せめて君のそばに
妻は泣かない。その整ったくちびるは、ほんのり微笑さえ浮かべそう。僕の葬式で、妻が一番落ちついている――。
不慮の事故で、交通事故で死んだ僕は魂だけになり、自分の葬式を天井あたりから眺めている。おかしなもんだ、場の中で一番泣いているのは、小学校の時にささいなことで大ゲンカして、その後はろくに口もきかなかった友人だ。
おかしくないのは、妻の表情。当然だ、妻は僕を愛していなかった。僕は絵に描いたような『良いところのおぼっちゃん』で、妻もこてこてのお嬢様。もちろん見合い結婚だ。
……僕は本当は、勉強の合間にこっそり読みふけっていた小説みたいな、熱烈な恋愛がしてみたかった。『死んでもかまわない』とお互いに深く想い合い、やがて結ばれるような。なんなら『来世で結ばれよう』と、心中でもしてしまうような。
二十五年の短い生涯、そういう恋とは縁がなかった。妻は型どおり良い妻で、お行儀よく僕を『愛し』、それは上品に僕に抱かれた。親に言われて『良い血筋』を遺すため、家柄を保つため僕と結婚――妻はそういう女だった。
きっとしばらくしたら、また親に言われて違う『家柄の良い男』と結婚し、子どもをもうけて『良い母親』になるのだろう……そう思いながら淡々と葬式を眺めていた。
妻は葬式の終わりの方で、品良く目もとをハンカチで押さえた。号泣はお嬢様に似つかわしくない――そんな家庭で育てられた娘だった。ハンカチも型どおり押しあてただけ、少しも濡れていないのだろう。
式が終わりひとりの家に帰る妻に、魂で何となくついていった。
おつかれ、百合花。愛してもいない夫の葬式でくたびれたろう、今夜は僕のいない分、広くなったキングベッドでゆっくりお寝み……。
特に皮肉というわけでもなくそう思い……次の瞬間、僕はありもしない目を見開いた。妻が、泣き出したのである。
「あなた」
震えるくちびるから、僕を呼ぶ言葉があふれ出す。しゃくり上げて小さな肩を震わせて、妻はひとりで床にかがみ込み泣き続ける。
「……あなた……」
僕は、間違えていた。妻の愛を知らなかった。恋愛なんてきつく抱き合って火を噴くような、そんな激しいものばかりじゃない。妻は優しく穏やかに、この僕を愛してくれていたんだ。僕が思っている以上に、彼女は僕のものだったんだ。
今さら、あまりにも今さらに、愛しさが魂いっぱいにあふれ出す。触れるだけのおはようのキスも、「いってらっしゃい」と手をふる笑顔も、「おかえりなさい」の小さなハグも、全部僕への愛情があって、彼女なりのささやかな表現方法で……今、この時になって、それを知った僕はいったい……いったいこれから、どうすれば……!
――そうだ。せめてこの近くに、もうすぐ生まれる命はないか? 母体の中で、もうじき生まれる命があれば、僕はその魂を追い出し、その器に乗り移って……願わくはこの国、この町内に、そんな命があるならば……せめて前世の妻の笑顔を、生まれ変わって見られれば……!!
――ああ、あった。
盲点だった、こんな近くに……見つけた、見つけたぞ……!!
僕は喜びの声を上げ、雪のように魂を散らし、その器へと乗り移った。
* * *
翌日、夫を亡くしたばかりの妻は出かけた。心の内には予感と、喜びと、悲しみがぐるぐると混じり合っている。
――ああ。あのひとが生きていてくれたら。そしたらあのひと、どんなに……どんなに……!
「おめでとうございます。三か月ですよ」
診察を終えた産婦人科医は笑顔で言った。思わずなでるおなかの中で、新しい命が笑ったような気が、なぜかした。
(完)