表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/37

第3話 遠い日の思い出

「……リシア?」


 私が流した涙に、兄さんは戸惑ったような声を出した。


「どうしたんだい、急に……まさか、お腹が痛いんじゃ……」


「違います。ただ、ちょっと……」


 フォークを置いて、私は袖で涙をぬぐった。涙の理由を説明しなきゃ、と思う。でもどう言えばいいのか、少しだけ迷って……それから、まっすぐ兄さんの目を見た。


「前の世界のことを、思い出しただけです」


「……前の世界?」


 兄さんが眉をひそめる。

 考えを巡らせ、どこか慎重に言葉を選んでいるような表情だ。

 やっぱり、兄さんは鋭い。


 この数日、私は自分でも驚くくらい振る舞いが変わったと思う。

 食べ物に対しての愛情が更に増したとか、妙に落ち着いたとか……まあ、兄さんなら見抜いて当然だ。


「兄さんは、もう薄々気づいていると思いますけど……正直に言います」


 私は姿勢を正し、深く息を吸った。


「私には、違う世界で生きていた記憶があります。つまり、前世の記憶があるんです」


「……もしかして、それは……三日前、高熱で寝込んだときから?」


 さすが兄さん、気づくのが早い。

 私はこくりと頷いた。


「はい。あの夜、熱でうなされながら女神様と会話する夢を見て……気がついたら、前世の記憶が蘇っていました」


「そっか……いや、にわかには信じ難いけど、腑に落ちる部分もある」


 兄さんは腕を組んで、目を細めた。


「三日前から突然、世界情勢について聞いてきたり、僕の見えない場所でコソコソ何かをやっていたり……どうもおかしいな、とは思っていたんだよ。前までのリシアは、今日食べる食事の献立くらいにしか興味がなかったからね」


「失礼な。明日と明後日の献立にだって、ちゃんと思いを馳せるくらいの頭はありましたよ」


 思わずムキになって返すと、兄さんがクスッと笑った。

 私もつられて笑ってしまう。


「でも、前世の記憶が蘇ったからといっても、リシアはリシアなんだろう?」


「……はい。私の中に、ふたつの記憶があるだけです」


 私は胸の前で、そっと両手を重ねた。

 記憶が溶け合った今となっては前世の私も、今の私も、同じ私だ。

 どちらが欠けても、今の私は存在しない。


 兄さんが、ふと懐かしむように天井を仰いだ。


「……この村に来る前のこと、覚えてる?」


「はい、もちろんです。忘れるはずがありません」


 私と兄さんは元々、もっと東にある寒村の生まれだ。

 人が少なくて、土地は瘦せていて――そして当時まだ私が幼い頃、疫病と飢餓が村を襲った。


「あのときは、村の人たちが次々に倒れて……生き残ったのは、兄さんと私だけでした」


「そうだね……」


 極限状態の中、兄さんが疫病さえも治す奇跡の力――治癒(ちゆ)聖術(せいじゅつ)に目覚めなければ、二人ともあのまま死んでいただろう。


 そうでなくとも、何の後ろ盾もない子供二人だ。

 兄さんが人々に重宝される治癒聖術に目覚めていなければ、命からがら辿り着いたこの村に受け入れてもらうことすら、難しかったかもしれない。


 何せあの頃はまだ、私たちのいる王国は戦時中だった。

 今でこそ停戦して十年ほど経って、多少の余裕が出てきてはいるけど、当時はどの村も苦しかったはずだから。

 

 あれから十五年。私は二十歳、兄さんは二十五歳になった。

 今ではあの頃からは想像もつかないほど穏やかで、豊かだ。


 まあそれもこれも全部、兄さんが治癒聖術を使えるおかげで司祭様になって、その妹の私も縁故で修道女をやらせてもらってるからなんだけど。


「この村に来て、もう十五年か……あっという間だね」


「はい。まさか泣き虫で食いしん坊で、ただひたすら兄さんの足を引っ張るだけだった私が、こんなにしっかり者になるとは」


「そこまで言わなくても……でも、本当にしっかり者になったよね、リシアは。食いしん坊はそのままだけど」


「否定はしません」


 二人で笑い合った、その時。

 兄さんがふと何かを思い出したように、私の顔をじっと見つめてくる。


「ところで……その、前世のリシアはいったい、いくつだったんだい?」


「兄さん」


 私は表情を崩さず、ピシャリと言った。


「女性に年齢を尋ねるのは、失礼ですよ」


 兄さんが吹き出す。


「なぜ笑っているんですか?」


 私は小首を傾げながら、兄さんに尋ねた。

 兄さんは涙をこらえるように笑って、目元をぬぐう。


「ご、ごめん、なんか……面白くてさ」


 どこが面白いのか、まったくわからない。

 私は少しむっとして、兄さんをじっと見返す。

 けれど兄さんは笑いの余韻を引きずりつつも、すぐに表情を真面目なものへと引き締めた。


「でもそうなると、女神様の件も本当なのか……」


 唸るように漏らされるその言葉に、私は肩をすくめて見せた。


「だから、最初から本当だと言ってるじゃないですか。というより、なぜ前世の話はすんなり信じて、女神様の件は信じてくれないんです?」


「いや、前世の話だって、すんなり信じたわけじゃないけどね。ただ……」


 兄さんの視線が、机の上へと落ちる。

 そこには、半分ほど残った『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』の瓶と、空になった『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』の容器が並んでいた。


 兄さんはそのふたつを交互に見つめ、ため息をつく。


「……これらはどう見ても、リシアの手から現れた。しかも、今まで見たことのない瓶や、文字……ごはんが入っていた容器の蓋だって、透明なのにペラペラで、明らかに未知の素材だったからね。これはただの手品じゃないなと、思い始めてはいたんだよ」


「もう、信じるのが遅すぎます。女神様が嫌いな兄さんに、私がこんな嘘をつくはずないじゃないですか」


「別に嫌いってわけじゃ……」


 兄さんは言いかけて、目を伏せた。

 そのまま小さく息をついて、ぽつりと呟く。


「……そうだね。確かに、リシアの言う通りだ」


 その表情は、どこか遠くを見つめているようで――ほんの少し、寂しげだった。

 光の入り込む窓の方を見やりながら、兄さんはかすかに口元を歪める。


「何せ女神様は、僕たちの村を……父さんと母さんを、救ってはくれなかったしね」


「兄さん……」


 私が思わず言葉を落とすと、兄さんはわざとらしく肩をすくめて、軽く笑った。


「おっと、不敬だったね。天罰でも下されるかな?」


「いえ」


 私は首を振る。

 そして、ゆっくりと口を開いた。


「何度か女神様とお話してわかりましたが、聖書に記されている内容とは違って、女神様も全知全能というわけではないようなので、その……」


「……ああ、なるほど。そういうことか」


 兄さんは目を伏せたまま、小さく笑った。


「僕たちみたいな、末端の人間なんて眼中になかったってことか」


 それは、どこまでも優しい兄の声だったけれど、滲むものは怒りに近くて。

 私は言葉の続きを、胸の奥で押しとどめた。


 こちらの様子を見た兄さんが、気まずそうな顔で視線を逸らす。


「……ごめん。リシアに言うようなことじゃなかったね」


「そんなこと……ありません」


 私は、静かに首を振って言った。


 あの頃、私はただ兄の足を引っ張る、五歳の幼子で。

 村に疫病が流行り始めたときには、すぐに熱を出して寝込んでしまっていた。

 それでも生き延びることができたのは、大人のほうが重症化しやすい疫病だったこと、そして――

 十歳だった兄さんが地獄のような村の中で、飢えと絶望に耐えながら私を守り抜いてくれたからだ。


 彼は毎日、必死になって食料を探し、干からびた根菜や野草をかき集めてきた。

 そして一生懸命に煮炊きして簡単なスープにしてから、どれほど自分が空腹でも、まずは私に食べさせようとしてくれた。

 治癒聖術に目覚めたのも、きっと限界の先にあった祈りのような願いが届いたからだ。


 当時十歳の少年であった兄さんが直面した地獄を思うと、胸が張り裂けそうになる。兄さんが誰かに文句を言う資格があるとしたら、その相手は他の誰でもない――私だ。

 私は兄さんと同じ地獄の中心にいたくせに、ただ守られているばかりだったのだから。


 そんな自分の想いを伝えると、兄さんは自嘲気味に肩をすくめた。


「まだ小さかったリシアを守るのは当然だよ。家族だし、兄だからね。ただ僕が勝手に女神様に期待して、勝手に失望していただけだよ。女神様がみんなを救ってくれるって、ずっと信じてたから。だから、父さんと母さんが死んだ後、治癒聖術に目覚めたときは……感謝すると同時に、心底憎んだよ。なんで今さら……ってね」


「……………………」


「ああ……ごめん。こんなことを言うのなんて、それこそ今さらなのに……」


「兄さん」


 優しく遮るように声をかける。

 そして、あえて笑ってみせた。


「それ、たぶんお腹が空いてるから、暗いことばかり考えちゃうんです。だから……」


 私はキッチンに向かい、お米が入っている布袋を持ってくる。そして両手でお米をすくい上げ、温めもお願いします……! と祈るようにスキルを発動した。


 直後、ホカホカの『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』が、柔らかな湯気と共に姿を現す。


「さあ、兄さん。まずはお腹を満たしましょう」


 まだ『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』は半分も残っている。

 というより、普通はごはん200g食べるのに、やわらぎ半分も使わない。

 久しぶりの桃屋のやわらぎが死ぬほど美味しくて、ついつい使いすぎてしまった。まあそれはいいとして。


 私は新しいフォークと、新たに女神様からもらったホカホカの『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』を合わせて兄さんに渡して、机に座らせる。


 兄さんは一瞬、見たことのない食べ物にためらいの表情を浮かべたが――


「……じゃあ、少しだけ」


 意を決して、やわらぎを白ごはんの上に乗せ、口に運んだ。

 刹那、兄さんの目が大きく見開かれる。


「な……うまっ……!? な、なにこれ……」


 次の瞬間には、もう無心でフォークを動かしていた。

 ごはんをかきこみ、やわらぎを乗せ、またかきこむ。

 夢中で食べる兄さんの姿に、私は小さく微笑んだ。


 ああ、やっぱり。こうなると思ってた。

 私、この世界で『桃屋のやわらぎ』と、『サトウのごはん』より美味しいものなんて、食べた記憶ないからね。きっと兄さんもそうだろうなと思ったよ。


 私は外に行き、手早く鎌でラギの茎を刈り取ってくると、追加で『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』に変えた。もちろんキッチンに行ってお米をすくい上げ、ホカホカの『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』を用意するのも忘れない。

 あの勢いだと、絶対すぐになくなるだろうから。


「あっ……」


 食べ終わって、ほんの一瞬だけ寂しそうにうつむいた兄さんの前に、私はさっと、新しい『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』と『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』を差し出した。


「……ありがとう」


 兄さんは少しだけ潤んだ瞳で礼を言い、再びフォークを手に取る。

 そして二杯目も、あっという間に平らげていく。


「こんなに美味しいものが、この世にあるなんて……」


 呆然としたように呟く兄さんは、口元にわずかな笑みを残しながら、涙をこぼしていた。


「……昔、父さんが狩った鹿の肉を、母さんがシチューにしてくれて……みんなで食べたとき以来だ。こんなに、夢中で何かを食べたのは」


 ぽろぽろと涙をこぼしながら、兄さんは最後の一口をゆっくりと噛みしめる。


「美味しい……美味しいよ。父さん……母さん……」


 その声は、まるで遠い日を呼び戻すかのように。

 優しく……どこか、切なげだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ