第45話 料理人の名は
「保存期限の確認に関してはこうしましょう」
掲げていた外袋から残り二つのカレーパックを取り出し、丸テーブルの上に並べて両手で示す。
「ここにまだ、使っていない二つの『グリコ 常備用 温めずに食べられるカレー職人 甘口』があります。これらを常温で保管しておき、一つは私がスラム街の問題に取り組んでいる間……そうですね、二週間後ぐらいに食べてみてください」
普通の料理であればそれぐらいの時間が経ったら食べられなくなるので、ひとまずそこで『これは保存できる食べ物だ』という小さな信用を得る。
スラム街の問題がどれぐらいで解決できるかはわからないけど、少なくとも二週間は私も王都にいるだろうし、十分に検証してもらえるだろう。
「二つ目に関しては厳重に保管していただき、五年と六か月後に食べてみてください。それで美味しく食べられなかったら……私を如何様にもしてくださって問題ございません」
私がそう言ってニッコリと笑いかけると、ルシアン殿下は理解できないものを見たような顔で後ずさった。
「バカな……なぜだ? それだけの月日が経って、美味しく食べられる保証なんてどこにもないのだぞ? なぜ、そんなことに命を懸けられる?」
「そうは言われましても……夜が明ければ朝が訪れるように、川の水が高いところから低いところへ流れるように、『グリコ 常備用 温めずに食べられるカレー職人』が五年と六か月経っても美味しく食べられるのは、事実なので」
だって賞味期限にそう書いてあるし。そもそもそれと同じものを前世で五年と六か月経った頃に食べたことあるし。
ちなみに『グリコ 常備用 温めずに食べられるカレー職人』は『常備用』と書いているだけあって長い期間を保存できるし、万が一の災害時にも役立つからと私は前世で大量にまとめ買いをしていた。
なぜ大量に買っていたかというと、普通のレトルトカレーと比べても遜色ないどころか、むしろ美味しかったからだ。つまり『グリコ 常備用 温めずに食べられるカレー職人』は長い期間を保存できるし、温めなくてもすぐ食べられるし、美味しいので死角はない。
もし無理やり弱点を挙げるとしたら、美味しくて手軽に食べられるのでついつい、常備しておくつもりがストックを消費してしまうことぐらいだろう。まあそれもローリングストックでまた買えばいいから、問題にならないけど。
「さあ、ルシアン殿下。認めてください。あなたが出した条件はすべて満たしました」
「……わかった。認めよう」
うつむきながら淡々と言うルシアン殿下の声には、明らかに不本意さが滲んでいた。しかし随分あっさり認めるな……と思った次の瞬間。
「――ただし! 認めるのは五年と六か月が経ってからだ!」
顔を上げ、開き直ったように言い放つルシアン殿下の表情は、まるで最後の切り札を切ったような得意げな笑みを浮かべていた。
うわぁ……保存期限というすぐ確かめられない部分を持ち出された時点で予想はしていたけど、やっぱりそれを言い出してきたか。
他の変な条件に変えられるよりは……という気持ちであえて触れないでおいたけど、本当にその切り口で抵抗してくるとは。
でも、この場の雰囲気だったら、私が特に何も言わなくても……と考えていたところで案の定、マティアス殿下が呆れたように言った。
「兄上……さすがにそれを後出しで言うのは無理があります。ここは彼女の言う通り、一つを二週間後、もう一つを五年と六か月後に試食するのが妥当でしょう」
マティアス殿下の言葉に同調するように、料理人たちからも口々に同意の声が上がる。周囲から聞こえてくる複数の声は、明らかにルシアン殿下の無理筋な主張に対する反発を示していた。
それを見て自分の不利を悟ったのか、ルシアン殿下は舌打ちをして切り口を変えてきた。
「仮に期限の条件を満たしたとしても! 他にまだ満たしていない条件がある!」
ニヤリと笑うルシアン殿下の表情は、今度こそ完璧な反撃材料を見つけたとでも言いたげだった。……嫌な予感がする。
「冷めた状態で美味しく、すぐに食べられて、五年以上保存できる。三つとも満たしていると思いますが」
「くく……今、意図的に省いたな? 貴様は言ったはずだ。パルファム・エピセ・デュ・シエル・エ・ドゥ・ラ・テールに『勝るとも劣らぬ、とてもよく似た料理』を出すと」
ルシアン殿下は私が丸テーブルの上に並べた、二つの『グリコ 常備用 温めずに食べられるカレー職人 甘口』を指差して言った。
「貴様が出したそれは、パルファム・エピセ・デュ・シエル・エ・ドゥ・ラ・テールとは別物だ! 見た目や風味がやや似ているだけでその実、中身は似て非なるもの! 『とてもよく似ている』など、口が裂けても言えん代物!」
ルシアン殿下の声が次第に熱を帯びていく。
「たっぷり入った肉の脂身も、まろやかな甘みがありながらもガツンと突き刺すような香辛料の刺激も、食べたあと腹にずっしりと溜まる強烈な存在感もない! とてもパルファム・エピセ・デュ・シエル・エ・ドゥ・ラ・テールと比べて『勝る』とは言えんな!」
「それは……」
そのあたりを突かれるのは、かなり痛い。『グリコ 常備用 温めずに食べられるカレー職人 甘口』がぱるふぁむなんちゃらと比較して劣っているとは思わないけど、中身が似て非なるものであることは事実だからだ。
たとえるならそれは背脂がたっぷり浮いた豚骨醤油ラーメンと、鶏ガラをじっくり煮込んだあっさり塩ラーメンぐらい違う。料理のジャンルとしては同じと言えるが、方向性はまったく異なるのだ。
そのためか、先ほどは即座に援護してくれたマティアス殿下も、今回は黙して私の反論を待っている。ルシアン殿下の言葉に一定の正当性があると判断したのだろう。
修道服の下で、背中を冷たい汗が伝う。
どうしたものかと考えていると、今まで一言も喋らなかったオノレ・ラクロワ翁が口を開いた。
「よせ、ルー坊」
低く渋い声が広間に響いた。
その一言に、ルシアン殿下がピクリと反応する。
「オ、オノレ・ラクロワ翁……?」
「オメェの負けだ。パルファム・エピセ・デュ・シエル・エ・ドゥ・ラ・テールと、お嬢ちゃんが出したこれは、よく似ている。作り手のワシが言うんだ。間違いねえ」
「なっ……!?」
ルシアン殿下は信じられない、といった顔で固まった。
オノレ・ラクロワ翁の威厳ある声に、料理人たちも息を呑んで聞き入っている。
「バカな!? 負けを認めるのか、翁!?」
「何を言ってんだ。ワシはオメェの負けだって言ったんだよ。パルファム・エピセ・デュ・シエル・エ・ドゥ・ラ・テールが負けたとは思っちゃいねえ。思っちゃいねえが……」
オノレ・ラクロワ翁は丸テーブルの上に並んだ二つの『グリコ 常備用 温めずに食べられるカレー職人 甘口』へと視線を落とし、しばし無言で見つめた。
「……温めなくても美味しく食べられる、か。そんなこと、考えたこともなかったぜ」
オノレ・ラクロワ翁の言葉には純粋な驚きと、新たな発見に対する敬意が込められていた。
周囲の料理人たちも、その言葉の重みを理解したように神妙な表情を浮かべている。
「おい、お嬢ちゃん。これを作った料理人の名は?」
「え……」
どうしよう。開発した人の名前とか、わからないんだけど。
メーカーさんの名前でいいかな?
「グリコ……いえ、江崎グリコです」
「エザキグリコ……」
オノレ・ラクロワ翁は呟くようにその名を繰り返し、ゆっくりとこちらに背を向けた。
「覚えておく」
そう言い残し、彼は料理人たちを引き連れて退出していく。
重い足取りでありながら、その背中はどこか晴れやかで、何かを得た者だけが持つ確かな余韻を漂わせていた。




