第4話 食の聖女
兄さんは最後の一口を静かに噛みしめると、そっと手を膝の上に置いた。
「……ふぅ」
そして少しだけ視線を下に落とし、袖で涙をぬぐう。
その顔には、どこか疲れの滲んだ苦笑いが浮かんでいた。
「……恥ずかしいところを見せちゃったね」
私は首を横に振って、微笑む。
「そんなことありません。むしろ、少しホッとしました」
「ホッと?」
「はい。兄さんはいつも立派で、ちゃんとしてて……涙を見せたり弱音を吐いたりするところなんて、一度も見たことありませんでしたから。今、そうやって気持ちを見せてくれたのが嬉しいです。兄さんも人間なんだなぁ、と」
私の言葉に、兄さんはほんの一瞬だけ目を見開いて、すぐに視線を逸らした。
心なしか、耳が少し赤くなっているように見える。
「……なんだい、それ。僕だって人間なのは当然じゃないか」
「あれ? 照れてます?」
「照れてない」
兄さんはそう言いながら、わざとらしく咳払いをひとつして話題を切り替える。
「それより、リシアが話していた女神様のことだけど……」
「あっ、そういえばそうでした」
私は思わず手を打つ。そうだ。
さっきの話の続き――というより、今日ここへ来た本題だった。
「先ほども言った通り、私は女神様から天啓を得ました。夢の中で、いろいろとお話ししまして。それでさっきの特別なスキルを授かったんです」
「確か聖書に出てくる力の聖女や、知恵の聖女、創造の聖女が行使した奇跡と同じようなもの……って言ってたよね」
「はい。……で、それを使って、これから起きそうな戦争を止めてほしいって言われました」
「…………ん? ちょっと待って」
兄さんの表情が固まる。
まばたきすら忘れて、私の言葉を咀嚼しているようだ。
「戦争を止めるって……リシアが?」
「はい」
「女神様から食べ物をもらう力で?」
「そうです」
女神様からは『万物を食べ物に変えるスキル』だと言われたけど、実際は私のイメージに沿って、元の素材と引き換えに女神様が転送してくれている? っぽいから、兄さんの言う通りだろう、たぶん。
だって『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』とか、買ったやつだって言ってたし。つまり『万物を食べ物に変えるスキル(女神転送)』だ。私が女神様のところから食べ物を召喚している、と言ってもいいかもしれない。
それはそうとして、私は成り行き上、この力で戦争を止めることになったんだけど……。
「……どうやって?」
兄さんが真剣な表情で言う。
うん、そうなるよね。
まったくもって、ごもっともな疑問だ。
私自身も、夢から覚めたときは思った。
いくら夢にしたって、勢いに任せて早まったなぁ……と。
まあ女神様は起きてても声かけてくるし、実際にスキルが使えてしまった段階で、あ、これガチだ……と気がついてしまったんだけど。
でも、女神様には私の考えていることが全部筒抜けになっていて、大人としての模範解答(できていたかは怪しいけど)が通用しなかったのだから、仕方がない。
結局、女神様に届いたのは、私自身の迸る情熱と、欲望塗れの本心しかなかったのだ。
「私は美味しいものを食べているときが一番、幸せなんです」
ぽつりと、そう告げた。
兄さんは何も言わずに頷く。
「だから、その……みんなで美味しいものを食べれば、世界も平和になる……もとい、戦争も止められるのではないかと……」
我ながら、無茶な話である。
でも、パッションで訴えたら、女神様には通じちゃったんだよね……。
だって女神様、『そういうものなんだ』ってメッチャ素直だったし。
「…………それ、本気で言ってる?」
「割と本気なんですが……やっぱりダメでしょうか?」
私は恐る恐る、兄さんの顔を窺う。
ダメ出しされる覚悟はしていた。
でも、ちょっとくらいは希望を持ってもいいと思ってたんだけど……。
死ぬほど美味しいものを、お腹いっぱい食べてたら……大抵のことはどうでもよくならない? ダメ?
私の考えを察したのか、兄さんは少しだけ目を細め、静かに息を吐いた。
「…………僕からは、なんとも言えないな。女神様の深遠なるお考えは、どうにも理解できないよ」
う、うーん……どうかな?
過去の女神様から力を授けられた聖女に関しては、割と方向性がはっきりしてるから、今までいろいろと考えていたんだとは思う。
でも今回は自分で言うのもなんだけど、やけくそ感があるからなぁ……女神様もそこまで深く考えてない気がする。
だって四千年前に創造の聖女、三千年前に知恵の聖女、二千年前に力の聖女と続いて、私がもし名乗るとしたら『食の聖女』だよ?
二千年ぶりの聖女に相応しいかと言われたら、誰もが首を傾げるだろう。
ちなみに、千年前に聖女が現れなかった理由は――女神様曰く、『寝過ごした』から……だそうだ。
その影響で『女神は死んだ』という本が各国で大流行し、二千年前に力の聖女が一度まとめ上げた世界も、再びバラバラに分裂。
以来、ここ千年ほど人類はずっと、戦争ばかりしている。
まあ四千年前も三千年前も二千年前も、隙あらば戦争してたらしいけどね。
今は奇跡的にどこも停戦状態らしいけど、すぐまた始まりそうって話だし。
女神様的には、『ちょっと寝過ごしただけで、また戦争してる……もうダメだ人類』って感じらしい。
だから最初は私を『滅びの聖女』にして、人類を全滅させてから新しく作り直そうと思ったのだとか。
まあ、もちろん死ぬ気で拒否したけどね。
その結果『食の聖女』になるとは、夢にも思わなかったけど。
「……私にも女神様のお考えは理解できませんが、天啓を得てしまったからには仕方ありません」
「うん、わかるよ。リシアの話だと女神様は全知全能ではない……とはいえ、絶大な力を持つ、我ら人類の主であることは間違いないからね。断ることも難しいと思う。だけど、あえて言うよ。それって――リシアがやらなきゃいけないことかい?」
唐突に問い返されて、私は思わず息を呑んだ。
兄さんの声は静かだったけれど、その目はまっすぐで、どこまでも真剣だった。
「リシアは確かに、女神様から特別な力を授かったのかもしれない。でも大昔の、女神様の威光が満ち満ちていた世界ならともかく……今、このご時世で仮に『聖女』だと認められたとしても、すんなり事が運ぶとは思えないよ」
「……というと?」
「戦争を止めるには、政治と権力に介入が必要だろう? 食べ物で人を喜ばせられたとしても、それで利権がなくなるわけじゃない。むしろ、そういう存在を恐れて潰しにくる勢力も出てくるはずだ」
兄さんの声には、どこか淡々とした現実味があった。
多分それは兄さんが私よりずっと、外の世界と社会を知っているからだ。
「それに聖女って立場は便利なようでいて、同時にとても危うい。権力者に利用されるか、神秘の象徴として祀り上げられて、自由を失うか――最悪、民衆の不安のはけ口として処刑されたなんて話も、歴史上にはいくらでもある」
冷静な分析を聞いて、私は拳をぎゅっと握った。
確かに、兄さんの言う通りだ。
食べることにしか興味がなかった今世の私ですら過去、聖女を騙って捕まり、処刑されたという人間がこの大陸に何人もいることを知っている。
中には、邪魔な人間を『偽の聖女』として仕立て上げ、処刑した……なんてこともあるかもしれない。
「兄さんの言いたいことはわかります。でもそれは、『偽の聖女』に限った話だと思いますよ」
「……それは、どういうことだい?」
兄さんは目を細めて私を見た。
意図を測ろうとするような眼差しだ。
「今から私がお見せするものを見れば、わかっていただけると思います」
そう告げて、私は兄さんに手招きしつつ、扉を開けて外へ出た。