第3話『ノートレンタル』
梅雨に入って間もないある朝、汗だくになった雅也はタオルで顔を拭きながら、息を切らして教室に入ってきた。
「おはよう……」
「お前、どうしたんだよ?」
唖然とした賢哉から尋ねられた雅也は、鞄から麦茶の入った水筒を取り出すと、ぐびぐびと飲み始め、
「この雨でしょ。合羽着て自転車乗ってたら、まあ汗がすごくて。しかも、今日寝坊しちゃってさ、何とか遅刻しないように慌てて自転車こいだんだよ。挙句の果てには、反対側から走ってきて車にバシャッて水かけられるし、まあとんだ災難だったわ……」
雅也は汗まみれた経緯を賢哉に伝えた。
「そりゃ、朝から大変だったな」
「ほんとだよ」
すると、日焼けをしたような色黒の生徒の姿が、突然雅也の前に現れた。
「なあ、木内」
「どうした、松井」
クラスメイトの一人で、陸上部で活動する松井武だった。
「英語のノート貸してくれないか」
「ああ、良いよ。どうせ今日も、松井がそう言ってくるんじゃないかと思ってた」
雅也は鞄から英語のノートを取り出し、中身を見せた。見開きの左ページには英文が、右ページには英和辞典を使って雅也が必死でそれっぽい文章に直した日本語訳が書かれており、右下には単元で新しく登場する英単語と意味がメモされていた。
「はい、確かに渡したからね」
「サンキュー」
雅也がノートを渡すと、武は自席へ戻っていった。
「なあ。松井のやつ、いつもお前に英語のノートたかってるな」
「たかってるってそんな言い方」
「けど、いつも英語のノート借りてるじゃないか。予習忘れてどうしてもっていうなら分かるけど、いつもお前をあてにして、ただ書き写してるだけじゃないか」
賢哉は不服そうな顔で、自席で雅也のノートを書き写している武の姿を見ながら言った。
「あれじゃあまるで、松井のためにお前が先に予習して、それを見せてるだけに見えるけどな」
賢哉の冷ややかな顔を見ながらも、雅也は苦笑して、
「俺は逆に急かしてくれてる人がいて助かってるよ」
「は?」
「自分だけだと、どうしてもギリギリまでやらなくなって結局夜遅くまで宿題溜めることになるからね。だから、ああやって待ってくれてる人がいたほうが進むんだよ。それに、結局俺も予習することになるんだもん、一石二鳥でしょ」
「そうかなぁ」
学年主任である佐藤が教科担任を務める英語の授業では、新しい単元が始まるごとに、英語の予習ノートをチェックすることが恒例だった。教科書の本文をノートに書き写し、日本語の言い回しに多少の違和感があっても日本語訳まで書いてくるまでは一連の予習であり、成績にも影響するため、クラスメイトたちは時間をかけながらも予習ノートを仕上げてくるのだ。
特に雅也の場合は、頼みやすいということもあったのか、武に限らず英語のノートをクラスメイトたちからレンタルされることが多々あり、今ではすっかり佐藤のチェックが始まるギリギリまで、雅也の手元にノートが戻ってこないほど、回覧板のようにクラス中に巡り巡るほどだった。
しかし、クラスの全員が予習をしてくるというわけではなかった。
「おい志田、お前また予習やってないのか」
ある英語の授業の時、佐藤が予習チェックのために生徒一人ひとりの席を回っていると、悠喜の席で足を止めた。
悠喜は相変わらず、英語の予習をやってきていなかった。佐藤に苦言を呈するように言われたものの、本人は気にも留めない様子で、
「はい」
と、軽く聞き流していた。そんな何も動じていない悠喜を、雅也は時折羨ましいとも思っていた。
小学校の時から、宿題や課題はやって当然というのが雅也の考えであったが、悠喜のように堂々と予習をやっていない姿勢が、雅也には清々しくも見えた。
6月も中旬に入り、1学期の期末考査を直前に控えたある日のこと。雅也は駿から現代文のノートを貸してほしいと頼まれた。
「はい、どうぞ」
雅也は鞄から『現代文』と表紙に書かれたノートを駿に渡した。その直後、良樹と一磨から情報処理と社会のノートを貸してほしいと頼まれ、ロッカーから『情報処理』『社会』と表紙に書かれたノートを、それぞれ良樹と一磨に渡した。
すると今度は、女子生徒の一人である濱口寧々が、湿気でうねった黒の長髪を櫛で解きながら雅也のもとへやってくると、
「ねえ木内。理科のノート借りて良い?」
と尋ねてきた。7人いる女子生徒で、今では寧々と一番話す機会が増えてきている雅也は、鞄から『理科』と表紙に書かれたノートを寧々に渡した。
「ありがと」
寧々の色白い手が、ノートをしっかりと掴んでいた。
そして帰宅しようと廊下に出ると、武に呼び止められた。
「なあ木内」
聴き慣れた声が聞こえた雅也は、振り向きざまに、
「英語のノート貸してほしいんだろ」
と、ドヤ顔で言った。
「何で分かるんだよ」
「お前が言ってくるのは、大体英語のノートに決まってるんだから」
雅也は再び鞄を開けると、『英語』と表紙に書かれたノートを武に渡した。
「サンキュー」
武はそのまま教室に戻っていき、雅也は昇降口へと向かった。
その日の晩、夕飯を食べ終えた雅也は、自宅の部屋でテスト勉強を始めようとしていた。机回りは整理整頓がされており、壁のコルクボードには小学校時代や中学校時代の様々な写真が貼られている。その写真の中には、良樹や一磨と共に写っている写真が何枚もあった。
「あれ……? 現代文のノート、誰に貸したっけ?」
雅也は鞄の中をかき分けて、現代文のノートがないことに気が付いた。スマホを取り出すと、雅也はすぐに賢哉に電話をかけた。
「どうした?」
「ねえ、現代文のノートってかどけんに貸したっけ?」
「え、俺は何も借りてないぞ」
「そっかぁ」
「何だ、珍しくそっちから電話かけてくるから、何事かと思ったじゃねえか」
「だって、期末テストが近いんだもん。ちょうど勉強しようと思ってさ、鞄の中見たらノートがなかったから」
「誰に貸したか覚えてないのか?」
賢哉にそう言われて、雅也は今日の夕方の教室での出来事を思い出した。何人かのクラスメイトにノートを渡したことは覚えているが、誰に何のノートを貸したのかまでは覚えていなかった。
「ちょうど今日、帰りのホームルームが終わってから、何人かにノート貸したんだよね」
「じゃあ、貸したやつに連絡すれば良いじゃねえか」
「けどいやらしいじゃん、一人ずつ現代文のノート持ってるかって聞くの」
「じゃあどうするんだよ?」
「とりあえず今日は、他の勉強でもするよ。かどけんも、競艇の実況なんか見てないで、勉強したらどうなの?」
「何で分かるんだよ」
「奥から実況の声丸聞こえ」
賢哉の電話越しに、アナウンサーの勢いある競艇実況の声が雅也には聞こえた。
「マジか……」
「じゃあね、ありがとう。また明日」
雅也は電話を切ると、鞄から数学の教科書を取り出し、見るだけでめまいがしそうな難しい方程式や計算式を眺め続けていた。
翌朝雅也がいつものように学校へ登校してくると、駿から借りていたという現代文のノートを受け取った。雅也は思わず唖然顔になり、口をぽっかりと開けた。
「どうしたの、うっちー?」
「俺、きのしゅんに現代文のノート貸してたんだ」
「何かあったの?」
雅也は昨晩の出来事を駿に伝えた。
「ああ。確かに昨日いろんな子に渡してたもんね」
「それでさ、かどけんに貸したかもしれないと思って電話したら、そもそもノート貸してなかったんだよ。あいつなんて、呑気に競艇の実況なんて見ちゃってさ。いい加減勉強しろって話だよね」
「まあ、かどけんはそういう男だから」
「だね」
納得するように雅也が頷くと、鞄の中から雅也のスマホの通知音が聞こえた。
「危なッ……電源切ってなかったわ」
鞄から雅也がスマホを取り出すと、賢哉からメッセージが来ていた。
『今日、学校休む。安代に伝えといて』
雅也は怪訝な顔になった。
「何かあった?」
「かどけんから。今日休むって」
「ああ、多分バイトじゃないかな」
「えッ……バイト?」
何気なく言った駿の言葉に、雅也は呆然としていた。このバイトをめぐって、クラスでひと悶着起こることなど、雅也はまだ知る由もなかった。