん」
イレーナさんがガレンさんを見上げると、彼は眉間を指で押さえ、大きくため息をついてから答えた。
「…………そうだな。そうならないことを願っているが」
「ちょっと、不吉なこと言わないでくださいよ……これぐらいの出血じゃ死なないって、言ってるじゃないすか……」
エイリオくんの声はか細く、もうほとんどさっきの勢いが残っていない。
目を閉じかけながら、かろうじて私の顔を見上げていた。
「バカ、横になりなって……すぐに治療はできないんだから、こんなところで体力使うな」
「え……ちょっと姉貴、なんで泣きそうになってんの? 次の村はそんな遠くないだろ? 教会に行けば治してもらえるから、そんな悲観しなくても……」
「エイリオ」
大人しく横になりながらも首を傾げているエイリオくんに、ガレンさんが重々しい声で言う。
「次の村には、治癒聖術使いはいない」
「え……マジです?」
「ああ。今朝発った町の教会で聞いたから、間違いないだろう。というより昨日の晩、旅の打ち合わせ中に言っただろうが」
「……聞いて……なかったっす……」
エイリオくんがうめくように答える。
「これに懲りたら、今後は警戒を怠らないことだな。……その前に、今後があることを祈らなくてはならんが」
「ちょっ、やめてくださいって……マジで死にそうな気分になってきた……」
「今朝までいた町に戻るのは!?」
私は思わず声を上げた。あの町の司祭様は治癒聖術使いという話だ。
あそこに戻れば、きっと治せるはず。
「冒険者の負傷によって来た道を引き返すかどうかは、揉め事の元になりやすいからな……護衛の契約時、すでに商隊の責任者と話し合っている。負傷時にも引き返さないとな」
「引き返したときの損害金を払えるお金なんてウチのパーティーにはないし、護衛の冒険者はアタシたちだけじゃないしね……」
ガレンさんとイレーナさんは、そう言って目を伏せた。
それを見て、エイリオくんが力なく呟く。
「ああ……どうせ終わるなら、超強い魔物と戦って激闘の末にとか、ダンジョンでレアアイテムを手に入れてからとか、可愛い彼女を守ってとかが良かったな……こんな、しょうもない終わり方するなんて……」
「そんな……諦めないでください。これぐらいじゃ死なないんでしょう……?」
今さらながら、目の前で人が死んでしまうのだという実感が湧いてきて、涙が出てくる。
それを見たエイリオくんは驚いたように目を見開き、次に気まずそうな表情で口を開いた。
「あー……あの、リシアさん。その……さっきも言ったんですけど……」
「――女神様」
もはや一刻の猶予もないと思った私は、一か八かの賭けに出た。
「女神様、私に治癒聖術を授けてください……お願いします!」
私は無力だ。
目の前で死にかけている人ひとり救えなくて、何が聖女か。何が世界平和か。
「女神様……女神様!」
空に向かって、何度も何度も必死に呼びかける。
するとしばらくして、空からふわりと、柔らかな光が差し込んできた。
頬に触れる風が止まり、空気が静まり返る。
そして、頭の中に声が響いてきた。
『……なに? 今、寝てたんだけど』
「起き抜けにすみませんが、私に治癒聖術の力を授けてください!」
私の要求に女神様が不機嫌そうな、やや低い声で答える。
『あなたにはもう、望んだ力と加護をあげた。聖女に与えるのは、ひとつの力とひとつの加護だけ。歴代の聖女みんな、そう』
感情に任せてまくし立てたくなる気持ちをぐっと抑え、努めて冷静に、淡々と女神様に意見する。
「歴代の聖女様がそうだったからといって、前例に沿うのはどうかと思います。むしろ今まで女神様のご期待に沿う結果が得られなかったのは、ひとつの力とひとつの加護だけだったからなのでは?」
「え、えっと……リシアさん? リシアさんは魔力持ちじゃないから、女神様に祈っても治癒聖術は覚えられないと、思うんすけど……」
エイリオくんが恐る恐る、といった感じで話しかけてくる。
ドン引きしている気配がするけど、こちらは女神様と交渉している真っ最中だ。なりふり構ってなんかいられない。
『でも、あなたがダメだったらまた、次の聖女に力をあげなきゃいけないから。わたしの力も、無限じゃない』
「今からダメだったときのことを考えないでください。っていうか、ケチケチしないでくださいよ! 二千年も寝てたんだから力溜まってるでしょ!?」
思わず本音が出てしまう。
人の命が懸かってるんだから、つべこべ言わず早く力をよこしてほしい。
『……もう、うるさいな。わたしにそんなこと言うの、リシアだけだよ』
女神様がそう言うと、私の身体が光り輝き始めた。