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第6話 足止めプラン

 目を見開いたまま、兄さんはまばたきすら忘れているようだった。

 時間が一瞬、止まったかのような静寂が辺りを包んだ。


「……リシアが僕のことを『お兄ちゃん』だなんて呼ぶの、随分と久しぶりだね」


 やっと口を動かした兄さんが、少し目を細める。

 懐かしさを噛みしめるような声音だ。


「だって、兄さんが禁止したんですよ。まだ十歳のくせに、妙に大人びた顔で

『これからは敬語を使いなさい。僕のことをお兄ちゃん、と呼ぶのもダメだ』って」


 私がそう返すと、兄さんは苦笑を浮かべた。


「覚えてるよ。あのときは、この世の終わりみたいな顔してたよね」


「実際、終わったと思いましたよ。まさか兄さんが私に、修道女として相応しい教育をしようとしているなんて、思いもしませんでしたから」


 ふふ、と互いに短く笑い合う。けれど、すぐにまた沈黙が降りてきた。

 兄さんはそっと目を伏せたあと、窓の外に視線を向ける。

 そしてガラス越しに空を見上げながら、どこかしみじみとした口調で言った。


「……あの小さかったリシアが、こんなに大きくなって、聖女にまでなるなんてね。父さんと母さんに話しても、絶対信じないだろうな」


「そうですね。私自身、いまだにちょっと信じられないぐらいですから」


 ふっと息を吐いて、私は肩の力を抜いた。

 伝えたいことは伝えた――その安堵と少しの緊張が、胸に残る。


 そんな私の様子を、兄さんはしばらく黙って見つめていた。

 しんとした間のあと、少し低く、落ち着いた声が部屋に響く。


「いつ、出ていくんだい?」


 私はまっすぐに兄さんの瞳を見返した。


「準備が整い次第、すぐにでも」


「そっか。……向かう先は、聖教国?」


「そのつもりですけど……マズいでしょうか?」


 聖教国は神聖帝国の中にある、大陸で一番小さい独立国だ。

 正式名称は、聖フェルシア教国。


 名目上は神聖帝国の一地域って話だけど、みんな聖教『国』って呼んでるし、宗教的な権威と政治的な独立性を持っているから、誰も単なる一地域だと思っていない。女神教の総本山でもあるし。


「うーん、そうだな……女神教といったら聖教国だし、教皇様もいらっしゃるから、行き先としては間違ってないと思うよ。王国は聖教国と対立はしていないしね。聖教国で正式に聖女として認定してもらったうえで、神聖帝国に向かうのは良いんじゃないかな。どの国を押さえるよりも、神聖帝国を押さえるのが一番重要だからね。ただ……」


「ただ?」


「問題は、僕たちのいる王国と神聖帝国が戦争中だってことだね。今は停戦中だけど、あくまで『停戦』だし。ほら、聖教国は神聖帝国の中にあるから……長く伸びた国境のどこかを越えるのはそう難しくないだろうけど、敵国の中を旅して聖教国まで行くのは、そう簡単じゃないと思うよ」


「……そうですか」


 薄々感じてはいたけど、やっぱり神聖帝国の中を突っ切っていくのは難しそう。


 神聖帝国は大陸の中央にある、世界で一番大きな国だ。

 正式名称は、神聖グランツァルク帝国。

 

 当時、女神様は『国が分かれてるから人は争う。だったら、ひとつにすれば良い』と考え、大陸全土の各国をまとめるよう力の聖女様に命じた。

 その結果生まれたのが、神聖グランツァルク帝国だ。

 戦争を止めるために戦争をするという、まさに力技の統一だった。


 おかげでそれから千年ぐらいは、戦争がほぼない時代が続いたらしい。

 まあ、千年後には権力層の腐敗がとんでもないことになり、例の『女神は死んだ』本が大流行して、またあっちこっちで独立戦争が始まったらしいんだけど。


「では……女神様の加護で、強行突破するしかないでしょうか……」


 私がそう言うと、兄さんは即座に手を振って否定した。


「いやいやいや、力技はマズいでしょ。リシアは力の聖女様じゃないんだから。下手したら王国と神聖帝国の停戦が終わって、すぐ戦争再開だよ」


 冗談めかした口調だけど、兄さんの目は真剣そのものだった。

 私もすぐに真面目な顔に戻る。


「でも、だとしたら……どうやって聖教国まで行けば良いのでしょう」


「それなんだけど……」


 兄さんは少し考えるように目を伏せ、それから静かに言葉を継いだ。


「王都の教会本部で、正式に聖女としての認定を受けるのはどうかな。そのうえで、王国からの公式な使者として聖教国に向かう。そうすれば、少なくとも表立っては神聖帝国側も手出ししにくいはずだよ」


「……なるほど。自称聖女じゃなくて、王国公認の聖女として動けば、ってことですね」


 兄さんはこくりと頷いた。


「そう。神聖帝国って、一応は女神様の意思を継いで世界を統一しようとしてるっていう大義名分があるから。だから、自称じゃなくて正式な聖女が『和平的な使命』をもって訪れるなら、勝手に襲うとその正統性に傷がつく」


 確かにその通りだ。

 この世界には、聖書によると女神様が作ったこの大陸しか存在しないとされている。だから神聖帝国が『世界統一』を掲げるのは、あながち誇張でもない。


 その神聖帝国は、名実ともに世界で一番大きな国――大陸の半分を領土に収める巨大国家だ。

 だが逆に言えば、残る半分は神聖帝国の敵国でもある。


「王国が正式に聖女と認めた人間に手を出せば……大陸中の信徒から激しく非難される……」


 私はゆっくりと考えを口にしながら、自分の指先をじっと見つめた。

 女神様の加護を受けた『聖女』という存在が、どれほど重く、強い意味を持つか。


「事がそれで収まるならともかく……下手をすれば、停戦中の各国と一斉に戦争再開することになってもおかしくない……」


「うん」


 兄さんは軽く肩をすくめ、肯定の意を示す。


「停戦中の各国からしてみれば、目障りな神聖帝国の領土を切り取る良い口実になるだろうね。一国一国じゃ敵わなくても、全部の国が一斉に歩調を合わせられるなら、話は変わってくる。だから神聖帝国も、表立っては手が出せない」


 そう、これは抑止力――聖女という肩書きそのものが、戦争の引き金にも、抑えにもなり得る。

 それを踏まえたうえで、私はゆっくりと息を吐いた。


「……わかりました。まずは王都の教会本部で、正式に聖女として認定を受けてから、聖教国へ向かおうと思います」


「そうだね、それが良いと思うよ」


 兄さんが穏やかに言う。

 その声に、少し寂しさが混じっている気がした。


「僕も、すぐに後を追うからね」


 ……この人、来る気満々だ。


「いや、追わないでください。私、ミハイルくんを一人前にしてくださいって言いましたよね?」


「うん。だからミハイルくんをすぐ一人前にして、後を追うから」


 爽やかに即答された。微塵も悪びれていない。

 ダメだこの兄……全然わかってない。


「……わかりました。じゃあこうしましょう。『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』と、『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』をたくさん置いていきます。それを全部食べ切るまで、絶対に追ってこないでくださいね?」


 これには兄さんも苦笑いだ。

 その表情は、ちょっとだけ拗ねたようでもあったけど、どこか嬉しそうだった。


「あはは、わかったよ。信用ないなぁ、僕」


 ……どちらかというと、逆かな。

 信用がないんじゃなくて、過保護すぎることに信用があるから。

 このままだと本当に、何の前触れもなく後ろからひょっこり現れそうだ。


 これはもう、『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』と『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』を一日に消費していいペースまで指定しないとダメかも。他にも出せる食品は全部出して、すぐに追ってこないようにしないと。


 私は無言で、頭の中に『兄の足止めプラン』を練り始めた。

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