第43話 できるはずがない条件
白く細長い粒が整然と並び、その上に黄金色とも琥珀色ともつかない、艶やかなとろみを帯びた液体がたっぷりとかかっている。
その液体の中には柔らかく煮込まれたであろう肉と、形をとどめながらも口に入れた瞬間に崩れそうな野菜が沈んでいた。
漂う香りは刺激的でありながら甘やかで、さらに深い香ばしさを含む複雑な層を成している。香辛料たちが互いを主張し合い、同時にひとつの調和を作り上げていた。
……つまり、どう見てもこれは――カレーライスそのものだった。
お米に関してはこの大陸特有の細長いインディカ米みたいなものだけど、リースト村にあった玄米っぽいものとは違い、ちゃんと精米してある白いお米だ。
しかも、お皿の脇には銀色のスプーンまで添えられている。まるで食べるのが当然というように。
ごくり、と喉が鳴る。
「あの……こちら、食べてみてもよろしいですか?」
聞くと、私がこの料理に目を奪われていたせいか、ルシアン殿下は愉快そうに笑いながら言った。
「早く食べろ。そして悟るがいい。自分の敗北をな」
「では……いただきます」
余計な反応はせずに、私は両手を組んで女神様に短く祈りを捧げる。
それから素早くスプーンを手に取り、白いお米と黄金色のカレーをすくい上げ――口に入れた瞬間、香辛料の嵐が舌の上で踊り、熱と旨味が一斉に広がった。鼻に抜ける香りの波が、甘さから刺激へ、そして深い旨味に至るまで絶え間なく押し寄せる。
――次の瞬間。
目の前の深皿は、綺麗さっぱり空になっていた。
「………………え?」
意味がわからない。
私は今さっき、一口目を食べたばっかりのはず。
なのに、なぜ……まさか、何者かから攻撃を受けている?
「ハハハ! 清貧を重んじる聖職者とは思えないほどのがっつき具合だったな! まるで獣かと思ったぞ!」
ルシアン殿下の声を聞いて、私はハッとした。
認めたくなかった現実を、認めざるを得ない。
そうだ。私は……私が、全部自分で食べてしまったのだ。
あまりにも美味しくて、我を忘れて。
でも次の一口がないと認めたくなくて、記憶を、現実を拒否していた。
バリン、と記憶を封じていた壁が音を立てて割れ、獣のようにカレーライスを食べていた自分の姿が蘇る。
……いや、正確に言えば違う。
香りも見た目も、前世で言うカレーライスに驚くほど似ているけど、カレーライスではない。
これは、まさに究極の料理と呼ぶにふさわしい一皿だった。
あの舌を噛みそうな長い名前も、今なら納得できる。
「それで、どうなのだ。聖女の力とやらで、このパルファム・エピセ・デュ・シエル・エ・ドゥ・ラ・テールを改良できるのか? 言ってみろ」
「……まったく同じものを、改良して出すことはできません」
これは間違いない。
ぱるふぁむなんちゃらは前世でいうカレーライスにとてもよく似ているが、実際には違う食べ物で、しかも私がこれまで食べたことのない、未知の料理だからだ。
「ふん、だろうな。では、貴様の負け――」
「――ですが、こちらに勝るとも劣らぬ、とてもよく似た料理であれば……冷めても美味しく、時間を置いてもすぐ食べられるものをお出しできます」
私がそう告げると、ルシアン殿下の眉がわずかに持ち上がった。
「なんだと……?」
「ルシアン殿下はこちらの料理を、夕食に食べるほどお気に召している様子……であれば、食べてみたくはありませんか? 勝るとも劣らぬ、とてもよく似た料理を」
「…………ふん。いいだろう。しかし、であればこちらからも追加で条件を出そう」
ルシアン殿下はいつの間にか用意されていた椅子に腰を下ろすと、足を組んで指を三本立てた。
「一つ目、冷めた状態で美味しく、二つ目、すぐ食べられるに加えて、三つ目だ。そうだな……二年、三年……いや、五年間以上、保存できるようにしろ」
「え……」
「なっ……!?」
唐突な追加条件に、マティアス殿下が勢いよく立ち上がった。
「無茶です! トリア共和国の最新技術を使った缶詰でも二年保存が限界なのに、五年など……できるはずがない! あまりにも非現実的すぎます!」
「最初にこちらが出した条件は『パルファム・エピセ・デュ・シエル・エ・ドゥ・ラ・テールの改良』だ。それを『勝るとも劣らぬ、とてもよく似た料理』と大幅に変えているのだから、こちらもそれ相応の条件にしたまでのこと。無理なら……」
「わかりました」
私は短く息を整え、真っすぐにルシアン殿下を見た。
確かに、前世日本の缶詰などでも大抵、賞味期限は二、三年。この世界には賞味期限という概念はないので、ルシアン殿下が言っているのは消費期限で五年以上という話なのだろうが、それでも長いことは長い。
ただ……この世界基準で無理だと思われているその条件を満たすことができる神食品に、私は心当たりがあった。
「お出ししましょう。冷めた状態で美味しく、すぐ食べられて、五年以上保存できる、ぱるふぁむ、えぴせ、でゅ……ほにゃららに勝るとも劣らぬ、とてもよく似た料理を」
「おい、言えてないぞ」
ルシアン殿下のツッコミを無視し、私は控えていたメイドさんに、もう一杯ぱるふぁむなんちゃらをよそってもらうようお願いする。
メイドさんが困ったようにルシアン殿下へ視線を送ると、彼は舌打ちしながら承諾した。
「好きにしろ。ただし、その言葉……後で撤回は許さんぞ。後から条件を変えてほしいと言っても、聞かんからな」
「そちらこそ、後から約束を反故にしないでくださいね」
「ふん、ほざけ」
新しいお皿によそわれた見た目だけは完全にカレーライスな、ぱるふぁむなんちゃらに私はそっと手をかざす。
もちろん女神様に『お皿は持っていかないでください』と心の中でお願いするのも忘れない。
すると、ぱるふぁむなんちゃらは黄金色の光に包まれ、カレー部分は『グリコ 常備用 温めずに食べられるカレー職人3食パック 甘口』に、ライス部分は『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』へと変わった。もちろん『サトウのごはん』は温まっている状態だ。
……あれ、量的に1パック分かと思ったら、3食パックが出てきた。
私が普段3食パックで買っていたからかな。まあ増える分には問題ないか。
私はホカホカの『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』を新しいスプーンでお皿に盛り直す。
そしてそのお皿と、『温めずに食べられるカレー職人』のパックを一つ手に取り、ルシアン殿下の前にある丸テーブルにそれぞれ置いた。
「……なんだ?」
「これを触ってみてください。冷めた状態です」
ルシアン殿下が怪訝そうに眉をひそめながら、『温めずに食べられるカレー職人』のパックを手に取る。
指先で感触を確かめ、しばし無言のまま重みや温度を確かめた後、彼は小さく頷いた。
「確かに、冷めているな」
「では、冷めているこれを、ごはんにかけます」
私はパック上部の、あらかじめ切れ目が入っている部分を手で裂き、口を開けて中身をごはんに注いでいく。
とろりとしたカレーが白米の上に広がり、美味しそうなカレーの香りが一気に空気を満たすと同時に、ルシアン殿下の目が驚きに見開かれた。
背後からは、ガタリ、と椅子を押しのける大きな音。
振り向かずともわかる。マティアス殿下がまた立ち上がったのだ。
「なっ……ハサミを使わず手で、いとも簡単に!?」
「どうぞ、お召し上がりください」
パックの中身を出し切った私は、一歩下がって軽く会釈する。
お皿には、先ほどごはんを盛るときに使ったスプーンがすでに添えられていた。
これでルシアン殿下が望んだ『すぐ食べられる』という条件は、目の前で実証できたはずだ。
「……ふん、見せかけだけでないといいがな」
不敵に笑ってそう言ったルシアン殿下は、スプーンで『温めずに食べられるカレー職人』のかかった『サトウのごはん 魚沼産こしひかり』をすくい、口へと運んだ。
そして、固まった。
一瞬、表情が硬直したまま動かなくなったため私は内心、もしや口に合わなかったのか、と不安になった。
だがその直後、ルシアン殿下は何も言わずスプーンを再び動かし、勢いよく次の一口を頬張った。そのまま言葉もなく、スプーンが速さを増して往復する。
「どうやら、お気に召していただけたようですね」
「……ハッ!?」
気がつけばルシアン殿下の前にあったお皿は、綺麗さっぱり空になっていた。




