第31話 運命の問い
今はまだ単なる一介の治癒聖術使いでしかないはずの私が、神聖グランツァルク帝国の皇太子に直接、帝国軍への勧誘をされていたかと思ったら――
「どうした、選べ。選択肢は二つに一つ。簡単な話だろう」
――なぜか帝国軍への入隊か、自分の命を捨てるかの二択を迫られていた。
「…………」
驚きのあまり言葉が出てこない。
いくらなんでも超展開すぎて、夢でも見ているんじゃないかと思うぐらいだ。
しかし首に当てられた剣の冷たさは、これが現実であることを物語っていた。
「無言は、帝国軍への入隊と見做す」
「ま……待って、ください」
慌てて声を上げる。
このまま黙っていたら、本当に勝手に決められてしまう。
「これは……あまりにも理不尽な仕打ちでは?」
震える声でそう言うのが精一杯だった。剣を突きつけられながら、まともに抗議の言葉など出てくるはずがない。
女神様の加護で死なないとわかっているはずなのに、心臓が激しく脈を打つ。前世でも今世でも、修羅場など無縁な生活を送ってきたからだろうか。もし加護も何もなかったら、恐怖のあまり失神していたかもしれない。
「人生など、そのようなものだろう。運命は選ぶものではなく、受け入れるものだ。お前にできるのは、その運命にどう向き合うかだけだと知れ」
オルディス殿下の声は、感情の欠片も感じられないほど淡々としていた。
氷の刃で言葉を紡いでいるかのような冷たさで、その黒い瞳には深い絶望が宿っているように見える。
私はその瞳に、彼の抱える闇の一端を垣間見た気がした。
帝国の皇太子という立場でありながら、まるで囚人のような諦観を漂わせている。
緊張で乾いた喉が、ごくりと音を立てた。
「オルディス殿下は……ご自身の運命を、受け入れたのですか?」
その瞬間、オルディス殿下の目が見開かれた。思いもよらない言葉を投げかけられたかのように、驚愕の表情を浮かべている。
それを茶化すように、隣のセルジュ少年が口笛をひとつ吹いた。
冗談にはならない緊迫した空気の中で、ただその音だけが妙に浮いて響く。
おもむろに、馬車の速度が落ち始めた。
窓の外に視線を向けると、蹄の音とともに馬に乗った帝国軍の兵士が馬車のすぐそばまで近づいてきていた。彼は窓越しに、中の様子をうかがいながら声をかけてくる。
「殿下、そろそろ……っ!?」
兵士は馬車内の状況を目にして、露骨に顔を引きつらせた。
それはそうだろう。剣を突きつけられた修道女と、剣を突きつけている皇太子という、どう見ても修羅場としか言いようのない光景が広がっているのだから。
「で、殿下、何か問題が……?」
「…………いや、何も問題はない」
オルディス殿下はそう答えると、私の首筋から剣をゆっくりと離し、腰の鞘に納めた。そのまま彼は何事もなかったかのように腰を下ろす。
それを見た兵士がほっとした様子で、続きを話し始める。
「殿下、そろそろ野営の準備をしたいのですが、よろしいでしょうか? まだ完全に日は落ちていませんが、ここから先はしばらく森が続きますので」
「……任せる」
オルディス殿下はそう言うと、窓枠に頬杖をついて目を閉じた。
今さっきまでの修羅場など無かったかのような振る舞いだ。
「はっ、かしこまりました!」
兵士は元気よく返事をすると、蹄の音を響かせながら隊列に戻っていった。
その後も、オルディス殿下は微動だにしない。目を閉じたまま、意識をどこか遠くへ飛ばしているかのようだった。どうやら私と問答の続きをするつもりはないらしい。
「なぁシスター。アンタ、こうなるってわかってたのか?」
唐突にかけられた声に、私は思わず肩を震わせた。
隣に視線を向けると、セルジュ少年がじっとこちらを見つめている。
「いえ、そんなことは……」
「ふーん……じゃあ、なんでアンタ、自分が死なないってわかってたんだ?」
「え……」
セルジュ少年の鋭い指摘に、私は言葉を失った。
確かに私は女神様の加護があるから、自分が死なないとは思っていたけど……でも、なぜ彼がそれを言い当てられたのだろうか。
「……どうして、そう思ったのですか?」
「どうしてって……んー、なんだろな。目とか、表情とか、言葉とか、匂いとか……」
「に、匂い、ですか?」
「ああ、オレ鼻が良いんだよね。目も良いんだけどさ。だから色々とわかるわけ」
セルジュ少年はそう言って、得意げに胸を張った。
オルディス殿下に馴れ馴れしくしたり、空気を読まず口笛を吹いてみたりと、彼はただの少年とは思えない謎の多い人物だが、得意げなその表情は年相応の幼さが感じられる。
「で? 結局、なんで死なないってわかってたんだ?」
「それは……説明が難しいですね」
もしセルジュ少年の言うことが本当なら、下手な嘘は見破られる。
かといって、事情を全部そのまま言うわけにもいかないし。
「そうですね……端的に言いますと、私には女神様の加護があるので、命は奪われないと思っていました」
悩んだ挙句、私はシンプルに真実を少しだけ話すことにした。
「女神様の加護、ねぇ……」
セルジュ少年は私の言葉を反芻するように呟くと、しばらく黙り込んだ。
その間、彼の瞳は私の顔をじっと観察しているようだった。
「……アンタ、嘘が上手いね。オレが『底』を読めない人間なんて久しぶりだよ。もしくは、本当の狂信者か。どっちにしろ、まともじゃない」
「まともじゃないって……失礼ですね」
「誉め言葉さ。オレがまともじゃないからね。まともな人間より、まともじゃない人間のほうが見てて楽しいだろ?」
「さぁ、わかりかねます。私には人を見て楽しむ趣味はありませんから」
私がそう答えると、セルジュ少年はくすりと笑った。その笑い声は妙に大人びていて、彼が年若い少年であることを忘れそうになる。
直後、馬車が街道を外れ、ゆっくりと速度を落としながら森の近くにある平原で止まった。
外からは馬のいななきや男性たちの声が聞こえてくる。平原ではすでに到着していた兵士たちが、テントを張ったり焚き火の準備をしたりと、野営の準備を進めていた。
〇
野営の準備が整い、日が暮れて夜が更けた頃。
一部の見張りを残して帝国軍の兵士たちは寝静まっていた。
私は与えられた一人用テントの中で横になりながら、昼間のことを思い返していた。オルディス殿下に『帝国軍への入隊か、自分の命を捨てるか』という二択を迫られたことだ。
途中でうやむやにはなったけど、あのオルディス殿下が前言を撤回して、このまま何事もなく王都へと私を送り届けてくれるのだろうか。
……難しい気がする。
もちろん私は女神様の加護があるから、命を奪われることはない。
でもそれはそれとして、王都の教会本部で聖女認定される前に問題を起こすのは避けたい。
ましてや相手は、神聖グランツァルク帝国の皇太子だ。この大陸でもトップクラスで衝突を避けなければならない相手と言っても過言ではない。
「……逃げようかな」
ぽつりと呟く。
口に出してみると、それが一番良い選択肢であるように思えた。
人生、山あり谷ありだけど、何も困難な問題に真っ向から挑む必要なんてない。
いや、時には必要かもしれないけど、少なくとも今はそうじゃない。
となれば、今すぐ行動しなければ。夜が明けたらオルディス殿下がどう出るかわからない。
そう思い、起き上がろうとした次の瞬間。
テントの壁に人影がぼんやりと映った。




