第14話『バレンタイン』
マラソン大会が終わって間もなく、雅也の体調は完全に復活し、元の暮らしを取り戻していた。
2月14日のバレンタインデーでは、男子も女子も何かしらのお菓子を用意することがもはや主流となっており、雅也も例外ではなかった。
年明けからコンピュータ部の副部長に就任したこともあり、バレンタインデー前日、雅也は深夜にかかってまでお菓子作りの励んでいた。2組や他のクラスで親交のある仲の良い友達にはチーズケーキ、2組全体にはかぼちゃのパウンドケーキ、部活のメンバーには炊飯器で作るチョコレートケーキ、そして教師陣にはバタークッキーを用意していた。
当日の朝、雅也はお菓子の入ったいくつもの紙袋を全て詰め込んだトートバッグを自転車の前カゴに入れ、普段教科書等を入れている鞄は背中に背負って通学した。
早速廊下で、顔馴染みの同級生に会うと、タッパーに詰めた切り分けたチーズケーキを渡し、反対に雅也も手作りのチョコや、市販のお菓子を小さな袋に入れた詰め合わせを受け取った。
「失礼します」
その足で職員室に向かった雅也は、バタークッキーの入った袋を、学年主任である佐藤に渡した。
「篤先生、今日はバレンタインということで、お菓子作ってきました。2年生の学年団の先生で、ぜひ召し上がってください」
「おお、今年も作ったのか。去年は確かパウンドケーキ作ってくれたな」
昨年のバレンタインデーでも、雅也はクラスや学年の教師陣のために手作りのお菓子を作っており、佐藤はそれを覚えていてくれた。
「あら、じゃあお昼にでもいただこうかしら」
佐藤の向かい側の席で仕事をしていた尾形も、昨年を懐かしむように言った。ちょうどそこへ、西沢が出勤してきた。
「西沢先生も、どうぞ。お菓子作ったので」
西沢は物珍しそうに、クッキーの袋を見つめた。
「これ木内が作ったのか?」
「去年も先生方にご用意したんです。今年はクラス以外にも、部活やら他のクラスの友達の分まで作ったので、結構時間かかったんですよ」
「友達同士なら分かりますけど、私たち教師陣にまで用意してくれるなんて、木内君ならではの気配りですよね」
昨年の担任でもある尾形が、顔を覗かせて微笑んだ。現在の担任である西沢に不満があるわけではなかったが、あと1ヶ月と少しで2年生が終わり新年度を迎えた際には、尾形に戻ってきてほしいと思っていた。それは雅也だけでなく、クラスで寧々を始めとした女子生徒や、雅也と親交のある生徒たちの何人かも同じ考えであった。
その日の昼食時、雅也が一磨や良樹、康行と弁当を食べていると、
「ほい、ママ。バレンタイン。みんなもどうぞ」
寧々がチョコレートを使ったお菓子を詰め合わせた袋を配りにやってきた。
「ありがとう」
受け取った雅也たちは、それぞれにお菓子をつまみ始めた。
「はい、私からもバレンタイン」
すると由紀恵が、手作りだという小さいチョコボールの入った袋を持ってきた。
「サンキュー」
「食べてみて」
「分かった」
雅也は袋からチョコボールを1つ取り出すと、口の中に入れた。
「美味しい?」
由紀恵が尋ねた。
「うん、美味しいよ。ん……?」
チョコボールを歯でかんでしばらくすると、口の中がヒリヒリし、鼻の奥がつんとした。
「辛えッ……!」
しわくちゃになるような顔で、雅也は咳き込み始めた。
「何入れたの?」
雅也の様子を見た一磨が不思議そうに由紀恵に尋ねた。
「わさび」
由紀恵は一言答えた。
「お前、そんなもの入れんなよ……。こういうのはさ、ロシアンルーレットで何個かに1個入ってるから楽しいんだろ。1個につき1個じゃ、面白くも何ともないじゃんか」
雅也は抗議するように、由紀恵に反論した。由紀恵は冷めたような顔で腕を組むと、
「んー、そのリアクションは30点かな」
「おい、こっちは苦しい思いしたんだぞ」
わさびの辛さで熱くなったのか、雅也の顔は赤く染まっていた。そんな顔色の変化に気づいた由紀恵は、悪びれもなく、
「ちょっとわさび多すぎたかな」
「どれだけ入れたんだよ。ああ、もうわさびがトラウマになりそう」
まだ咳き込んでいた雅也は、ようやく水筒のお茶で口をすすぎ、チョコボールを流し込んだ。
「そんなに辛かったの?」
「ちょっと、オーバーリアクションしてるんじゃないの?」
雅也の様子を見ていた寧々と優菜が尋ねたが、雅也はムッとして、
「このお菓子はね、リアクションを盛る余裕がないぐらい、マジで辛い」
「へえ」
細目になった寧々は、疑いの眼差しを雅也に向けた。
「そう思うなら、濱口も食べてみな……」
「いや、私はやめとく」
雅也が全て言い切る前に、寧々は断固拒否の姿勢を見せた。
「じゃあ、優菜食べてみなよ」
「ええ、私が?」
露骨に嫌な顔を優菜だったが、雅也はそのまま、チョコボールを渡すように由紀恵に指示を出した。
「大丈夫かな?」
ゲテモノ料理を食べるように、優菜は警戒して、まずチョコボールの匂いを嗅いだ。
「全然、わさびって感じはしない。チョコの甘い良い香りがする」
「実況は良いから、早く食べなさいよ。時間稼ぎしなさんな」
雅也が急かすように言うと、優菜は恐る恐る、チョコボールを口へ運んだ。
眉間に皺を寄せてチョコボールを噛む優菜を、雅也、寧々、由紀恵は見つめていた。
「あッ……辛い……!」
「だから言ったでしょ、辛いって」
悲鳴と咳き込みをほぼ同時にした優菜はそのまま悶えるように地団駄を踏んでおり、雅也はそれ見たことかと腹を抱えるように優菜のリアクションを見ていた。
「由紀恵、これはダメだ……」
お茶を飲んでようやく冷静になった優菜は、鬼の形相で由紀恵を振り向いた。
「じゃあ、来年はもっとバージョンアップしようかな」
由紀恵が面白半分で言うと、
「やんなくて良い!」
雅也と優菜は、同時に勢いよく由紀恵に振り向いて声を荒げた。
バレンタインデーからしばらく経ったある日、雅也の元に久しぶりに賢哉から電話がかかってきた。学校を辞めてから、以前ほど賢哉との連絡頻度が減っていただけに、賢哉からの着信に雅也は勢いよく飛びついた。
賢哉の用件は、新年度から通信制の高校に通い始めることが決まったという報告であった。環境は変わったとはいえ、また賢哉が新しいスタートを切り始めようとしていることが雅也には嬉しかった。賢哉から頼まれて、翌日には悠喜たちに電話の件を雅也は報告した。
「そうか。通信に通い始めるか」
悠喜は嬉しそうに呟いた。
「今でも、かどけんは後悔してるみたいだよ。あのタイミングで学校辞めたこと。みんなと一緒に卒業したかったって」
雅也はふと、秋に起きた賢哉の退学の件を思い出した。もう一度停学謹慎処分になったら学校を辞めると決めていた賢哉の謎の意地を、何とかして止めることはできなかったのかと、雅也にとっても忘れられない事件であった。過ぎたことは仕方ないとはいえ、一緒に高校を卒業したいという賢哉の想いは当然雅也も分かっており、雅也自身も賢哉と共に卒業したいと思っていた。
「卒業できないのは、もう今更どうしようもねえよ。けどさ、俺たちが同じクラスでつるんでた事実に変わりはないし、何なら学校外で集まろうと思えば集まれるんだから」
「志田、今日随分まともで冷静なこと言うんだね」
「俺だって、いつもふざけてるわけじゃねえよ。真面目に考える時は真面目に考えるさ」
「まあ、俺たちもうすぐ3年生だもんね」
賢哉の新たな門出が話題になって間もなく、雅也たちにとっても2年生という高校生活で一番充実できる1年が終わり、ついに3年生という高校生活最後の1年間が始まろうとしていた。