2-30『常に正しきは力であるが、常に過ちもまた力である。』
幕引。
冬至前57日。
朝起きたら、臣館の居間にて鏡子さんが日渡伝書を読んでいた。
俣治様と鏡子さんが日渡にいらして3日が経ったが、この日は明様から「福田に遣わす必要はないわ」と言われていたため、俣治様と鏡子さんは一日中磐田神社にいらっしゃる。
僕らとしても、特段なにかお願い申し上げることもないので、そのままお寛ぎくださるべく、諸々のお世話を担っている似亜乃姉様に全てを任せて、本殿へと向かおうとした。
「あっ、あの」
しかし、そんな僕を鏡子さんが呼び止めた。
「はい」
僕が振り返ると、彼女は日渡伝書を片手にまじまじと僕を見ていた。
「ど、どうされました?」
僕の顔に何か付いていただろうか。
「いえ、えっと。去年の日渡伝書についてなんですが……」
「うぐっ……!?」
い、今、去年の日渡伝書と言いましたかね?
聞き間違いではないよな……?
よく見ると、彼女が手にしているのは日渡伝書の322巻であった。322巻は4998年の事柄をまとめたもので、執筆者は湊だ。
そして、その次の323巻が去年のものだが、これが問題作なのだ。
「見当たらないんですけど、どちらにありましょうか」
「ええっとですね……」
僕は冷や汗をかきながら視線を彷徨わせた。やましいことがあるのか、磐田大智よ。
……あぁ、あるよ!
やましいことしかないよっ!
「お? どうしたの、こんな朝から」
そこに花菜がやってきた。
あぁ、まずい。これはまずい。話が複雑化する未来しか見えない。
「あ、花菜さん。実は私、いま日渡伝書をお借りしておりまして」
「調べ物ですか?」
「いえ、ただの興味です。こういうの読むのが好きなので」
世間話から始まる花菜と鏡子さんの会話。
しかし、それは長くは続かない。鏡子さんが本題を切り出した。
「それで、ここ10年あたりのものでも読もうかと思って、310巻あたりから読んでいるんですけど、どうも去年書かれました323巻が見当たらないんです」
「あー、あー! ど、どこだろうな、どこかに紛れちゃっているのかもー! あははは、あは、あははははは。す、少し探しましょうか。ね、一緒に」
花菜が答える前に、僕が鏡子さんに話しかけた。
鏡子さんは「えっ?」と戸惑っていたが、そんな僕の頭を花菜がひとつ叩いた。
「いっ……! 何すんだよこの暴力巫女!」
僕はそう花菜に言うも、花菜は呆れたような目をしながら僕に言った。
「なに白々しくしてんのよ。さっさと持って来なさい、この元凶め!」
「そんなぁ! あんな拙い物を他者様にお出しするわけにいかないじゃないか!」
そう僕が言うと、花菜はうんうんと頷いて、
「薄い本だもんね、分かるよ」
「おいその言い方やめろ!」
不名誉な言われようだ!
「う、薄い本って……ま、まさかそんな内容なんですか……?」
鏡子さんが顔を赤らめてそう聞いてくるので、
「えっ!? いや、誤解ですっ!」
と必死に訂正する。
そもそも、なぜ323巻がそんな不名誉な言われ方をしているかというと、それはただ単に頁数が極めて少ないことに起因しており、それ以上でもそれ以下でも、他意も何も含まれていない。
その“薄い”という事実を花菜が面白がって勝手に“薄い本”などと呼んでいるのだ。
……まぁ、意味を分かっていない湊も一緒になって“薄い本”と呼んでいるし、323巻が薄くなってしまった僕の不手際を含め“薄い本事件”などと呼ばれているけれども。
とはいえ、何も関わりのない者がいる前でその呼び方をしてしまっては、誤解しか生まれない。
ここはしっかり訂正するしかないし、もうこうなってしまった以上、潔白を証明するべく323巻を持ってこなければならないだろう。
「鏡子さん、少しお待ちください。持ってきますので」
「え、それって……薄い本を?」
「そうです!」
「えっ!?」
事実そう呼ばれるものだけれども、返答としては間違っていた。相手は鏡子さんだった。
「あっ、いや、そうじゃなくて! 323巻を持ってきます!」
「あっ、そ、そうですか。分かりました……」
僕が必死に訂正すると、鏡子さんはまだ若干顔は赤かったものの、落ち着かれた様子でそう返してきた。
僕は書庫ではなく、自室へ向けて駆け出して、その本棚にある例の薄い本を手に持って戻った。
僕が手にした日渡伝書を見て、鏡子さんはポカンと口を開けた。
「……たしかに、薄いですね」
その薄さは、おおよそ他の日渡伝書とは比べ物にならないほどであり、なんと頁数は脅威の48頁である。
出来事がなかったわけではない。ただ、記録を怠っていただけである。
「こんなに拙いものでよければ……」
僕は恥ずかしく思いながら、それを鏡子さんに手渡した。
彼女は受け取ると、
「ありがたく読ませていただきます」
と礼儀正しく僕に言った。
本当に稚拙なもので申し訳なくて、僕はその礼儀正しさに何も返すことができなかった。
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ーーー
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「朝から楽しそうだな」
本殿にいる俣治と萌加のところにも、臣館から騒がしい声が聞こえてきた。
俣治が萌加にそう言うと、萌加は笑いながら、
「日常が始まるって感じだね」
と返した。それに対して俣治は神妙な顔つきで考え込むと、
「お前ら、いつもこんなに騒がしいのか?」
と萌加に訊いた。
「まぁそうだね」
萌加は俣治に返した。
「全くお気楽な連中だな」
俣治の言葉が呆れなのか、揶揄いなのか、萌加には分からなかったが、
「元気なことは良いことだと思ってるよ」
そう笑っておくことにした。
俣治も和かに笑っていて、萌加はここで初めて、呆れでも揶揄いでもなかったのだと気がつくのだった。
とはいえ、平和だった時間もこれまでで、この日の正午に濱竹が『井谷戦争に関する報告』などというものを連邦諸国神治関係者に送り、その中に様々なことが記されていたわけであるが、これを一読した磐田大智は日渡国神治首脳部を磐田神社に緊急招集し、とあることを話し合った。
「濱竹の軍総長、中田島砂太郎将軍が殉職した」
集まった神治首脳部の前で、大智はそう切り出した。
サハ戦争に同行した日渡上神種は、少なからず砂太郎との関わりがあったため、その言葉を耳にしてそれぞれ俯いたり涙を溜めたり、暗い反応をした。
武豊上神種は軽く頷いて特段気に留めていない様子であったが、大智が、
「濱竹は、冬至前54日に中田島将軍の国葬を行うとのことで、僕ら日渡国神治首脳部に出席してほしいとのこと」
と言ったのを聞いて、日渡と砂太郎が今まで深い関わりを持っていたことを理解した。
現在、日渡は濱竹の占領下に置かれており、拒否権は与えられていない。そのため、出席しろと言われたらするしかない。
そして大智は、もうひとつ砂太郎関連で意見した。
「先々代の臣の暗殺事件以降、僕たちは中田島将軍に度々お世話になることがあった。どれだけ困難な局面にあっても笑い飛ばせるほどの強さと勇気を与えてくれた彼を弔って、我が国は今日から国葬まで喪に服そうと思う」
「喪に服すのは良いけど、具体的にはどうするのよ?」
大智の意見に花菜が訊いた。それに対し、大智が答えた。
「期間中、僕ら首脳部は正装で過ごすことを義務付ける。国民には、期間内、やむを得ない事情を除いて出国および領外への移動を禁じ、万が一移動を望む場合は神治首脳部への申請を義務付ける。申請があれば僕らが審査し、やむを得ない事情と判断された場合のみ移動を認める。また、萌加様、明様、耐久様におかれましては、その期間内、各自神社に留まっていただきまして、国民の前へ姿をお見せにならないようお願いしたく思います」
大智は、渡海は渡海、日渡は日渡、武豊は武豊と狭い範囲で統治を完結させ、国民の移動にも制限を加えた。
また、神が国民の前に姿を現してはならないことや、1日をずっと正装で過ごすなどという行為は、いわゆる旧体制(日渡にとってみれば兎山時代)の姿を参考にしたものである。
喪に服するにしても、神治を停滞させるわけにはいかない。だから体制を昔ながらのものに戻すことによって、その意思を示そうとしたのだ。
「うん、わかった。じゃあ、そうしよう」
反対意見が上がらないのを確認した上で、萌加がそう決断を下した。
こうして日渡は、これより4日間、中田島砂太郎の喪に服するのだった。
そして、集まった理由はそれに留まらない。
もうひとつ議題があった。
「井谷俣治様と、巫女の畑薙鏡子さんの処刑日が決まった。両名とも明日、冬至前56日に行われるそうだよ」
「随分と急だな」
それを聞いて竜洋が言った。湊も、壱も、司も頷いている。
「靜は、自分らを罵った挙句、連邦に甚大な被害を出した俣治を一刻も早く晒したいのだろうな」
耐久が見解を述べた。それに明も「そうでしょうね」と頷いた。
「で、おそらく靜と濱竹で話し合って、身柄の引き渡しだとか、日程の調整だとか諸々を済ませて、急だけど明日に決まったんだと思う」
萌加がそう言った。上神種は「そうなのですね」と頷いて理解を示した。
「それであるため、僕らは俣治様を靜に移送し、鏡子さんを濱竹に移送しなければならない」
「えっ、それって俺たちの仕事なのかい?」
壱が大智に訊いた。大智は手に持った『井谷戦争に関する報告』の本文を指し示しながら、
「ここに『戦争犯罪者の身柄移送は全て日渡国が担当するものとし、通常の大罪と同様に投石会の実施も行う。日渡国も井谷国と並び当戦争の敗戦国であり濱竹国の占領下にあるが、この移送を拒まずに担えば、主権の回復と連邦への回帰を正式に認めることとする。なお、拒んだ場合、統率国への叛逆罪で連邦裁判にかけるものとする。』とあって、断れないんです」
と言った。安久斗がなぜ井谷俣治と畑薙鏡子を預けてきたのか、面々はここで初めて理解した。
「そういうわけで、僕らは明日、二手に分かれて、俣治様と鏡子さんを運ばなければならないね」
結局、俣治を担当するのが大智と竜洋、壱の男組で、鏡子を担当するのが花菜、湊、司の女組となった。
その後、大智は俣治と鏡子に処刑のことを話したが、どのような顔で伝えたら良いのか分からずになかなか言い出せずにいたところ、それを悟った俣治に用件を見抜かれて揶揄われたのだった。
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ーーー
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冬至前56日未明。
僕らは籠に俣治様を乗せて、靜へと進み出した。
明け方に袋石国に入って、その中心部で投石会を実施し、俣治様に投げつけられる石を見ていた。
その惨たらしさに、なんとも嫌な気分を植え付けられたが、さすがは神というべきか、それらの投石には全くといって良いほど効果はなかった。
「形式だけのもんだな」
籠で袋石の鉄道駅まで向かっている間に俣治様はそう仰った。
「間違いないですね。そもそも、神に下神種からの攻撃なんて効きませんもんね」
僕が返すと、俣治様はお笑いになった。
鉄道駅に着くと、専用車両が停まっていたので、僕らはそれに乗った。
鉄道はゆっくりと動き出して、次の崖川国まで向かう。そういえば、まだ日渡には鉄道が来ていない。靜様は、まだ僕らにご立腹なのかもしれない。
今回のこの役で、それも解決するといいなぁ……
崖川に着くと、また僕らは籠に俣治様を乗せて、中心街まで向かった。
絶妙に駅と中心街が離れていて、それがしんどかった。
崖川でも投石会を行うが、結果は言うまでもない。ただの形式上のものである。
また鉄道駅まで戻って、今度は堀之内国まで向かう。
その道中で俣治様が、
「この投石会だが、おそらく一番苦しい思いをするのはお前らだ。統率国はそれを知った上でお前らに役を命じているのだろう」
と仰ったので、どうしてか尋ねてみると、
「俺という錘が入った籠を持たせて、何度も駅と街を往復させているわけだからな。そしてその俺は無傷で、投石会など意味を成していない。普通に考えれば、やらなくて良いものなのだ。なのに、その無意味なことをやるために、お前らに籠を担がせて俺を運ばせている。罰を受けているのは紛れもなくお前らだ」
とのことだった。
たしかにそうか、小林氏の時とは訳が違う。この投石会は意味を成していない。なのに僕らはそれをやるためにわざわざ駅と街を往復している。
「ま、それをやるだけで靜に許してもらえるのなら、やっておけ。あいつらと対立するのは面倒なだけだ。仲良くできるのならしておけ」
俣治様はそう仰った。
その後、堀之内国においても僕らは駅と街を往復し、続く銀谷国でも同様に、また島谷国、宇治枝国、谷津国においても駅と街を往復して、靜国に到達した時には夕方になっていた。
駅で臣の静岡呱々邏さんがお出迎えしてくれて、僕らは呱々邏さんの後ろを、籠を担ぎながら歩いて安倍川の河川敷にまでやってきた。
そこには、すでに靜の三大神殿下がいらっしゃって、僕らの到着を待たれていた。
「ご苦労だったね。これで君たちの役目はおしまいだ。籠を引き渡してもらおう」
するが様にそう言われて、僕らは持っていた籠を靜の神務局員へと引き渡した。
そしてするが様は、僕に手を差し出した。
握手を求められていた。
僕は恐れ多くもするが様の手を拝取した。
年齢はそう変わらないように見えるのに、その手には幾千年もの傷跡があって、皮膚は硬く、がっちりとしていて、あぁ祖神種とはこうも違うのかと驚いた。
するが様は僕に微笑みかけて、
「おかえりなさい、靜連邦へ。これからは連邦のために、また手を取り合って生きていこう」
そう仰った。
恐れ多すぎて……否、どうしても怖すぎて、そしてとても凄まじい罪悪感と後悔に飲み込まれて……
あぁ、僕はどうして……なぜ対立をしたのだろうと、その笑顔を見ながら泣けてきた。
「はい……!」
僕は泣きながら、そう返事をした。
心の中で、何度も、何度も、ごめんなさいと謝った。
するが様は、ただ笑顔のまま僕の手を握られていた。
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「……起きて〜! 司ちゃーん、起きてってばー!」
名前が呼ばれた気がした。
起きた。
目の前に、花菜の顔があった。
兄じゃなかった。違和感。
眠い目を擦って周囲を見ると、明るかった。
日はとっくに昇っているようだった。
「おはよう」
花菜に言われた。
「……うん」
返した。花菜は腕を組んで言う。
「行くわよ」
「どこに?」
返事に、花菜はちょっと怒りながら言った。
「濱竹よ。鏡子さんを連れて行かなきゃいけないじゃない」
鏡子……というと、井谷の巫女しか出てこないけど、ここにいたっけ。
……いたな、そういえば。
徐々に頭が覚め始めて、思い出してきた。
「ん」
立ち上がって、着替える……必要はなかった。何か動きにくいと思ったら、もう正装だった。
そっか、誰かの喪に服してるんだった。
じゃあ髪だけ適当に整えて、行くか。
部屋の外に出ると、鏡子を連れて湊がいた。
鏡子とは話したことがない。でも、たしか歳はそんなに離れていなかったと思った。
……そんなことないかもしれない。
10くらい違うかもしれない。
分からない。
でもいいや、鏡子で。
「おはようございます」
湊に声を掛けられた。
「ん」
それだけ返す。湊の足元に視線を落とすと、竹で組まれただけの籠があった。
鏡子をこれに乗せて運ぶのか。
……乗りたい。歩きたくない。
「さ、乗って」
花菜が言った。
いいの?
籠に入った。
「なんであんたが乗るのよ」
「……」
ダメだった。悲しい。
花菜の呆れ顔と、湊の困り顔と、鏡子の困惑顔が並んでいた。
むぅ。
「歩きたくない」
言うと、
「歩け」
花菜にそう言われた。
「むぅ」
不満を表しておいた。
「まぁまぁ……」
湊が苦笑いしながらその場を収めようとしていた。
歩きたくない。
結局、籠には乗れないまま、鏡子を乗せて歩き出した。
最初は花菜と湊が担ぐ。
その後ろを付いていくだけ。
……眠い。
まだ昇竜川も越えていないけど、眠い。
…………。
ぐぅ。
「寝ないで〜! ほら、頑張って歩いて〜!」
……ふあぁ。
眠い。
やっぱり籠に乗りたい。
「……よいしょ」
籠に入った。鏡子が驚いたようにこっちを見てきた。でも知らない。というか鏡子あったかい。良い抱き枕。
「あっ!? ねぇ、何してんのよ!? 歩いてってば!」
いやだ、眠い。寝なきゃ死んじゃう。
「花菜さん、司さんは特殊体質ですから、ここはわたしたちが頑張りましょう」
湊が花菜を諫めてくれている。ありがたい。これで眠れる。
……揺れが心地よい。
…………。
…………すやすや。
どれだけ経ったか、ふと目を覚ました。
昇竜川を渡っていた。
橋には群衆がいて、良い見せ物になっていた。
「悠長なものね、犯罪者のくせに籠だなんて」
「よく見たら司様もいらっしゃるわ」
「どういうことかしら……」
「もしかして司様も……」
「やだ、やめなさいよ。お偉方にそんなこと言っちゃどうなるか分からないわよ!」
…………。
くだらない。
眠いから寝よっと。
「司、起きたなら降りて。あんたまで犯罪者扱いされてるわよ?」
バレていたみたい。なんで分かったの?
花菜、恐るべし。でも降りるつもりはない。
「別にいい。気にしなければ凄く快適。そっちこそこの調子で頑張って歩いて」
「はぁ!? あんた舐めてんの!? 後で引っ叩くでね、覚えておきなさいよ!」
「まぁまぁ花菜さん、落ち着きましょう。ね?」
湊は相変わらず優しい。
この会話を聞いて、鏡子が少し笑っていた。
……。
何を思っているのだろう。
「……鏡子」
「はい」
声を掛けると、透き通ったような声が返ってきた。
……。
なんて声を掛ければいいのか分からない。
これから殺されるのに。
楽しい? ……そんなわけない。
悲しい? ……推し量れない。
怖い? ……聞いてどうする、そんなこと。
「……」
何も言えないまま、時間が経った。
鏡子はこっちを見ている。
「別に、怖くはありませんよ」
「えっ……?」
鏡子は、急にそんなことを言ってきた。
どこか懐かしんだような目。
鏡子は小さく笑って言った。
「これが定めなんだって、受け入れています。昨日『日渡伝書』を読みましたが、みなさんも辛い思いをしてきているんですよね。それを読んで、なぜだか私、少し勇気をもらったんです。身近な存在の死は、少なからず何かを動かす力になる。それが例え最初は良い方向に転がらなくても、いつか良い方向に転がるように修正される。してくれる仲間がいる。それがこの国の良さなんでしょう。だからこそ私は最期にこの国に送られた。様々な死を仲間と共に乗り越えてきた日渡なら、きっと私の死だって無駄にならないんだろうって、そう思えるように。この国は、暖かい場所です。もっともっと、昔から関わっておきたかったくらい、居場所にしたかったくらい、暖かかったです。女の子もみんな個性豊かで、責任感が強くてしっかり者の花菜さんと、どこまでもマイペースだけど癒してくれる司さん、そして、それを調和してくれる湊さん。もっともっと、皆さんと関わってみたかったですけど、このくらいの浅い関係の方が、残酷じゃないですよね。私は、最期に出会えたのが皆さんで、心の底から嬉しく思います。だから、怖くもないし、辛くもないし、そして何より、嬉しいですよ」
……。
涙が流れる。
鏡子の頬を。
湊の頬を。
花菜の頬を。
そして、私の頬を。
たくさんの涙が、ただただ流れていった。
ーーーーー
ーーー
ー
昇竜川の河川敷に籠が到着した。
日渡の女たちは、なぜか大泣きしていた。
鏡子は、少し満足したように微笑んでいた。
「ご苦労様。任務は終わりだ」
俺は連中から籠を預かった。
今回、街中で実施する投石会は濱竹では行わないことにした。
というのも、昇竜川の河川敷で処刑するのに、わざわざ処刑場所を越えて濱竹市街まで運ぶのが無駄に思えたからだ。
それに、鏡子は特段罪を犯したわけではない。
成り行きで処刑される存在を、ぞんざいにするわけにもいかないだろう。
俺は鏡子を籠から下ろして、昇竜川に浸るよう指示をした。
薄い白い装束に身を包まれた鏡子は、川の中で身を清めた。
処刑を聞きつけた群衆が、日竹大橋や堤防からその様子を眺めている。
「あんなに綺麗な子が……」
「可哀想に……」
「まだ若かろうになぁ」
「巫女というだけで殺されるなんて」
群衆は各々、思い思いのことを言う。
身を清め終えた鏡子に所定の位置へと座るよう指示すると、鏡子は大人しくそこに座った。
「何か、言いたいことはあるか? 頼み事でもいいぞ」
俺が訊くと、
「でしたら、安久斗様」
と彼女は俺を見て言った。
澄んだ瞳だった。
「なんだ?」
訊くと、彼女は透き通るような静かな声で、
「割腹を許してください」
そう言ってきた。
「自死したいと?」
「はい」
鏡子は頷いた。
「介錯は?」
「要りません。最期の最期は、私の意思で死にたいんです」
その瞳は、とても真っ直ぐ俺を見ていた。
「よかろう」
俺は割腹を認めた。
「ありがとうございます」
鏡子はそう言って嬉しそうに笑った。
そんな鏡子に、俺は脇差を渡した。
鏡子はそれを手に持って「ありがとうございます」と礼儀正しくお礼を言った。
そして、腕を服から抜いて上半身を曝け出すと、
「〽︎遥かなる、山青々し、我が故郷、」
澄んだ声で、歌を詠み始めた。同時に、装束の袖の部分を引き裂いて細い布端を作ると、それを脇差の刀身に巻き付けて、自分の腹部に刃を向けて持った。
「〽︎霞立つなら、遠園に……」
鏡子が脇差を腹部左側に突き刺した。
「……っ!」
刃先に血が滴った。鏡子は痛そうに顔を顰めながら、
「〽︎旅立たんと哉。君と征く、」
しかし歌を詠むのはやめない。まだ深く、もっと深く、刃を腹に食い込ませていき、その白く艶やかな腹部を鮮血で染めた。
「〽︎果てなど見えぬ、たっ……旅路には、」
鏡子は、震えた声でずっと歌を詠み続ける。しかし途中で逆流してきた血が口から溢れ出した。
「〽︎見慣れし景色、あらねども、」
だが、血を吐こうとも歌を詠み続ける。刃がしっかりと腹に入ったのを確認したのか、鏡子はここでようやくゆっくりと刃を左から右へと動かして、横一文字に切り始めた。
「〽︎いつか見たうと、願いしを……」
脇差が進むのに合わせて血が噴き出す。そして、その刃が腹を左右に完全に引き裂くと、鏡子は脇差を抜いた。それと同時に腑が溢れて、河原を赤く染めた。
群衆の幾らかが目を逸らしている。
「〽︎我は、今なお……忘れぬぞ……」
それでも鏡子は、まだ息があった。
「ぅぅ……ぅ、ぅあぁ……」
泣きながら、苦しそうに呻きながら、今度は脇差を腹部の上方に突き刺した。
「……っ!!」
鏡子は痛みのあまり気を失いかけるが、
「〽︎二度と……帰れぬ……故郷は……」
まだ歌を詠んで、意識を保っていた。
「ふる、ふるさと……は……」
しかし頭が回らないのか、続きが出てこなくなって、歌が止まる。その間も、鏡子は刃を腹部に深く進めていき、もう既に血塗れの刃を更に血が滴っていく。
朦朧としているのか、虚な瞳で川を見ている。口からは絶えず血が溢れ続けていて、その細い顎先から唾液と共に糸を引きながらゆっくりと地面に落ちていく。
そんな彼女の口が、ようやく小さく動き出した。
「〽︎また……白々と……染まろうか……」
か細く、そしてもう掠れたような声で、絞り出すように続きを詠んだ。そして同時に手も動き出す。刃が腹部を上から下へとゆっくり進む。
「〽︎井谷の、山々…………雄大に…………」
十文字に腹部が裂かれる。最初に切った一文字と交差する場所で、まだ体内に残っていた一部の消化器官が、まるで何もかもを突き破るかのように外へと飛び出した。
あまりに衝撃的な瞬間に、見ていた者の中には嘔吐する者もいた。
「〽︎みらい……えい、ごう…………そこに……ぁ、らん、ゃ…………」
刃が下まで到達する。どれだけ醜い姿になっても、鏡子は虚な瞳を白黒させながら、歌を詠んだ。
「……」
しかし、それもここで終わる。
見事に十文字に自身の腹を切り裂いて、うずくまるように倒れ込みながらも、抜き取った脇差を自身の首に当ててその脈を掻き切ろうとする。
「……っ!」
鏡子の首から血が噴き出した。だが、その傷は絶命するには浅すぎて、鏡子は既に血に塗れた顔面を涙に濡らしながら、苦しそうにひくついていた。
残念ながら、彼女の力では脈が切れなかったようだ。
「鏡子、頑張ったな」
俺は彼女に近寄って、そう声をかけた。鏡子は血を吐き出し、ヒウヒウと息を鳴らしながら涙を流しつつ、口許を少しだけ緩めた。
「首、斬るぞ?」
俺が訊くと、小さな頷きが返ってきた。口が小さく動いているが、声は出ていない。とはいえ、唇の動きから「お願いします」と言いたかったのだろうと推察できた。
介錯をするなと言われていた。それに、本当は最後まで自らの手で逝かせてやりたい。だが、これ以上はただ苦しいだけだろう。
飛び出した内臓に埋もれるようにして、刃が首に半分ほど突き刺さって倒れている鏡子は、もう美しいとか醜いとか、そういう言葉では議論できないような次元の姿であった。
その命が自然に尽きるまでただそこに寝かせておくなど、それは拷問でしかないだろう。
脇差を握りしめた細くきめ細かな手を退かし、首から脇差を抜き取った。鏡子は歯を食いしばって痛みに耐えているようだが、不憫で仕方ない。
俺は血塗れの脇差を河原に置くと、腰から抜刀し握ると、その手に力を込めて大きく振り上げた。
そして鏡子の首筋を目掛けて一気に振り下ろした。
スパンッ、と気持ちが良いほど刀が上手く入って、血を噴き上げながら鏡子の首が宙を舞った。
首は、昇竜川の中へと落ちていった。
「拾え〜っ!」
誰かがそう言って、神務局員が川の中へと入っていった。
畑薙鏡子。
享年27。
幼い頃から自身の意見を押し殺されて育ったと聞くが、最期は自我を出して割腹をやり遂げた、井谷国最後の巫女。
拾い上げられた首は、相当苦しかったはずなのに、どこか微笑んで見えた。
濱竹はその首を、井川閑蔵のものと並べて、昇竜川の西岸に晒した。
期間は冬至前56日の日没まで。
時間にして、たった1時間のみであった。
ーーーーー
ーーー
ー
「……靜」
身体を清め終わって、安倍川の河川敷に座りながら、俣治はするがを見てそう声をかけた。
「靜はここに3体もいるが、誰がご所望かな?」
するががそう俣治に返すと、
「誰でもいいが、目が合っているんだから普通はお前だろう」
と俣治はするがに言った。
「誰でもいいのか」
するがは拍子抜けという感じに笑うと、
「で、なんだい?」
と俣治に聞いた。さぞ悦に浸っているような顔だった。
「お前、俺が縛られてここで跪いているのを見て、相当楽しそうだな」
俣治が言うと、
「そりゃそうだよ、長年の宿敵がようやく滅びるんだからね。戦争を起こしてくれてありがとう」
するがはそう煽った。
「お前だけならボロクソに負けていたがな」
俣治は鼻で笑いながらそう言った。
「にしても残念だ、お前なんで国宝を持ってないの? どこに隠したの?」
するがが俣治に訊くと、
「俺も覚えていない。おそらく昔、お前らが侵攻してきた時にどっかに隠して、それっきりだ。お前らが持っていても不思議じゃないんだが、持ってないのか?」
と俣治。濱竹に託したというのは伏せていて、濱竹もまた、それを靜に伏せている。
「持ってないよ。持ってたら今頃、お前をその剣で貫いてやろうとワクワクしているさ」
「ほんと、お前らにだけは貫かれたくないな」
するがの言葉に、俣治はそう笑った。
「さ、そろそろ殺していいかい?」
するががそう訊くと、
「よかろう、殺れ」
と俣治が言った。
「じゃ、井谷俣治。最期に言い残したことや、言っておきたいことはあるかい?」
するがが刀を抜きながらそう尋ねた。
「靜はクソ野郎」
「はい殺しまーす」
その言葉を聞いて、するがが一気に刀を振り下ろした。
「冗談だ、あるから聞け」
俣治が笑いながらそう言った。するがも流石に冗談だったと分かっていたようで、俣治の首の前で刀を寸止めした。
俣治は真面目な顔をして話した。
「まず最初に、本来、争うべきでない連邦加盟国同士で戦争をしてしまったことを申し訳なく思っている。すまなかった」
そう謝罪をした。
「……」
三大神は何も言わずに、ただその謝罪を聞いていた。
俣治は続けて言った。
「なにも戦争に限った話ではないが、強い者が残り、弱い者が淘汰されるのが世界の常だろう。だから井谷も靜も濱竹も、かつてより強くなろうと必死だった。結果、この靜連邦には強国、大国と呼ばれる国が複数乱立している。それらが纏まれば、西にも東にも対抗できる独立連邦を造ることができよう。俺は、統一連邦が嫌いだ。特に関東。祖神種第一主義などクソ喰らえだ。だから関東の勢力を連邦に入れたお前らを恨むし、間抜けな奴らだと思っている」
俣治の言葉に、靜の三大神は腹立たしそうな表情を浮かべていた。それでも俣治は語り続けた。
「だが、勘違いしないでほしいことがある。俺は、心から靜連邦を守りたいと思っていた。お前らは嫌いだが、お前らの下で様々な国が独立を保てている今の状況こそが理想だとも思っていた。だから状況が変わりそうなことが起きれば反対したし、実際にそうなりかねないと思ったら暴力を用いてでも食い止めようとした」
そんなことは知ったことではない。本当にそうだったかなど、三大神は考えようともしなかった。彼らは、ただ俣治が話し終えるのを今か今かと待っているだけだったが、その言葉を聞いていた群衆は涙し、特に日渡から来た大智、壱は涙で顔を染めていた。竜洋は空を仰いで必死に涙を堪えている様子であった。
俣治は言う。
「この世界は、強い者が全てである。力さえあれば大抵なんとでもなるんだ。だが、力があるからこそ過ちも起きる。そしてその過ちは、起きてしまったら取り返しが付かないものに成りかねない。俺たちが起こした戦争は、もしかしたら、靜連邦に良くない傷跡を残すかもしれない。そうであるなら、俺は心の底からお前らに謝る必要があるだろう」
しかし、と俣治は言う。そして三大神を見渡して、こう続けた。
「しかし、お前らならこれをただの過ちで終わらせはしないだろうとも期待している。これを教訓とし、お前らはきっと前に進むだろう。世界の緩衝材として、三十の国を従えて、統率国の下に秩序が成り立つ、強く素晴らしい連邦を築くだろう。俺はそれがどこまでも誇らしくて、靜連邦に生きて、靜連邦で死んだという事実だけで、充分に嬉しいのだ」
俣治はそこまで言うと、涙混じりになりながら締めくくる。
「常に正しきは力であるが、常に過ちもまた力である。強き者たちはそれを理解し、持ちし力をどう使うのか、それを熟考する必要があるだろうな。俺はそれを誤った。お前らにはもう、誤ってほしくないのだ」
そうして「以上」と言って、全て話し終わったことを伝える。
そして、悔いがなくなったのか静かに微笑むと、目を閉じて刀が首を掻き切るのを待った。
するがが、振り上げた刀を下ろした。
俣治の首が宙に上がった。
井谷俣治。
人類によって生み出されて五千幾年。
深い山の中に井谷という国を築き上げて、靜や濱竹という超大国と対立を重ねた猛々しき国家は、今この瞬間に滅びた。
その魂は、もう二度と蘇ることはない。
首を斬ったするがは、どこか残念そうに、しばらく自分の刀を眺めていた。
ーーーーー
ーーー
ー
俣治様が処刑された日の夜。
僕ら日渡神治首脳部は、靜様に呼び出されて揃って静岡神社を訪れた。
これで正式に靜連邦への回帰が認められ、同時に濱竹からの解放もなされ、僕らは再び国としての地位を手にした。
その帰り道、全員で俣治様の御首を弔うべく安倍川の河川敷を訪れた。僕と竜洋と壱さんは処刑の瞬間を目にしているが、俣治様の言葉を靜様は聞こうともしていなかったように見えて、どことなく虚しくて仕方がなかった。
仲が悪いというのは、こうも醜い事態を生むのかと思い、あまりに損な関係だと感じた。
「安らいだ顔をしているよな」
僕らに話しかけてきたのは安久斗様だった。
「えぇ、そうね」
それに受け答えなさるのは明様だった。
「……あいつは、俺が攻め込んだ時点で、それ以上の抵抗を諦めて降伏した」
安久斗様のお言葉に、僕らは驚いた。俣治様がそれほど潔く降伏したとは思ってもいなかったからだ。何せ中田島将軍は亡くなっているし、きっと激戦を繰り広げたのだろうとばかり思っていた。
「あいつは、最初から死を覚悟していたんだろうな」
安久斗様はそう仰った。
「そうね、同感だわ」
明様の返された言葉に、萌加様と耐久様も頷かれた。
「靜を統率国から降ろすなど、普通に考えれば不可能だ」
「昔ならまだしも、今の神類は共同体を持っているものね。どの国も必ずどこかの連邦に所属し、その地を統括する祖神種の下に国家の存在が認められる」
「ああ、そうだ。そんな祖神種に抗おうってんだ」
「難しい話よね、ほんとに」
安久斗様と明様はそうお話をされた。
「だが奴は、そんな中で、能力を使用するわけでもなく、俺に追い詰められてすぐに降伏した」
「土地を守る神の、あるまじき姿だね」
萌加様の反応に安久斗様は「常識的に解釈するなら異常だな」と仰って頷かれる。しかし、
「だが奴は、誰よりもこの連邦の将来を案じていたと言えるだろう」
と言葉を続けられた。耐久様が「どういうことだ」と問われる。
しかしそれを理解したように俯かれた明様が、
「……そういうことね、バカな奴」
とどこか寂しそうに呟かれると、
「俣治は、連邦の全てを壊そうとしたわけじゃないのね。彼は靜に対する不満を体現し、態度で示すことで、残された私たちに訴えかけた。本気で抗ってしまったら、消え去るのは井谷だけじゃない。山が崩れ、河道が変わり、下流に広がる連邦諸国に大損害が及ぶ。そうなれば……」
「今の状況じゃ、復興させるのは十中八九南四だ。靜も濱竹も、井谷とやり合った国々は皆疲弊し、とてもじゃないが動けない。連邦の管理権は南四連邦の手に渡り、それを嫌った中京や関西が文字通り襲いかかってくる。それも……」
そこまで言って、この地を指差した。
……あぁ、そうか。関東も、関西も、欲しいのはこの“靜連邦”なのか。
そうなれば……
「この靜連邦で、その管理権を狙って大戦争が勃発する」
安久斗様のお言葉が耳を通り抜けた。
誰も得をしない世界が幕を開けてしまうのか。
「俣治は、誰よりも連邦の統治権が南四に渡るのを嫌がった」
安久斗様は俣治様の首を見つめてそう仰った。
「そうね。だから靜を統率国から降ろそうとした」
明様がそれにそう返される。
「国が滅びるのは百も承知の上で、靜に最大限歯向かって、しかし連邦にとってはなるべく小規模な損害に抑えたのか」
耐久様がそう頷かれる。
「……たしかに、連邦の情勢を最も気にかけていたね。兎山の台頭を恐れたり、そのくせ明が統治する渡海のことを気にかけていたり」
萌加様は、俣治様の首を見てそう呟かれた。
そしてそのまま、
「俣治は、良い神だったんだね」
そう仰った。
「そりゃ同意しかねるが、誰よりも文明に恭順な奴だったろうな」
安久斗様のお言葉に、明様が頷かれる。
「変化してゆく文明の中、俣治は神類国家としての伝統的な形を残しつつ、その時代に似合った生き方をしたのね」
「その結果、靜連邦という共同体において、別の共同体の干渉を許さず、祖神種の独裁を認めず、ただ共同体の消滅も断固として許さなかったというわけか」
耐久様の発言に安久斗様が頷かれた。
「全ては文明のために。全ては世界のために。真の井谷俣治は、そんな奴だったのだろう」
安久斗様はそう仰って、「じゃあな。俺はこの後、靜との会議だ」と告げられて去ってしまった。
残された僕らは一同で手を合わせて、この戦争で滅びた北の強国の者たちを弔った。
井谷戦争は、僕らに爪痕を残しながら、しかし意外にも呆気なく終わりを告げた。
辞世の詩(畑薙鏡子)
遥かなる 山青々し 我が故郷
霞立つなら 遠園に
旅立たんと哉 君と征く
果てなど見えぬ 旅路には
見慣れし景色 あらねども
いつか見たうと 願いしを
我は今なお 忘れぬぞ
二度と帰れぬ 故郷は
また白々と 染まろうか
井谷の山々 雄大に
未来永劫 そこに在らん哉
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この度は『神継者〜カミヲツグモノ〜』第2幕の第2章に相当する「井谷戦争」をお読みくださり、ありがとうございます。作者のひらたまひろです。この「井谷戦争」は、『神継者〜カミヲツグモノ〜』の執筆を始めた当初(2020年秋)から構想にあった話で、その大筋を変えることなく執筆できたことをとても嬉しく思います。余談ですが、当作品は2019年の春から2020年の夏まで書いていた旧作と呼ばれるものが存在し、その世界線における「井谷戦争」は、ストーリー開始100年前に起きていた戦争でした。それを、書き直すのに当たってこの瞬間に組み込みました。たった41日という短期間の戦争ですが、それでも被害は甚大ですよね。このあと靜連邦がこの戦争を踏まえてどう動くのか注目ですね!
さて、もう少し内容に突っ込んでいきましょう。まず第1章。これは完全に妖精自治領編の補填エピソードでした。とはいえ井谷と濱竹の長らくの因縁が関わっていて、この「井谷戦争」の導入として必要なものでした。あとは日渡上神種兎山派の殺害事件とかも第1章ですね。この殺害事件も当初から書こうとしていたストーリーで、兎山派の退場は初回登場時から既に約束された未来でした。
次に第2章です。こちらは日渡が靜と対立していくきっかけを書いたものですね。普通、自国の上神種を殺された国が殺した相手国の味方をするなんてことは起き得ませんが、ここで靜との対立があるからこそ最終的に日井同盟が成立するわけですね。ですが、この靜と日渡の対立も執筆当初から約束されていました。というよりは、福田湊が誘拐されるというイベントが約束されていたと言うべきでしょう。湊ちゃんは登場時から、誘拐されて、大智や竜洋に助けられることが約束されていたのです。この章で日渡は靜との対立路線を選び、武豊を併合するという大転換を迎えるわけですが、大智の婚約者探しとも相まって、終盤ではなぜかほのぼの恋愛ストーリーの形相すら見せるという温度差の激しい部分だったように思えますね。
その次に第3章です。こちらは連邦全体の動きですね。主に沼国とか猪頭半島とか、そっちの話が多かったですね。ここで注目すべきところは、関東統一連邦と靜の親密な関係性でしょう。猪頭を共同開発するとか、靜が関東の要求をおおよそ飲み込むだとか、沼を冷遇するだとか。靜がどれだけ関東に良い顔をしようとしているのかを感じ取ってもらえたら嬉しいです。また、関東の技術で発展した国々が関東へ感謝を示し、恭順な姿勢を見せるというのも印象的ですよね。そもそも、第2章で大智くんが靜に反抗したのも関東の技術が欲しかったからであって、もしこれで濱竹を仲介せずに直接的に西部に関東の技術が入り込んでいたならば、西部の国々も猪頭諸国のように関東に恭順な姿勢を見せたかもしれませんね。もしかしたら西部だと靜への忠誠よりも関東への忠誠のほうが高くなってしまうかもしれません。そうなると靜は自らの力で西部をコントロールできなくなります。中部、東部、猪頭なら、たとえ関東の影響力が入り込んでもまだ靜への忠誠が残るだろうけれど、濱竹一強の西部だとそうもいかないでしょう。だから靜は西部への直接的な技術投入を避けたのではないかと、この第3章を読むと見ることができるわけですね。
そして第4章です。靜と井谷の対立は戦争という形で表面に現れます。靜は関東の最新鋭技術を使って井谷を討伐しようとしながらも、井谷の独自技術をもってして関東の技術を測ろうとします。結果は、関東の技術は井谷に対して太刀打ちできず、靜は苦しい戦局を強いられます。井谷には日渡の支援もあり、濱竹の武器がどんどん入ります。それによって更に靜は押されていき、最終的には連邦全加盟国を巻き込んで物量で井谷を食い止めようとします。靜は連邦加盟国を何だと思っているんでしょうね。靜と対立する日渡は、濱竹を占領した状態で国を閉ざし、関西統一連邦と関係を持ちながら独自経済圏を築き上げました。これによって靜連邦は濱竹を閉鎖されて大打撃を受けます。日渡解放は南四連邦が直接行うことになりますが、濱竹の帰還で失敗します。そもそも関東統一連邦は、皇神種国家でありながら連邦で影響力を持ち続ける濱竹に大打撃を与えたいわけです。それであるならば、今回の日渡解放は非常に都合が良かったわけです。艦砲射撃からの上陸、占領で、濱竹の力を削げると確信していたでしょう。濱竹の帰還を阻止するために、わざわざ東北沖で軍事演習を行なって太平洋を封鎖していますし、失敗するわけがなかったのです。ですが、日渡が関西と関係を持っていて、まさか濱竹が関西と中京の艦隊を率いながら戻ってくるなんて想定外だったのです。関東はこれで痛い目に遭い、井谷戦争から撤退します。靜は濱竹安久斗の帰還に歓喜していますが、これは関東の技術が井谷に対して有効でないことが証明された後だったので、現状最も有効打になり得る濱竹が戻ってきたという事実に喜んだのでしょう。また、靜にとっても濱竹本国の壊滅というのは大打撃であり、望まない事態でした。それを阻止できたという点で非常に喜ばしい帰還だったと言えましょう。ではなぜ関東に日渡解放を任せたんだということですが、これは関東の顔色を伺っているだけなのでしょう。あとは、濱竹が壊滅したら靜一強の状況になるため、靜国にとってはそれもまた利益になる可能性すら考えていたかもしれません。そこはよく分かりませんが、壊滅したらその時はその時、壊滅しないに越したことはない程度の思いだったでしょう。靜は関東を利用するだけ利用して、結局技術が使い物にならなくて、内政に関与してくるだけの関東が煩わしくなったところで戦争から追い出すことができたので、さぞ喜ばしかったのでしょう。靜は関東を何だと思っているんでしょうね。
最後に、最終章です。統率国の反撃から戦争終結までですね。日渡は早々に濱竹に占領されて降伏します。その後はあまり出てきていませんが、占領国らしくこき使われていますね。井谷に弾丸出張したり、避難民を受け入れたり。とはいえのびのび過ごしていますが。そして濱竹は関東が連邦内政から消えたので統率国に復帰し、靜と共に井谷討伐を開始します。濱竹の参戦により、技術的優位を取れなくなった井谷は劣勢を強いられ、次々に負けて撤退します。そして、負けに負けを重ねて追い詰められた井谷は、井谷軍最後の抵抗と呼ばれる「塩見岳の戦い」に向かっていきます。この戦いは、喜々音と砂太郎が初めて出てきたはじまり編の時点で既に構想があり、砂太郎がここで死ぬことと、喜々音が重傷を負うことは決められていました。初期案では喜々音を庇って砂太郎が死んでいくようなものでしたが、気が変わったので変えました。この砂太郎の死というのが、喜々音の今後にどう影響を与えていくのでしょうか。喜々音ちゃん、心が脆いので。心配ですね。見守っていきましょう。喜々音と砂太郎が命をかけて井谷軍を殲滅したことで、井谷は濱竹に降伏をします。これで井谷戦争が終結します。その後、鏡子と俣治の処刑が行われますが、どちらの処刑も涙なしでは語れませんね。この場面は記憶に新しいと思うので多くは語りませんが、みなさんにはぜひ俣治を処刑する際のするがの心情を考察してほしいです。なぜ彼は残念そうに刀を見つめたのか。その裏に隠れた心は何だったのか。それが見えてくると、靜という存在が、祖神種という存在がどんなものなのか、見えてくるかもしれません。
井谷俣治は後継騒動編で初出となりますが、当初、まったく善良な神ではありませんでした。反統率国の荒くれ者で、好印象とは掛け離れたような問題児だったわけですが、それは結局のところ井谷戦争で死ぬ存在だからぞんざいに扱っていたという点が大きかったです。ではどうして今のように善良な統治者として描かれることになったのでしょうか。その転機は「サハ戦争」です。サハ戦争中、兎山明の統治下に置かれた日渡は、井谷に接近します。その結果、俣治のことが深く掘り下げられる機会が増えて、作者が俣治と真剣に向き合う必要性が生じました。そうして井谷俣治という存在の詳細設定が出来上がり、考え方や行動原理、過去などが作り込まれました。それでできたのが200話『共にあの山を』です。そもそも「サハ戦争」自体がプロットにないオリジナルストーリーだったので、もし「サハ戦争」を書いていなかったら「井谷戦争」ももっと簡素な薄っぺらいストーリーになっていたかもしれません。我々は、あの52万字の「サハ戦争」に感謝しなければならないのかもしれません。
この「井谷戦争」は、恋愛話としてのクオリティも高くなっています。言ってしまえば磐田大智を巡る小松喜々音と福田湊のヒロインレースなわけですが、勝者は湊となりました。とはいえ喜々音もまだ負けていませんので、今後どうなるか注目してくださると嬉しいですね。にしても「サハ戦争」の時もそうでしたが、なぜこのような殺伐とした状況の中で甘々な恋愛話をぶち込んでくるんでしょうね、この作者は。もう独立させてラブコメ作れよって思いますけど、独立したラブコメはどうしてか上手く書けないんですよ。そもそも『神継者〜カミヲツグモノ〜』は私の執筆練習場みたいな扱いでもありますので、大体は色のない殺風景な話が淡々と進みますが、途中で何故か高クオリティな話が急に出てくるんです。そういうところを楽しんでもらえると嬉しいです。晴れてメインヒロインにまで上り詰めた湊ちゃんですが、彼女の恋愛も悲恋だと言えるでしょう。湊ちゃん自身は、大智と喜々音の恋情を薄らと感じていますが、肉体関係にあるなどとは思っていないわけで、自分がしたキスを大智にとってもファーストキスだと思っているわけです。ですが読者である我々は、それが大智のファーストキスではないことを知っているわけです。大智のファーストキスは「サハ戦争」の籠絡の船における紗那栗利とのもので、大智の初体験は小松喜々音です。それを読者は知っています。でも湊ちゃんは知らないのです。その事実に気づくことがあるのかは分かりませんが、分かってしまったとき、湊ちゃんはどう思うのでしょうか。きっと嫉妬しちゃうでしょう。彼女からしたらたまったもんじゃないと思いますが、可愛いですね。
さて、こんなもんで終わりましょうか。「井谷戦争」全34話、総文字数36万字を超える長編でしたが、お読みくださりありがとうございました!
もしよろしければ、評価やコメント、ブックマークもお願いします。ではいつもの次編予告でお別れです!
2025.07.05 ひらたまひろ
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次編予告
井谷討伐に始まった靜連邦を震撼させる大内乱期、突入。
「猪頭をよこせ」
「そろそろ靜から離れたらどうなんや?」
介入は止められない。
「これより我が国が連邦唯一の盟主となる!」
「立ち上がれ! 独立だっ!」
二大統率国制、解体。
大国に走る軋轢の数々。
「どうされますか?」
「これは困ったね……」
生き残るために決断せよ。
神継者〜カミヲツグモノ〜
第一次靜連邦内戦
連邦を二分させる戦いが今、幕を開ける。




