第32話 サンマの塩焼き食べたい、手羽先も食べたい
え……誰?
疑問に思ったのも束の間、人影はテントの入り口を開けて中に入ってくると、私の枕元に膝をついた。
そして耳元で、ささやくように言う。
「起きろ」
「オルディスでんっ!?」
慌てて起き上がると、声の主――オルディス殿下に口を手で押さえられた。
微かにシトラス系の爽やかな香りが漂い、そこから柑橘系→かぼす→サンマの塩焼きという連想をして、お腹が空いた。サンマの塩焼き食べたい。
「おい、静かにしろ。騒ぎになる」
口を押さえられながら、私は小さく頷いた。
とにかく手を離してほしい。今さっきサンマの塩焼きを食べたいと思っておいてなんだけど、ここ数日お肉も食べてないから、手羽先に見えて噛んでしまいそう。
「いいか、手を離すから落ち着け……なぜ興奮している?」
「興奮って……あのですね、殿方がいきなり寝室に入ってきたら、驚きもします」
あとお昼ごはんが少なすぎたから、オルディス殿下の良い香りを嗅いだ瞬間、蓋をしていた食欲が爆発して息が荒くなっているだけだ。
アルノー村長宅にいたときはコソコソ隠れてスキルを使いお腹を満たしていたけど、さすがに今日は使う暇がなかった。
「寝室? たかが野営のテントに入っただけで、大げさな」
「オルディス殿下……」
彼の無神経な発言で、いっきに食欲が減退した。
帝国の次期皇帝という特殊な立場であることを考えると、単に常識がないだけの気もするけど、それにしたってこの反応はひどい。将来の奥さんに同情する。
「まあいい。とにかく行くぞ」
「え……どちらにですか?」
「王都だ。森の中を徒歩で行くから多少遠回りではあるが、それでもここからなら半日もあれば着くだろう」
オルディス殿下は手を引っ張って、テントの外に私を連れ出そうとした。
私は慌てて足を突っ張らせ、抵抗する。
「ちょ、ちょっと待ってください。なぜこんな時間に、殿下と二人で?」
その言葉に、オルディス殿下の足がピタリと止まった。
そして逡巡するように言い淀んだあと、重い口調で話し出す。
「……このままだと、王都へ着く前にお前が死ぬからだ」
「は……はい? なぜです?」
「ライナルトの策謀だ。貴重な治癒聖術使いが帝国軍に入れば良し、入らなければ王国との火種に使えて良し。自分はこの場にいないから、何かあっても俺の独断として処理できる……奴の考えそうなことだな」
忌々しそうに顔を歪める彼を見て、私はますます混乱した。
どういうこと?
「あの、仰っている意味がよくわからないのですが……ライナルト師団長はオルディス殿下の部下なのですよね?」
「名目上はな。だが、実際のところは違う。奴は……」
オルディス殿下は一瞬ハッとしたように目を見開くと、すぐ私に背を向けた。
「……話しすぎたな。これ以上はお前が知るべきことじゃない。行くぞ」
そう言うと、彼は再び私の手首を掴んで引っ張ろうとする。
私はそれを慌てて振りほどいた。
「だ、大丈夫です。自力でついて行けます」
女神様の加護で膂力がとんでもないことになっている今の私がうっかり力を入れすぎたら、殿下を転ばせてしまうかもしれない。それどころか、下手をすればケガをさせてしまう可能性だってある。
帝国の次期皇帝を怪我させるなんて、考えただけでも恐ろしい。ライナルト師団長の策謀とか関係なく、天然の火種になってしまう。それは絶対に避けなければ。
「……遅れそうになったら言え」
オルディス殿下は私の慌てた様子に訝しげな表情を浮かべながらも、テントを出て進みだした。
彼の後ろをついてしばらく歩き、森の近くまで辿り着くと、見張りをしていたらしい兵士の一人が声をかけてくる。
「殿下、いかがなさいましたか?」
「気晴らしだ。しばらく森を散策する」
「それは……そちらのシスターも連れて、ですか?」
兵士が戸惑いと不安の入り混じった目で、じっと私を見つめてくる。
私のような傍から見ると戦えない人間を森へ連れて行くことに、困惑しているみたいだ。
「そうだ。何か問題でも?」
「いえ……ですが、しばしお待ちください。護衛をお付けいたします」
「不要だ。戦えない人間の一人も守れぬほど弱くはない」
「それは重々承知しております。しかし、師団長から『殿下をお一人にするな』と厳命されておりますので」
その言葉を聞いた瞬間、オルディス殿下の気配が変わった。
背後からでもわかるほどの、圧倒的な怒気が立ち昇る。
「貴様……俺とライナルトの命令、どちらを重く見るつもりだ?」
殿下の声は氷のように冷たく、兵士は顔を青ざめさせた。
そこに、私たちの背後から声がかかる。
「そうイジメてやるなよ、殿下。そいつだって仕事なんだからさ」
「セルジュ……」
オルディス殿下は彼の姿を認めた途端、露骨に苦々しい顔をした。
しかしセルジュ少年はまったく気にした様子もなく、飄々とした調子で言う。
「殿下の護衛はオレが引き継ぐから」
「セルジュ殿……了解しました。では、よろしくお願いします」
兵士は明らかにホッとした様子でそう言うと、セルジュ少年に深々と頭を下げた。
セルジュ少年……自分でもまともな側近じゃないみたいなことは言ってたけど、この若さで他の兵士に格上扱いされてるって……本当に、何者なんだろう。
「殿下、まさかオレについてくるな、とは言わないよな?」
「……勝手にしろ」
オルディス殿下は諦めたような溜息をつくと、踵を返して森の中へと歩いていく。私もその後ろに続き、背後からはセルジュ少年がのんびりとした足取りでついてきた。
しばらく歩くと、おもむろにセルジュ少年がオルディス殿下に話しかけた。
「殿下さぁ、もしかしてこのシスターを王都に逃がそうとか考えてる?」
「だとしたら、なんだ」
「できると思ってんの? オレがいるのに」
「…………」
オルディス殿下は何も答えない。足音だけが森の静寂に響く中、三人は無言で歩き続けた。木々の間を縫って差し込む月明かりが時折、苔むした地面に複雑な影模様を描いている。
「おい、無視すんなよ」
セルジュ少年が苛立ったように言うと、オルディス殿下は変わらず背を向けて歩き続けたまま、低い声で返答する。
「……セルジュ、取り引きだ。俺が皇帝になったら、お前を解放する。だから今は俺の言うことを聞け」
「話にならないね。アンタが皇帝になるかも今はまだ確定してないし、そもそもオレは解放なんて望んでない」
「それはお前が自由を知らないからだ。自由を知れば、必ず……」
セルジュ少年が途中で吹き出して、笑いながらオルディス殿下の言葉を遮る。
「ちょっと待てよ、それアンタが言う? 冗談は……あぁ、なるほど」
歩き続けるオルディス殿下の背中を見ながら、セルジュ少年はフッと意味深な笑みを浮かべた。
「会話で少しでも距離を稼ごうっていう、弱者なりの努力か。よくやるよ、無駄なのに」
「弱者……か」
オルディス殿下は急に立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返った。
そして胸元から鈍色に光る何かを取り出すと、私の前に歩み寄り、そっと首にかけてくれる。
それは針のない懐中時計のような、金属製のペンダントだった。
古びた金属の冷たさと重みが肌に伝わる。表面には見慣れない文字や記号が緻密に刻まれており、まるで魔法陣のような神秘的な雰囲気を醸し出していた。




