第30話 王都の美食界隈
私が返答に詰まっていると、それを察したのかオルディス殿下が続きを話し出した。
「後方支援で前線に出る必要がなく、給与も相場の倍。休みも週に二日と、至れり尽くせりの条件だったはずだ。お前もそれに強い魅力を感じているようだったと、ライナルトも言っていた。であれば、あとは決断するだけだろう。何を悩む必要がある?」
「それは……その……」
聖女としての使命があるから、なんてことはもちろん言えない。
マズい……こんな状況はまったく想定していなかったから、良い感じの答えが思いつかない。
「じ、実はその……王都には……」
「王都には?」
「美味しい料理店が、いっぱいあると聞きまして……」
「……………………」
オルディス殿下はまばたきもせず、微動だにせず、まるで彫像のようにこちらを見つめていた。黒い瞳が何かを探るように、じっくりと私の顔を覗き込んでいる。
それから、しばらくして。
「ん……?」
ようやく殿下の口から声が漏れた。
そしてゆっくりと首を傾げ、少しだけ眉をひそめる。
「今のは……まさか、冗談ではなく……本気か?」
「え……えっと……」
一気に恥ずかしくなった。顔が火照るのを感じる。咄嗟にこんな言い訳しか思い浮かばないバカで食いしん坊な自分を呪った。でも、今さら否定はできない。ここで嘘だったと言えば、それこそ本当の理由を追及されてしまう。
「は、はい……そうです……」
「………………なるほど」
オルディス殿下は腕を組み、深く考え込むような表情を浮かべた。私はその様子を固唾を呑んで見守る。怒られるのだろうか。それとも呆れられるのだろうか。
少し間を置いて、オルディス殿下は静かに口を開いた。
「王都には帝国軍の待遇と比較してなお、民衆を惹きつける料理店が多数あるのか……そういえば、先代国王の時代から王都の料理人たちは特別な地位を与えられていたな。『美食は王国の誇り』という格言もあると聞く。たしか中央区画の『金獅子亭』や『星降る夜の館』といった名店は、王国貴族ですら予約が数年先になるという……ふむ、それらの店で腕を磨いた料理人たちが、やがて自らの店を持ち、庶民にも手が届く味として美食を広めていった、ということか……なるほど、そう考えれば納得がいく」
「……………………………………」
なんか、すごく真面目に考察されちゃった……。
しかも私よりよほど、王都の美食界隈に詳しい。
じっと見ていると、オルディス殿下がこちらに気がついた。
ゆるやかに視線が戻り、真っ直ぐに私を捉える。
「なんだ?」
「いえ……他国のことなのに、お詳しいんですね」
オルディス殿下はわずかに片眉を上げた。
けれど否定も謙遜もせず、自然な口調でこう続ける。
「やがて併合すべき国の首都だ。円滑に統治を進めるためにも、民衆の生活や文化を理解しておく必要がある。とはいえ、先ほど挙げた名店以外にもそこまで民衆に支持される料理店が多数あるとは、知らなかったが」
「あっ、その、私も具体的に聞いたわけじゃないんですけど……」
というか、完全にその場で思いついたでっち上げの理由なので、そこを具体的に掘り下げられると困る。なんとかして話題を逸らさなければ。幸いというべきか、聞きたいことはある。
「あの……殿下は今、王国をやがて併合すべき国と仰いましたが……それは、殿下ご自身のお考えですか?」
「おい」
オルディス殿下の声が低くなった。
それまでのどこか穏やかだった空気が一変し、張り詰めた緊張感が辺りを包む。
殿下の黒い瞳が鋭く光り、私を射抜くように見据えている。
背筋に冷たいものが走った。
「神聖グランツァルク帝国の皇太子たる俺に、いちシスターが考えを問うなど……まともな側近がこの場にいたら、首を刎ねられてもおかしくない不敬だ。発言には気をつけろ」
「す、すみません! ですが、その……」
思わず頭を下げながらも、私は必死で言葉を継いだ。
帝国の皇太子と直接話せる機会なんて、滅多にない。しかも今は非公式な場なのだ。
今後、聖女として活動をする際に、帝国の次期後継者であろう彼の本音を知っておくことはきっと役に立つ。それに私は女神様の加護で首を刎ねられる心配はないし、聞き得である。いくら死なないとはいえ怖いけど、ここは勇気を振り絞るところだろう。
「私の首が刎ねられていないということは、この場にまともな側近……はいらっしゃらないんですよね。でしたら、聞いても良いですか? 殿下ご自身のお考えを」
オルディス殿下は一瞬、呆然とした表情を浮かべた。
そして次の瞬間、隣に座っている少年がこらえ切れないと言った様子で吹き出す。
「ぶはっ! お、おい殿下、この女、頭おかしいんじゃねぇの?」
「……セルジュ、何を笑っている。貴様とて、まともな側近ではないと言われたようなものだぞ」
「いや、オレはそもそも殿下の側近じゃねぇし。合ってるじゃん」
セルジュと呼ばれた少年が楽しそうに笑う中、オルディス殿下は深いため息をついた。
「……であれば、そうだな。お前が帝国軍に入るのであれば、話すとしよう」
「それはお断りさせていただきます。ですが、殿下のお考えは聞きたいです」
一度覚悟を決めてしまえば、断るのは容易だった。
私の即答に、オルディス殿下の眉がぴくりと動く。
「お前……それはさすがに、図々しすぎるとは思わないのか?」
オルディス殿下の声色が、明確に冷えた。
先ほどセルジュ少年が笑った際に弛緩した空気が、再び一変する。
怒らせてしまったかもしれない。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「図々しいとは思いますが、お願いします」
「……お前、何か勘違いをしているようだな」
オルディス殿下の声は、氷のように冷たかった。先ほどまでの会話とは明らかに違う、有無を言わさぬ威圧感が彼の全身から立ち上る。
「お前に、俺の提案を断るという選択肢はない。言ったはずだ。俺が勧誘するという名目で同行している以上、帝国軍への入隊を断る余地はない、と」
「え……いや、でも」
「お前が帝国軍に入る気がない理由は聞いた。聞いたが、それは単なる興味だ。断ることを許可したわけではない。『帝国軍に入るのであれば』という仮定も、あくまでお前が自分の意思で入る形を取らせてやろうという、俺の情けだ」
「許可って……」
そんなこと言われても。
私はあなたの部下じゃないし、そもそも帝国の人間ですらないんですが。
「ひとつ聞くが、一介の治癒聖術使い一人すら勧誘できない男が、大陸全土を統一できると思うか?」
「……いえ、思いませんが、でもそんなことを言われても困ります」
「では、選べ」
言うなり、オルディス殿下は立ち上がった。
そして腰の剣を滑らかに抜き放つと、刃先を私の首筋に軽く触れさせる。その動作は流れるように美しく、恐ろしく静かだった。
冷たい鋼の感触に、私の心臓が跳ね上がる。
「帝国軍に入るか――ここで、俺に殺されるかを」




