2-50(閑話)『それからふたりの恋情は(上)』
神紀5000年、夏至前64日。
前日の65日に、福田湊が勇気を振り絞って磐田大智に告白をし、大智がそれを受け入れたため、交際が始まった。
その件は、とどのつまりは磐田大智の縁談の話より生じたものであったため、大智も湊も日渡国神治首脳部には公にしておくべきだという考えを持っていた。
「というわけで、少し恥ずかしながらも、僕と湊はお付き合いさせていただくことになりました」
磐田神社に集まった神治首脳部に、大智はそう告げた。現在その件を知っているのは、湊の背中を押した萌加と竜洋のみだった。
「ほほーん、湊ちゃんとはお目が高いねぇ大智くん。容姿的には不釣り合いだぞ? もっとかっこよくならねばなぁ」
花菜が大智を揶揄ってそう言った。
「お前もそろそろいい相手見つけろよ」
大智は花菜にそう言うが、
「昨日まで『縁談なんかクソ喰らえだ!』とか言ってた奴に言われる筋合いはありませんよーだ!」
と言い返して、少しばかり笑いを生んだ。
日渡の明るい日常が、そこにあった。
「国に入ったばかりで二人の関係性とかあんまり知らないけど、いつ頃から好きだったとか、付き合うまでに何か大きなきっかけとかあったのか?」
壱がそう訊くと、「いや、僕からしたら急なことで、正直今もまだ夢なんじゃないかって思ってるくらいだよ」と大智が言った。
「……惚気」
大智の言葉に司がポツリと言って、ひとつ小さな欠伸をした。
「まぁ、今のは惚気に聞こえるな」
耐久もそう言うが、その顔は笑みで溢れていた。
「い、いやぁ、別に惚気てるわけじゃないんですよ?」
大智がそう言うが寧ろ逆効果で、ニヤついた花菜から「惚気てるでしょ、口角緩んでるし」と煽られてしまう。そしてこういう場面では基本無反応な竜洋も、珍しく花菜の言葉に「うむ」と頷いていた。
「……そんなに惚気てるように見える?」
大智が訊くと、明と萌加と湊を除いた面々からそれを肯定する反応が返ってきた。
ちなみに明は平常運転で、こういう雑談に混ざろうとはせず、とはいえ話は聞きながら、全体を見渡している。
萌加は嬉しそうに笑みを浮かべているものの、口を開いて会話に入ろうとはしなかった。
そして大智と共に当事者である湊はというと、
「うー」
恥ずかしさのあまりに赤面して俯いたままなのだった。
大智の受け答えにより、自分が大智に対して恋情を抱き、大智に告白し、今の状況が生まれていることが公になってしまったからだ。
それが予想以上に恥ずかしかったようだ。
「で、湊ちゃん。こいつのどこが好きなの?」
花菜はニヤついた表情で赤面する湊に問いかけた。
「えっと、その……。あ、あの、答えなきゃダメですか……?」
湊は上目遣いをしながら細い声で花菜に訊いた。
「答えてくれたら、嬉しいなぁ〜」
花菜は悪戯っ子のような笑顔を貼り付けて湊に近寄った。
湊は花菜から圧力を感じ、少し怖くなって、小さく丸まってしまった。
「おい花菜、困らせるんじゃないよ」
そこで大智が花菜と湊の間に割って入った。当然今の大智の行動にも色々な方面からニタニタした笑みが飛んでくるが、この時竜洋は大智の行動を惚気などとは思わずに真面目な表情をして花菜を見ると、
「無理に聞く話でもないだろう、湊様が自分の感情を赤裸々に表すのが得意ではないことを知っているだろう?」
と大智の援護射撃を行なった。
流石は渡海臣家の用心棒、どんな立場になろうとも、彼にとって湊は守るべき存在から何も変わらないのだ。
「はーい」
竜洋に叱られた花菜はそう言うと、湊に「ごめんね」と声をかけた。湊はそれに頷いて見せて許す意思を示したが、「もうちょっと気持ちが落ち着いたらお話するから、それまで待っててほしいかも……」と消えそうな声で返すのだった。
「ま、そういうわけで、磐田家の婚約者問題はひとまず片付いたってことで」
ここで初めて萌加が口を開いてその場を仕切り始める。
「とはいえ萌加、」
萌加が口を開くと、明が見計らったかのように疑問をぶつけた。
「もし今後、湊が磐田家に入ることになれば、渡海自治領の小巫女の座に誰を当てがうつもりなの?」
そう。将来、湊と大智が結婚をすることになった場合、湊は磐田家に移ることになり、今の分散神治制では神治に参入することができなくなってしまうのだった。
とはいえ萌加も無策ではない。
「武豊の上神種家でまだ神治に関与してない家もあるし、まだ美有が目覚める可能性だってある。湊が神治に参加できなくなったとしても、現行の制度のままで十分やりようはあると思っているよ」
そう言ってみせると、明はひとつ、
「であるなら、美有の復活が見込まれてから動きたいものね」
と呟いた。
明としては、馴染みの薄い武豊派の上神種を渡海の神治に関与させたくないのであった。
それはまた耐久も同じで、
「渡海は渡海を知る者による統治を図るべきだ。最終手段としては鎌田巡を今のまま職に就かせるのも視野に入れるべきだろう」
と言った。
「とはいえ巡は半ば私の術によって生かされている存在だから、世間の目は厳しいと思うわよ?」
明がそう言うと、「それは理解している。だから最終手段だと言ったんだ」と耐久が返した。
口論になりそうだったため萌加が「まぁまぁ」と諌め、
「それより今は、磐田家の基盤安定の第一歩が踏み出せたことと、ふたりのめでたいお話を祝おうよ」
と笑ってみせた。
「そうね」
「そうだな」
明と耐久もそう言って、改めて大智と湊は神治首脳部から祝福を受けるのだった。
大智は照れくさそうにしながらも素直に「ありがとう」と言って、そして湊は耳まで真っ赤に染め上げながらも、口角の緩みを止められないほど、幸せな感情で満たされたのだった。
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「ねぇ竜洋、少し良いかしら?」
明様からそう呼ばれたのは今から2時間前のことで、俺は今、巡様と共に御厨堂にいた。
明様に御厨堂にある物品の確認作業を頼まれたためであるが、俺にはまだ小臣としての作業や買い出し、炊事などの雑務を含め諸々やるべきことが残っていた。
そんな状態、すなわち暇ではない状態に、特定の作業を命令されることなど、この1年半明様に仕えてきて一度もなかった事例であった。
「ま、雑務はきっと湊がやってくれるよ。君はとにかく、明からのお遣いをやり遂げて小臣の仕事を片付けなさいよ」
巡様はそう言われるが、この確認作業を手伝ってくださるわけでもなく、ただそこにいらっしゃるだけである。
……。
言いたいことはあるが、言って状況が好転する未来が見えなかったため、俺は淡々と確認作業を進めた。
「……瓶が8つ……手鏡が20枚……」
もう何年使われていないのやらというような代物ばかりが置いてある。今思えば、兎山自治領の拠点として使われていた期間が本当に短かったためか、3年前まで誰かが暮らしていたとは到底思えないような物の置かれ方をしていた。
「にしても、明もこういう雑務こそ御霊にやらせればいいのにね。なんで私たちを動かしたんだろ」
巡様は床に寝転びながら本に目を落とし、そう疑問を仰った。
「例年はどうされていたんですか? 少なくとも去年、このような作業をした記憶はありませんが」
俺が訊くと、
「いつもは私たち兎山四禮と、兎山派の上神種の仕事だよ。そもそも御厨堂の管理は専ら御厨家と鎌田家がやっていたわけだしね。とはいえ、殺されちゃったからどうしようって話なんだけどさ」
とのことだった。
ふむ、なるほど。管理者が居なくなってしまったわけか。
明様は既に自身の拠点を福田神社に移されて、御厨堂には日常生活に必要な道具は一切残っていない。つまりは、管理できなくなったら放棄することも視野に入れておられるはずだ。
とはいえ、旧兎山国の神社であったわけで、明様にとっては長年の住まい、本拠地でもあるわけだ。それをそう簡単に放棄するとも思えない。
まぁ、だからこうして俺が確認作業を任されているわけなのだろうが、正直ここまで来るのも手間であるし、この作業もなかなか時間を取られてしんどいものがある。
これは渡海自治領の業務から切り離したいものだと、心の底から思った。
……早く終わらせて、本来の業務に戻らねば。
仕事は溜め込みたくないからな。
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「あれ。明様、竜洋はどちらに?」
渡海地区の今年の水田の現状を取りまとめ終わり、わたしが本殿に戻ると、そこにいつもいるはずの竜洋の姿が見当たりませんでした。ですので明様に尋ねたところ、
「少しお遣いで巡と一緒に御厨堂に行ってもらったわ」
とお返事がありました。
「そうですか」
少し困りました。どうしましょう、この後、竜洋が買い出しをしてくれるとの話でしたが、いないのなら難しいでしょう。彼にも仕事がありますし、戻ってきたとしてもその時間を作れるかどうか……
こうなったら、わたしがこの後の仕事を急いで終わらせて、買い出しに行く必要がありそうです。
「ところで湊、」
そう思っていたら、明様から声をかけられました。
「はい」
わたしが返事をしますと、明様はとある書類を一式お持ちになり、
「これ、今から磐田神社に届けてきてくれないかしら?」
と仰います。
「え、今からですか?」
「えぇ」
そんな、わたしまだお仕事終わってないのに……
「帰りがてら買い物もしてきてくれると助かるわ。竜洋からメモは預かってるから、頼むわね」
「あ、あの、わたしまだお仕事が……」
仕事が遅い、とか怒られたらどうしましょう……。必死に頑張っているのに。
「水田の状況調査は済んでいるのでしょう? あとの仕事は私も手伝いながら進めるから、とりあえず届けてちょうだい」
わたしの心配とは裏腹に、明様は怒られることなく和かに仰りました。
「わ、分かりました……」
わたしは多少の戸惑いもありましたが、明様から頼まれた書類一式を持って、磐田神社へと向かいました。
ですが、よく考えればこの書類を渡しに行くということは大智さんに会えるということなのです!
今日は議会もありませんし、顔を合わせる機会はないと思っておりましたが、まさかこんなふうにして生まれるとは思いませんでした。
……浮かれていますね、わたし。
自分が思っている以上に何十倍も幸せだったみたいです。なんか恥ずかしいな。
昼下がりの渡海街道を通って2時間ほどで磐田神社に辿り着きました。
大智さんに会えると思えば、この2時間がとても幸せなものに思えていましたが、いざこうして磐田神社の境内へと続く石造りの大階段を前にしてみると、緊張の方が高まっていました。
いいえ、緊張なのかわかりません。でもとにかく胸が高鳴って、そわそわしくなるのです。
会いたいという想いも確かに強くありますが、それと同時に突然の訪問などお邪魔にならないのかとか、わたしだけが会うことを楽しみにしているんじゃないかとか、そういう考えに苛まれて、鳥居をくぐるのが躊躇われました。
とはいえ、明様のお遣いが今回のお仕事です。何も悪いことをしているわけではありません。
ここに来たのは、明様のご命令なんですから。
わたしは意を決して、大階段に足を踏み入れました。
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「竜洋は、湊と大智が付き合いだしたこと、どう思っているの?」
湊がお遣いに出て1時間ほど経ったとき、竜洋が戻ってきたから、私は彼にそう訊いた。
「喜ばしいことだと思います」
訊かれた竜洋は、なぜそんなことを訊くんだというくらい当然な感じで答えた。
用心棒とはいえ、彼には湊に対する執着とかないのだろうか。多少なりとも大智に嫉妬したり、不安に思ったりしないのだろうか。
もしそれがないと言うのなら、彼は……
「正直、俺には恋が何かなんて全く分からないんですが、湊様がそれで幸せなら、俺はそれでいいんです」
……。
そう、分からないのね。
分かっていないだけなのか、それとも分かろうとしていないのか。
でも、それならそれでいいわ。むしろそっちの方がいい。都合がいいのよ。
「きっと幸せだと思うわよ、あの子は」
私がそう言うと「同意します」と彼は言う。
私はその言葉を聞き流して、竜洋に「いきなり呼び止めて悪かったわね」と言い、仕事に戻るように指示した。
……。
恋愛感情なんて、抱かない方が幸せなのよ。
大志といちかのアレを再現させてはならないのよ。
だから私は、素直に喜べない。
それを竜洋に伝えたかったけど、誰よりも湊の幸せを想っている彼に言い出せなかった。
もし少しでも嫉妬していたら……なんて願ってしまった私は、やっぱり性格が悪いみたいだ。
こんな回りくどいやり方をしてまで湊をこの場から追い出して、自分の不満を言いたかったなんて。
……ほんと、嫌な性格。もう治らないけど。
もう今更、治そうとも思わないけど。
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「明様より書類を預かって参りました」
福田神社から遣いとして突然湊がやってきたものだから、僕は驚いてしまった。
いや、驚きよりも嬉しさが優ってしまっていることに驚いているのかもしれない。
湊は持ってきた書類一式を萌加様に手渡すと、「それではお役目は終わりましたので……」と言って去ろうとするが、それでも僕に何か言いたげにしていた。
しかし彼女の真面目な性格ゆえか、奥手な性格ゆえか、どちらか分からないが、公務中の僕に声を掛けづらそうにしていた。
そんな視線に花菜も萌加様も当然気付いていて、
「大智、いいよ、少し外しても」
萌加様がそう仰るので、僕は思わず「ほんとですか?」と訊いてしまった。まだ仕事は少し残っているんだけど。
しかしそれでも萌加様は「うん」と頷かれて、湊に微笑んだ。
湊の顔がパァっと明るくなった。そして頭を下げると、僕の袖を握って軽く引いた。
クリクリした目が、上目遣いで僕を見つめる。
僕はその手に引かれながら本殿を離れた。
湊はそのまま僕を神社から連れ出すと、見付の町まで出た。
「わたし、竜洋からお買い物を頼まれているんです」
そう僕に言った。含みのある言い方で、まるで一緒に行きたいと言いたいのに自分からは言い出せないといったような、彼女らしさを感じた。
「なるほど、じゃあ一緒に行くかい?」
きっと誘ってほしいのだろうと思ってそう声をかけると、嬉しそうに「はいっ!」と言って、僕の腕にしがみつき、頬を腕にすりすりとした。
犬のような懐っこい仕草に、今まで見えていた湊とは違う面を見ている気がして、僕の胸が高鳴った。
しかし買い物をすると言っても、何を買うのかによってどこまで行くかが変わる。例えば魚や肉のような生モノを買う場合、渡海の福田神社に近い場所で買うべきだ。日渡で買っていって、持ち帰る間に腐っては溜まったものじゃない。そのため、ここら辺で買えるのは生モノ以外となる。もし生モノを買っていかなければならないのなら、渡海まで行く必要が出てくる。
だから湊に何を買う必要があるのか訊くと、彼女も流石に生モノは一緒に買えないと思っていたようで、
「えっと……。生モノ以外ですと、紙の発注と着物用の原布ですかね」
と言う。原布というのは日渡と渡海で使われる特有の衣類を作るための布のことだ。僕らが着ている装束は兎山国時代に考案されたもので、一枚の布を器用に切って服の形に縫い合わせてできたものだが、その衣装を作るための原材料となる布を原布という。
靜様や明様はこの装束のことを『和服』と仰るときがあるが、それはどうやら造がかつての人類文明の民族衣装である“和服”に極めて近しいものだからだと言う。
まぁもちろん、そう言われるとあんまり良い衣装だとは言えないのかもしれない。とはいえ、それが兎山国時代に最も低コストで作れた衣類だったのだし、兎山伝書には明様が“和服”と似ていることを靜様より指摘され憤慨なさったということも記されていた。
それでも装束を変更なさらなかったのは、それだけ困窮した兎山国の情勢に合った服装であったことと、変えられないほど広く国民に根付いてしまったことが挙げられよう。
装束を変更する話を明様は一度持ち出されたそうだが、当時の臣と巫女が猛反対をしたそうだ。
以来、兎山から分裂した渡海と、兎山を継承した日渡では、一般的な服装として扱われることになったのだ。
「じゃあ、紙と原布の調達に行こうか」
そうして僕らは見付の町を歩いた。
見付には連邦を横断する靜街道が東西を横切っていて宿場が置いてある。その街道に沿って商店も並び、様々なものが調達できる。
湊は立ち並ぶ商店の軒や商品に目を向けて、目に留まったものに近寄ってはまじまじと見つめて、でも買う決断には至らずにまた歩き出して……を繰り返していた。
ガラス細工の可愛らしいアクセサリーとか、この辺りでは珍しい陶器の器とか、そういう物に興味があるようであった。
「こういうものって、欲しいなって思うのに、いざ買ってみると綺麗すぎて使えないんですよね……」
湊はそう言いながらガラス細工のネックレスを見つめた。
そのネックレスについたガラスは、まるで透き通ったような透明な勾玉のようで、とても美しく思えた。
きっと湊に似合うと、一目見て確信した。
綺麗すぎて使えないと彼女は言うが、それは勿体無い。だから僕は彼女に、
「きっと似合うのになぁ」
と言って見せたら、彼女は顔を赤らめて、
「えぇ!? い、いえ、わたしなんて、このガラスの美しさに霞んじゃって……」
と返してきた。何を言うか、霞むはずがないだろう。
そう思った僕は、そのネックレスを手に取って、黙って彼女の首に掛けた。
「えっ? あ、あの。何をなさいまして……?」
彼女は心底驚いている様子であったが、そんなことはお構いなしに僕は遠目から彼女を見てみた。
「うん、似合ってるよ」
心の底からそう思った。海のような青い服の胸元に、まるで波しぶきのように輝くガラスの勾玉は、彼女の整った美しい容姿を際立たせるアクセントとなっていた。
「ほんとですか……?」
湊は似合っていると言われて恥ずかしかったのか、やはり顔を真っ赤にさせながら僕に訊いてきた。
「嘘を言う必要性がないよ」
僕が答えると、「そこはもう一回“似合ってる”って言って欲しかったかも……」と何かぶつぶつ言っていたが、上手く聞き取れなかった。
しかし少し俯いてから、決心したのかネックレスを首から取ると、店主のところに差し出して、
「これください」
と声を掛けたのだった。
湊が引き換えで使った対価は、巾着に入れた渡海の白米二袋であった。
そんな高級なものをあげてしまうのは如何なものかと思ったが、買ってから嬉しそうにネックレスを握りしめる彼女を見て、この笑顔に相応な対価であったのだと理解した。
……なるほど、我ながら単純な思考をしているようだ。
いつだっただろうか。かつて僕は、いちかさんから、大志が買ってくれたという木靴を見せてもらったことがある。その嬉しそうな表情は、今でも鮮明に覚えている。
きっとそれは、今思えば、好きな人(大志)に買ってもらえたといういちかさんの幸せな感情を目にしたからだろう。その表情が、今の湊と重なった。そしてそれを目にして、僕はすこぶる嬉しくなった。
つまりは単純なのだ。喜んでもらえれば、それで幸せなのだ。
それが好きな人であれば尚のこと。きっと大志も、いちかさんに贈り物をした時、そう思っただろう。
結局、彼らの関係性がいつからのものなのかは知る由もないが、きっとおそらく、僕と喜々音のようなものだろう。
しかし決定的に違うことがある。僕は喜々音と二人で出かけたことはない。だから今、湊と“交際”をして、すごく新鮮な気分を味わっている。
同時に思う。
彼女に手を出したい欲望が、全く理性に勝てないと。
そういう点では、喜々音のように都合の良いだけの関係性は非常に楽だった。誠実さもいらなければ、お互いにぶつけたいことをぶつけ合っていた。
しかし、湊とはそうもいかないことを、今ひしひしと感じていた。
そういう点も含めて、やっぱり僕は自分が単純な男であると自覚した。
それでも僕らの交際は続く。この交際に婚約も含まれているわけなのだから、つまりは今後、どちらかが死ぬまでずっと続く。長い道のりだ。
その中で、いつかはきっと彼女と僕は交わるのだろうが、それがいつになるのかは計れない。
僕はその長さに耐えられる気がしていなかった。
しかし湊に手を出す気も起きなかった。
夕日に照らされて、湊の小さな身体から細く長い影が伸びている。当然その隣に、僕の不格好な長い影が伸びている。僕はその影を見る。
湊の影は、風で髪がさわさわと揺れていた。僕の影は、そんな湊の影とくっ付くことはなく、光に隔絶されたようにただただ隣に並んでいた。
まだ、触れることすら躊躇いを持つ距離感。
僕は湊に、湊は僕に、互いに触れることを躊躇っていた。
それでも抑えられない男ならではの欲望に、僕にはまだ、都合の良い関係が必要だと思えた。
……あまりに単純すぎると、僕自身も驚いているよ。
井谷戦争
第2章
208『甘い蜜はいかが?』
209『取り残された国』
210『方針転換』
211『福田湊奪還作戦』
212『日渡武豊連合神治』
213『臣を継ぐ者のために』
250『それからふたりの恋情は(上)』
これにて完結。
次回から第3章に入ります。




