第3話 遠い日の思い出
「……リシア?」
私が流した涙に、兄さんは戸惑ったような声を出した。
「どうしたんだい、急に……まさか、お腹が痛いんじゃ……」
「違います。ただ、ちょっと……」
フォークを置いて、私は袖で涙をぬぐった。涙の理由を説明しなきゃ、と思う。でもどう言えばいいのか、少しだけ迷って……それから、まっすぐ兄さんの目を見た。
「前の世界のことを、思い出しただけです」
「……前の世界?」
兄さんが眉をひそめる。
考えを巡らせ、どこか慎重に言葉を選んでいるような表情だ。
やっぱり、兄さんは鋭い。
この数日、私は自分でも驚くくらい振る舞いが変わったと思う。
食べ物に対しての愛情が更に増したとか、妙に落ち着いたとか……まあ、兄さんなら見抜いて当然だ。
「兄さんは、もう薄々気づいていると思いますけど……正直に言います」
私は姿勢を正し、深く息を吸った。
「私には、違う世界で生きていた記憶があります。つまり、前世の記憶があるんです」
「……もしかして、それは……三日前、高熱で寝込んだときから?」
さすが兄さん、気づくのが早い。
私はこくりと頷いた。
「はい。あの夜、熱でうなされながら女神様と会話する夢を見て……気がついたら、前世の記憶が蘇っていました」
「そっか……いや、にわかには信じ難いけど、腑に落ちる部分もある」
兄さんは腕を組んで、目を細めた。
「三日前から突然、世界情勢について聞いてきたり、僕の見えない場所でコソコソ何かをやっていたり……どうもおかしいな、とは思っていたんだよ。前までのリシアは、今日食べる食事の献立くらいにしか興味がなかったからね」
「失礼な。明日と明後日の献立にだって、ちゃんと思いを馳せるくらいの頭はありましたよ」
思わずムキになって返すと、兄さんがクスッと笑った。
私もつられて笑ってしまう。
「でも、前世の記憶が蘇ったからといっても、リシアはリシアなんだろう?」
「……はい。私の中に、ふたつの記憶があるだけです」
私は胸の前で、そっと両手を重ねた。
記憶が溶け合った今となっては前世の私も、今の私も、同じ私だ。
どちらが欠けても、今の私は存在しない。
兄さんが、ふと懐かしむように天井を仰いだ。
「……この村に来る前のこと、覚えてる?」
「はい、もちろんです。忘れるはずがありません」
私と兄さんは元々、もっと東にある寒村の生まれだ。
人が少なくて、土地は瘦せていて――そして当時まだ私が幼い頃、疫病と飢餓が村を襲った。
「あのときは、村の人たちが次々に倒れて……生き残ったのは、兄さんと私だけでした」
「そうだね……」
極限状態の中、兄さんが疫病さえも治す奇跡の力――治癒聖術に目覚めなければ、二人ともあのまま死んでいただろう。
そうでなくとも、何の後ろ盾もない子供二人だ。
兄さんが人々に重宝される治癒聖術に目覚めていなければ、命からがら辿り着いたこの村に受け入れてもらうことすら、難しかったかもしれない。
何せあの頃はまだ、私たちのいる王国は戦時中だった。
今でこそ停戦して十年ほど経って、多少の余裕が出てきてはいるけど、当時はどの村も苦しかったはずだから。
あれから十五年。私は二十歳、兄さんは二十五歳になった。
今ではあの頃からは想像もつかないほど穏やかで、豊かだ。
まあそれもこれも全部、兄さんが治癒聖術を使えるおかげで司祭様になって、その妹の私も縁故で修道女をやらせてもらってるからなんだけど。
「この村に来て、もう十五年か……あっという間だね」
「はい。まさか泣き虫で食いしん坊で、ただひたすら兄さんの足を引っ張るだけだった私が、こんなにしっかり者になるとは」
「そこまで言わなくても……でも、本当にしっかり者になったよね、リシアは。食いしん坊はそのままだけど」
「否定はしません」
二人で笑い合った、その時。
兄さんがふと何かを思い出したように、私の顔をじっと見つめてくる。
「ところで……その、前世のリシアはいったい、いくつだったんだい?」
「兄さん」
私は表情を崩さず、ピシャリと言った。
「女性に年齢を尋ねるのは、失礼ですよ」
兄さんが吹き出す。
「なぜ笑っているんですか?」
私は小首を傾げながら、兄さんに尋ねた。
兄さんは涙をこらえるように笑って、目元をぬぐう。
「ご、ごめん、なんか……面白くてさ」
どこが面白いのか、まったくわからない。
私は少しむっとして、兄さんをじっと見返す。
けれど兄さんは笑いの余韻を引きずりつつも、すぐに表情を真面目なものへと引き締めた。
「でもそうなると、女神様の件も本当なのか……」
唸るように漏らされるその言葉に、私は肩をすくめて見せた。
「だから、最初から本当だと言ってるじゃないですか。というより、なぜ前世の話はすんなり信じて、女神様の件は信じてくれないんです?」
「いや、前世の話だって、すんなり信じたわけじゃないけどね。ただ……」
兄さんの視線が、机の上へと落ちる。
そこには、半分ほど残った『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』の瓶と、空になった『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』の容器が並んでいた。
兄さんはそのふたつを交互に見つめ、ため息をつく。
「……これらはどう見ても、リシアの手から現れた。しかも、今まで見たことのない瓶や、文字……ごはんが入っていた容器の蓋だって、透明なのにペラペラで、明らかに未知の素材だったからね。これはただの手品じゃないなと、思い始めてはいたんだよ」
「もう、信じるのが遅すぎます。女神様が嫌いな兄さんに、私がこんな嘘をつくはずないじゃないですか」
「別に嫌いってわけじゃ……」
兄さんは言いかけて、目を伏せた。
そのまま小さく息をついて、ぽつりと呟く。
「……そうだね。確かに、リシアの言う通りだ」
その表情は、どこか遠くを見つめているようで――ほんの少し、寂しげだった。
光の入り込む窓の方を見やりながら、兄さんはかすかに口元を歪める。
「何せ女神様は、僕たちの村を……父さんと母さんを、救ってはくれなかったしね」
「兄さん……」
私が思わず言葉を落とすと、兄さんはわざとらしく肩をすくめて、軽く笑った。
「おっと、不敬だったね。天罰でも下されるかな?」
「いえ」
私は首を振る。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「何度か女神様とお話してわかりましたが、聖書に記されている内容とは違って、女神様も全知全能というわけではないようなので、その……」
「……ああ、なるほど。そういうことか」
兄さんは目を伏せたまま、小さく笑った。
「僕たちみたいな、末端の人間なんて眼中になかったってことか」
それは、どこまでも優しい兄の声だったけれど、滲むものは怒りに近くて。
私は言葉の続きを、胸の奥で押しとどめた。
こちらの様子を見た兄さんが、気まずそうな顔で視線を逸らす。
「……ごめん。リシアに言うようなことじゃなかったね」
「そんなこと……ありません」
私は、静かに首を振って言った。
あの頃、私はただ兄の足を引っ張る、五歳の幼子で。
村に疫病が流行り始めたときには、すぐに熱を出して寝込んでしまっていた。
それでも生き延びることができたのは、大人のほうが重症化しやすい疫病だったこと、そして――
十歳だった兄さんが地獄のような村の中で、飢えと絶望に耐えながら私を守り抜いてくれたからだ。
彼は毎日、必死になって食料を探し、干からびた根菜や野草をかき集めてきた。
そして一生懸命に煮炊きして簡単なスープにしてから、どれほど自分が空腹でも、まずは私に食べさせようとしてくれた。
治癒聖術に目覚めたのも、きっと限界の先にあった祈りのような願いが届いたからだ。
当時十歳の少年であった兄さんが直面した地獄を思うと、胸が張り裂けそうになる。兄さんが誰かに文句を言う資格があるとしたら、その相手は他の誰でもない――私だ。
私は兄さんと同じ地獄の中心にいたくせに、ただ守られているばかりだったのだから。
そんな自分の想いを伝えると、兄さんは自嘲気味に肩をすくめた。
「まだ小さかったリシアを守るのは当然だよ。家族だし、兄だからね。ただ僕が勝手に女神様に期待して、勝手に失望していただけだよ。女神様がみんなを救ってくれるって、ずっと信じてたから。だから、父さんと母さんが死んだ後、治癒聖術に目覚めたときは……感謝すると同時に、心底憎んだよ。なんで今さら……ってね」
「……………………」
「ああ……ごめん。こんなことを言うのなんて、それこそ今さらなのに……」
「兄さん」
優しく遮るように声をかける。
そして、あえて笑ってみせた。
「それ、たぶんお腹が空いてるから、暗いことばかり考えちゃうんです。だから……」
私はキッチンに向かい、お米が入っている布袋を持ってくる。そして両手でお米をすくい上げ、温めもお願いします……! と祈るようにスキルを発動した。
直後、ホカホカの『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』が、柔らかな湯気と共に姿を現す。
「さあ、兄さん。まずはお腹を満たしましょう」
まだ『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』は半分も残っている。
というより、普通はごはん200g食べるのに、やわらぎ半分も使わない。
久しぶりの桃屋のやわらぎが死ぬほど美味しくて、ついつい使いすぎてしまった。まあそれはいいとして。
私は新しいフォークと、新たに女神様からもらったホカホカの『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』を合わせて兄さんに渡して、机に座らせる。
兄さんは一瞬、見たことのない食べ物にためらいの表情を浮かべたが――
「……じゃあ、少しだけ」
意を決して、やわらぎを白ごはんの上に乗せ、口に運んだ。
刹那、兄さんの目が大きく見開かれる。
「な……うまっ……!? な、なにこれ……」
次の瞬間には、もう無心でフォークを動かしていた。
ごはんをかきこみ、やわらぎを乗せ、またかきこむ。
夢中で食べる兄さんの姿に、私は小さく微笑んだ。
ああ、やっぱり。こうなると思ってた。
私、この世界で『桃屋のやわらぎ』と、『サトウのごはん』より美味しいものなんて、食べた記憶ないからね。きっと兄さんもそうだろうなと思ったよ。
私は外に行き、手早く鎌でラギの茎を刈り取ってくると、追加で『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』に変えた。もちろんキッチンに行ってお米をすくい上げ、ホカホカの『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』を用意するのも忘れない。
あの勢いだと、絶対すぐになくなるだろうから。
「あっ……」
食べ終わって、ほんの一瞬だけ寂しそうにうつむいた兄さんの前に、私はさっと、新しい『桃屋の穂先メンマやわらぎお徳用』と『サトウのごはん 魚沼産こしひかり 200g』を差し出した。
「……ありがとう」
兄さんは少しだけ潤んだ瞳で礼を言い、再びフォークを手に取る。
そして二杯目も、あっという間に平らげていく。
「こんなに美味しいものが、この世にあるなんて……」
呆然としたように呟く兄さんは、口元にわずかな笑みを残しながら、涙をこぼしていた。
「……昔、父さんが狩った鹿の肉を、母さんがシチューにしてくれて……みんなで食べたとき以来だ。こんなに、夢中で何かを食べたのは」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、兄さんは最後の一口をゆっくりと噛みしめる。
「美味しい……美味しいよ。父さん……母さん……」
その声は、まるで遠い日を呼び戻すかのように。
優しく……どこか、切なげだった。