第41話 いつの間にか飲み干してる
「マティアス! これはどういうことだ!?」
突然響いた怒声に、私とマティアス殿下は驚いて振り返った。
通路の陰から姿を現したのは、体格のいい赤髪赤眼の男性だった。広い肩幅と分厚い胸板、そして鋭い目つきが、ただ歩いているだけなのに周囲の空気を圧迫する。
「兄上……! 困ります。この時間は予定が入ったと、断りを入れたでしょう」
マティアス殿下が眉をひそめ、しかし落ち着いた口調で答える。
「それは知っている! 聞けば教会の者だというから、一度は納得した! エリュアや枢機卿団の連中なら仕方あるまい! だが――この女は誰だ!?」
赤髪の男性は私を指差して怒鳴った。その鋭い視線に射抜かれて、思わず身を縮こまらせる。まるで不法侵入者でも見るような目つきだ。
「ただのシスターではないか!!」
「いえ、彼女は……」
「エリュアの使いか? スラム街の件についてか? だとしたらオレも呼ぶのが筋だろう!」
怒気を帯びた声と共に、赤髪の男性はマティアス殿下の胸倉を掴み上げた。
マティアス殿下の身体がわずかに揺れる。それでも彼は睨み返すように兄と思しき人物を見上げていた。
「いいかマティアス。貴様がエリュアと組み、小賢しく裏で根回ししていることは知っている。だがな――この国の秩序を乱すような真似は、たとえ弟でも許さんぞ」
重々しい沈黙が場を支配した。赤髪の男性の鋭い視線とマティアス殿下の真剣な眼差しが交錯し、中庭の空気が張り詰める。
その時、マティアス殿下の前にあった『のんある気分』の缶が突然、黄金色の淡い光を放ち始めた。そして次の瞬間、まるで最初からそこになかったかのように、光の粒子となって空中に消えていく。どうやらマティアス殿下は中身を飲み干していたようだ。
「な……!?」
赤髪の男性は驚愕の表情を浮かべ、マティアス殿下の胸倉から手を離した。マティアス殿下も目を見開いて、缶があった場所を見つめている。
「あぁ、女神様から頂いた食品は中身がなくなると自然に消えるのが普通なので、問題はありませんよ」
私はできるだけ穏やかな口調でそう説明した。
ピリピリした雰囲気を変えるチャンスだ。
「女神様から頂いた食品……? この女はいったい何を言ってるんだ?」
赤髪の男性は訝しげな表情でこちらを見ながら、困惑した声で呟いた。
その視線には先ほどまでの怒りに加えて、明らかな疑念が混じっている。
「兄上、こちらのお方は今代の聖女様です。失礼のないようにお願いします。……言うのが少し遅れましたが」
マティアス殿下がようやく胸元を整えながら、やや申し訳なさそうに説明した。
「は……?」
「申し遅れました。私はリシア・ロウベル。このたび女神様から神託と奇跡の力を授かり、食によって世界を平和に導くため、こちらへやって参りました」
「世界を平和に……いや待て、その前になんと言った? ショク?」
あ、そこスルーしてくれなかったか。マティアス殿下はいったん話を通しで聞いてくれたけど、彼の場合は質疑応答も必要そうだ。
私は赤髪の男性からの質問や疑問に答えつつ、なぜマティアス殿下の元を訪ねることになったのか、今までの簡単な経緯をかいつまんで話していった。
その結果。
「――わからん! まったくもって意味がわからん! なぜ『食』の聖女なんだ!? マティアス! 貴様、エリュアに担がれているのではあるまいな!?」
質疑応答や説明を繰り返しても、彼は全然わかってくれなかった。ちなみに話の最中で判明したが、赤髪の男性はヴェルディア王国の第一王子で、ルシアン殿下というらしい。呼び方からわかるように、マティアス殿下のお兄さんだ。
「兄上、エリュア大司教様はこのような嘘をつくような方ではありません」
「貴様は昔からエリュアに惑わされすぎだ! あいつは目的のために手段を選ばん!」
バンッ! と丸テーブルを叩くルシアン殿下。
衝撃で『のんある気分』の缶が倒れそうになったので、私は慌ててキャッチして、ついでに全部飲み干した。うーん、美味しい。
「仮にエリュアの息がかかっていないにしても! このシスターが聖女であろうとなかろうと、スラム街の問題を解決できるなら良しと大した身辺調査もせずに送り出した可能性だってある! 自らの目で奇跡の力とやらを確認すらしていないかもしれん!」
「いや兄上、聖女様ですよ? いくらあのエリュア姉……じゃなくて、エリュア大司教様でも、さすがにそれはないでしょう。ですよね、リシア様?」
マティアス殿下が苦笑しながらこちらを振り向く。
私は深呼吸をしてニッコリと笑い、誠実さを感じさせる聖女ボイスで証言した。
「――ええ、もちろんです」
「おいシスター、今なぜ返答が遅れた? エリュアの奴は貴様の奇跡とやらを見ていないんだな? そうなんだな!?」
私の返答は完璧だったはずなのに、なぜかバレてしまった。ルシアン殿下があまりにも疑心暗鬼すぎる。もっと人を信じてほしい。信じる者は救われるって、聖書にも書いてあるよ?
そう思っていた次の瞬間、私がさっき飲み干した『のんある気分』の缶が黄金色の淡い光を放ち始めた。光の粒子が舞い踊るように缶の周りを漂い、やがて缶そのものが光となって消えていく。
「いつの間にか飲み干してる……」
マティアス殿下がボソッと呟く。
場の空気が静まり返ったと同時に、私は両手を叩いて自分に注目を集めた。
「落ち着いてください。大司教様がどうであれ、私が聖女としての力を証明すれば問題ないでしょう?」
「そ、そうです! 彼女が聖女であることは間違いありません! 私も女神様の奇跡を見て、味わったのですから!」
マティアス殿下が慌てたように私を擁護してくれる。しかし、ルシアン殿下の表情は依然として険しいままだった。
「女神様の奇跡、か。ふん……では、オレもその奇跡とやらを見せてもらおうか」
「わかりました。では、先ほどマティアス殿下から頂いたお酒と同じものを……」
「待て」
ルシアン殿下が手のひらをこちらに向けて制止する。
彼の声には有無を言わせぬ強さがあった。
「言っておくが、『仕込み』はなしだ。オレが用意したものを、オレが望むように奇跡を起こすことができたなら、貴様が聖女だと認めよう。スラム街の問題も任せてやる」
「……私は食の聖女ではありますが、万能というわけではありません。ご用意いただいた内容によっては、対応できないこともあります」
私は正直に答えた。
スキルについて嘘をついても仕方がないし、後で困るのは自分だ。
「別に構わんぞ。対応できなかったら認めないだけだ。さて、食か……何にするかな」
ニヤリと笑みを浮かべながら、ルシアン殿下が腕を組む。
その表情は、まるで獲物を前にした肉食動物のようだった。
どうしよう。今は女神様がネットスーパーを使えるようになっていると思うから、大抵のものは用意できると思う。でもルシアン殿下が『望むように』奇跡を起こすとなると、かなり難しい。
私の『万物を食べ物に変えるスキル』は、この世界にある食品か、前世日本で女神様が用意できた既存の食品にしか変えられない。だからたとえば、見たことも聞いたこともないこの世界独自の食品を『甘くしてほしい』とか『辛くしてほしい』とか、そんなことはできっこないのだ。
そんな私の懸念を知ってか知らずか、ルシアン殿下は手のひらを拳で叩くと、「そうだ、あれにするか」と言って中庭を後にした。
「兄上、どちらに?」
マティアス殿下が訝しげな表情で声をかけるが、ルシアン殿下は振り返らずに手をひらひらと振って答える。
「厨房だ。少し待ってろ」
その背中を見送りながら、私は内心で冷や汗をかいていた。一体何を持ってくる気なのだろう。まさか、この世界にしかない珍しい食材とか、腐った食べ物を美味しくしろとか、そんな無茶振りじゃないよね?
「リシア様、大丈夫ですか? 顔色が少し……」
「あ……はい。大丈夫です」
マティアス殿下の心配そうな声に、私は慌てて笑顔を作った。
でも、心の中では女神様に必死に祈っていた。
お願いします、女神様。
どうかルシアン殿下が無理難題を持ってきませんように……。




