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驚いて横に目をやると、隣に座っていたソフィがこちらを睨んでいた。
「ソ…ソフィさま?」
「き、急にどうされましたの、ソフィさま……?」
周囲の困惑もお構いなしに、ソフィは無言で立ち上がり、エステファニアの手を掴んだ。なぜ睨まれたのか、なぜ手を掴まれているのか。何が起きているのか全然分からないままソフィに手を引かれ、二人で『赤薔薇の会』を後にした。赤薔薇の少女達はソフィの一連の行動に呆然としていた。
ぐいぐいと手を引っ張られながら硝子張りの扉を通り、エステファニアは室内へと足を踏み入れた。すると体が急に浮き上がり、その勢いでソフィの手が離れていった。
「きゃあっ!」
「おっと……ごめんよ。大丈夫だったかい、エスティ?」
目の前に見えたのは、世界で一番大好きな赤だった。
「お……おとうさまぁ…」
大好きな父の姿に気が緩み、エステファニアはその温かな腕の中で一気に泣き出した。
「カ、カーディナル侯爵!!どうしてこちらにっ……!」
「大きな声で騒ぐのは、はしたないんじゃなかったのかな……サマンサ嬢?」
その一言で全て聞かれていたことを悟り、赤薔薇の少女達は沈黙した。オスカーは娘の泣きぬれた頬に優しく触れながら、テラスにいる少女達に一瞥をくれた。
「私の可愛い娘を迎えに来たんだが……随分と素敵なお茶会だったみたいだね。でも……残念ながら、カーディナル侯爵家の嗜好には合わないようだ」
優しげな口調とは裏腹に、オスカーの声色は冷ややかだった。
「もう彼女達の相手をしなくていいよ、エスティ」
一門の長に睨まれた少女達は、弁解もできずにただ震えていた。
「さあ、もう帰ろうか――」
「あ、あの……エステファニアさま……」
傍らで事態を静観していたソフィが、おずおずとエステファニアを呼び止めた。
「君は……ああ、トイクラウン伯爵の……」
「はい、ソフィと申します」
オスカーが声をかけると、ソフィは本を片手に持ったまま器用に淑女の礼をした。
「ではソフィ嬢、私の娘に何か用かな」
「あの、エステファニアさま……お、お手紙を書いたら……読んでいただけますか?」
ソフィの眼差しは真剣だった。彼女の静かな気迫に押され、エステファニアは父の腕の中で小さく頷いた。
「……トイクラウン伯爵家のご令嬢は高潔だね。そう思わないか、モニカ」
廊下へ出る直前、オスカーは扉の近くで控えていた侯爵家の侍女に話しかけた。侍女はその言葉に微笑みで返し、主人の後ろに続いた。そんな彼らをソフィが切なげな顔で見送っていた。
アルフレッドとともに馬車へ戻ってきた母は、エステファニアの泣き腫らした顔を見ても、何も言わなかった。理由は聞かず、ただ労わるように頭を優しく撫でてくれた。そして少し咎めるような声色で父の名を呼んだ。父は困ったように微笑み、今回だけだと母に詫びた。
アルフレッドは心配そうな顔をして、何があったの、と繰り返し聞いてきた。幼い弟にも何かが起きたということだけは分かったらしい。父が大丈夫だと伝えると、アルフレッドは自分にだけ秘密にされたと思い、つむじを曲げた。
◇
その夜、就寝の準備をしていたエステファニアの元へ、父が訪ねてきた。
世話をしていた侍女を下がらせると、父はベッドに腰かけて静かに口を開いた。
「今回はあちらから紹介したいと言われて、私も良い機会だと思ったから会わせたんだが……エスティに嫌な思いをさせて悪かったね。彼女達にも然るべき罰は受けてもらうから」
「お父さま!……あの、ソフィさまは――」
「ああ、分かっているよ……彼女はあの集まりに初めて参加したんだろう?」
エステファニアが神妙な顔で頷くと、オスカーは苦笑をこぼしたあとに、実はね、と話を切り出した。
「モニカがね、少し前にお咎めを受ける覚悟で教えてくれたんだ。エスティがお茶会で辛い思いをしているって」
「え……」
父があの場に居合わせたのは偶然ではなかったらしい。エステファニアは驚き、父の顔をまじまじと見つめた。
「モニカに何か罰を与えるかい?」
「……どうして?」
「彼女は君の秘密をばらした。幼くとも君は彼女の主人だ、モニカは専属侍女だからね。主人の言いつけを守れないなら罰を与えられて当然だろう?」
父は厳しい表情でそう言った。主人としての在り方を問われているような気がした。他の使用人に示しがつかないから、罰を与えるべきかもしれない。けれど、自分のために動いてくれたモニカを罰するなんて嫌だった。優しい侍女を守りたい。その一心で、エステファニアは父に言い募った。
「罰なんて必要ありません!モニカは、わたくしのためにっ、わたくしを助けようとして……だからそんなもの必要ありません!」
「分かった……モニカとフェリシアナにはそう伝えよう。今回の処分は君に委ねることになっていたんだ。意地悪なことを聞いて悪かったね……でもこれも大事なことだから。モニカはそういう覚悟で私達に話した……君を守るために。エスティは良い侍女を持ったね、大切にしなさい」
「……あとで、お礼を言います。ずっと心配してくれていたんです」
オスカーは穏やかに微笑み、そうだね、と言って頷いた。あっさりと希望が受け入れられたことに少し拍子抜けしつつも、エステファニアは胸をなでおろした。
「ねえ、お父さま……お母さまも、知っていらしたの?」
それは、先程からずっと気になっていたことだった。母は招待状が来ると、参加するかどうか必ずエステファニアに確認してきた。モニカから聞いていたというのなら、何故その時に何も言ってくれなかったのだろう。
顔を曇らせるエステファニアに、父は少しずつ言葉を紡ぎ、母の気持ちを説いた。
「ああ。でも、お母様もエスティに意地悪がしたくて放って置いたわけではないんだよ。お母様はエスティに自分で頑張ってほしかったんだ」
「はい……」
エステファニアは弱々しい声で相槌を打った。
(お母さまに……がっかりされてしまったかしら……)
母はどんな時でも優しく笑っている、心の強い人だ。そして我が子を甘やかすようなことは決してしない厳しい人でもある。何もできずに泣いていた自分を見て、母はどう思ったのだろう、とエステファニアは不安げに唇を噛んだ。
そんなエステファニアを安心させるように、オスカーは柔らかな声で続けた。
「……でもね、頑張って駄目ならそれでも良かったんだよ。今回はむしろエスティが相談してくれるのを待ってたんだ」
「え……」
「エスティが話してくれたら、私達は一緒に考えることができる。君に力を貸すことができる。だから本当に困った時は、自分からそう言ってほしかったんだ……もちろん、甘えてばかりだとお母様に怒られてしまうけどね」
思ってもみなかった言葉にエステファニアが目を瞬かせると、父は茶目っ気たっぷりに笑った。
本当の事を知られたら両親にも嫌われるのではないかと思っていた。でもそれは大きな間違いだった。思い悩むエステファニアに、家族はずっと手を差し伸べていた。勇気を出して打ち明けていたら、今日とは違う結果が得られたのかもしれない。
「お母様はいつだって君の為になる道を考えているんだよ、エステファニア。それだけは分かってほしい」
「はい」
エステファニアが頷くと、父は頭を撫でてくれた。
明日、母とも『赤薔薇の会』のことを話そう。どうすれば良かったのか、母はきっと一緒に考えてくれる。今日は父に助けてもらったけれど、次は自分で頑張れるように。
(そしていつか、お母さまのような素敵な淑女になりたい……)
父の手の温もりを感じながら、エステファニアは厳しくも優しい母フェリシアナのことを想った。