第40話 本題を忘れる最高の飲み物
「そ、それよりもこれです、これ! 冷たいうちに飲んじゃってください!」
私は『サントリー のんある気分〈カシスオレンジ ノンアルコール〉350ml缶』をマティアス殿下に差し出した。
彼はそれを壊れ物でも扱うように両手で受け取り、ごくりと喉を鳴らす。
「冷たいですね……これが、女神様からいただいた飲み物ですか……」
マティアス殿下は缶を上から覗いたかと思うと、タブにそっと触れて、しかしそれ以上は何もせずに首を傾げる。
「……もしかして、缶切りが必要でしょうか?」
「あ……すみません、こうすれば開けられます」
私は手を伸ばし、缶のタブを引っ張り持ち上げて、蓋をプシュッと開けた。
軽快な音とともに、甘く爽やかな香りがふわっと広がる。
故郷のリースト村でもそうだったけどマティアス殿下の反応を見る限り、この世界にはまだ缶切りなどの道具を使わずに開けられる缶蓋は普及していないらしい。
「なんと、缶をこんな簡単に開けられるなんて……! 素晴らしい手軽さですね!」
「そうですね」
確かに、言われてみれば缶の飲料は本当に開けるのが楽で便利だ。
この世界で流通している缶詰は非常に硬く、開けるのに力も道具も必要だから、マティアス殿下が感心するのも無理はない。
「それはそのまま缶に口をつけて飲めるので、どうぞ」
「で、では……いただきます」
マティアス殿下は恭しく一礼してから、缶を口元へ運んだ。そしてそっと傾けて、慎重に一口飲む。
その瞬間、彼の表情が驚きに変わった。
「おおっ……!」
マティアス殿下は缶を口から離し、目を見開いて私を見つめる。
「これは……なんという爽やかな味わいでしょう! カシスの甘酸っぱい風味とオレンジの爽快感が絶妙に調和していて……そして、この舌にピリピリと来る感覚は……まさか、炭酸ですか!?」
彼はもう一度缶を口に運び、今度はやや大きめに一口飲んで、感嘆のため息をついた。
「素晴らしい! 果実の旨味がしっかりと感じられるのに、後味は実にすっきりとしていて……この冷たさと炭酸の刺激が、まるで口の中で踊っているかのようです! しかもこの美味しさで、酒精がないとは!」
「あれ、炭酸についてご存じなんですか?」
私は生まれてこの方、この世界で炭酸飲料を飲んだことがなかったから、まだ発明されていないのかと思っていた。
「ええ、実は一度だけ飲んだことがあります。トリア共和国の最新技術を使って作られたという触れ込みで、『星降る夜の館』で提供されていたものを……あれは確か、レモンの風味がする透明な酒でした」
マティアス殿下の話によると、なんでもその炭酸飲料は一杯飲むだけで、同じ杯を満たすだけの金貨が必要になるほど高価だったとか。
「ですが、あの時の飲み物とは比べものにならないほど美味しいです! 女神様からいただいた飲み物は、まさに神々しい味わいですね!」
マティアス殿下は再び缶を口元に運ぶと、今度は遠慮なくグビグビと『のんある気分』を飲み始めた。その美味しそうな飲みっぷりを見ていると、私の喉もごくりと音を立てる。カシスオレンジの爽やかな香りが漂ってきて、ますます飲みたくなってしまった。
「……マティアス殿下。私もこちらのお酒を女神様に捧げて、同じ飲み物をいただいてもよろしいでしょうか?」
「っ! これは失礼しました! もちろんです。リシア様も、どうぞ」
マティアス殿下は慌てたように缶から口を離し、手近にあったゴブレットを私に差し出してくれる。
「ありがとうございます。では……」
私はゴブレットを手に持つと、今度は女神様に『ゴブレットは残して、中身だけを召喚素材にしてください』と頭の中でお願いしながら、スキルを発動した。するとカシオレっぽい香りのお酒が黄金色に輝き始め、ゴブレットの中からもう一本、『サントリー のんある気分〈カシスオレンジ ノンアルコール〉350ml缶』がにょきにょきと生えてきた。
「やった! 成功です! 女神様にお願いしたら、今度はゴブレットを持っていかないで『のんある気分』をくれました!」
「えっ……」
マティアス殿下は驚いた顔で目を見開き、缶を持ったまま固まってしまった。信じられないものを見たかのように、ゴブレットから生えてきた缶と私の顔を交互に見つめている。
「そ、そんなお願いしても大丈夫なんですね、女神様に……」
「はい。女神様はお優しいんですよ」
私は笑顔で答えると、ゴブレットから『のんある気分』を取り出した。
ただ本当の意味で優しかったら、自分の思い通りにいかないからって人類滅亡させようとはしないよね……と、ふと頭をよぎった不敬な考えは胸の奥にしまっておく。女神様は寛容だから大丈夫だとは思うけど、念のため。
それはともかくとして、今は『のんある気分』だ。
私は『のんある気分』の缶を手に取ると、タブに指をかけて一気に開けた。プシュッという小気味よい音と共に、カシスオレンジの爽やかな香りが立ち上る。
たまらず缶を唇に当てて、一口飲む。
「あぁ……」
思わず声が出てしまった。炭酸の爽快な刺激と、カシスの甘酸っぱさ、そしてオレンジの爽やかな風味が口の中で踊っている。
「フルーティーで爽やかで、炭酸もちょうどいい強さで……カシオレのように甘いのにすっきりしていて飲みやすい。普通の炭酸飲料でも、お酒でも得られない絶妙な味わい、そして満足感……これでカロリーゼロ、糖類ゼロなんて信じられません。もう永遠に飲めます」
私はゴクゴクと一気に半分近く飲んでから、缶を下ろした。
久しぶりに飲むノンアルコール飲料は最高だ。前世では手が届く範囲だったら大抵の飲み物、食べ物は試していたけど、ノンアルコール飲料はお酒の代わりとかじゃなくて、純粋に味が好きでよく飲んでいた。中でもカロリーゼロの『のんある気分』は五種類ぐらい違う味を複数本、冷蔵庫に常備していたぐらいだ。
マティアス殿下も私の反応を見て、改めて『のんある気分』を飲みたくなったのか、缶を傾けて残りを一気に飲み干していた。
うんうん、美味しいよね……って、ちょっと待った。
二人とも『のんある気分』を楽しみ過ぎて本題を忘れかけてる気がする。
「話を戻します。スラム街の問題を解決する件ですが……どうしてもスラム街の人々は出て行ってもらわないといけないのですか?」
私は『のんある気分』を片手に持ちながら、真剣な表情で続ける。
「たとえば、スラム街を綺麗に清掃して、そこに住んでいる人たちも身嗜みをきっちりしてもらって、税金をちゃんと納めてもらうとか……そういう方法ではダメなんでしょうか?」
「それは……難しいですね」
マティアス殿下は困ったような表情を浮かべて、腕を組む。
「実は、スラム街の土地はすでに王家が貴族や商人たちに販売済みなのです。つまり今そこに住んでいる人々は、法的には他人の土地を違法に占領している状態となります。たとえ彼らが税金を納め、身なりを整えたとしても、土地の所有権は別の人にあるため、そのまま住み続けることは法律上不可能なのです」
彼の説明を聞いて、私は眉をひそめた。
これは思っていたよりもずっと複雑な問題のようだ。
「なるほど……土地の所有権の問題ですか」
私は『のんある気分』を片手に、難しい表情で呟いた。単純に環境を改善すれば済むという話ではないらしい。
貴族や商人たちがすでに土地を購入しているということは、彼らにも正当な権利がある。一方で、スラム街に住む人々も生活の場を失えば路頭に迷ってしまう。双方の利益を両立させる方法はないものだろうか。
私が頭を悩ませていると、王城の通路から中庭に入ってくる人影が見えた。




