1 - 1 〈SIDE: V〉
ガタン、という音とともに馬車の揺れで意識が浮上する。
(――ああ、眠っていたのか)
ここ最近は学院への入学準備で何かと忙しかったので、少し疲れていたのかもしれない。
窓からは既にカーディナル侯爵邸の屋根が見えてきていた。
婚約者に会うため足繁く通ったあの屋敷も、次に訪れるのは長期休暇の頃になってしまうだろうか。
ヴィンセントが婚約者と出会ってから確かもう五年ほど経つ。
不幸な事故に見舞われて失意の底に沈んでいた彼女も、今では驚きの行動力を発揮し、周囲を別の意味で心配させるようになった。
貴族令嬢としては少々お転婆が過ぎるきらいがあるが、元気なのは良いことだ。
(一応、危ないことをしないように念押ししておこう)
ゆるやかに移り変わる景色を何とはなしに見送りながら、ヴィンセントは自身の婚約者――エステファニアについて思いを巡らせた。
カーディナル侯爵家のエステファニア嬢は、ランドルフ公爵家嫡男であるヴィンセントの少し風変りな婚約者として名が知られている。
『八歳の時に先代侯爵夫妻とともに馬車の暴走事故にあい、その後遺症ですっかり人が変わってしまったらしい……』という彼女にまつわる噂話は、事故から数年経った今もなお、アーデンフォレスト王国の貴族達の間で度々話題になっていた。
優しげな顔立ちと素直な性格は隣国クアドラドの貴族令嬢だった母親譲り、亜麻色の柔らかい髪と灰色の瞳は物心つく前に病死した実父の色を受け継いだらしい。
自分の死期を悟った彼女の実父は、親友のオスカー・カーディナル侯爵に妻子を託し眠りについた。
オスカーはまだ幼いエステファニアを我が子同然に可愛がり、その母フェリシアナのことも親身に支えた。二人は次第に仲を深めていき結婚、その翌年にはカーディナル侯爵家の跡取りであるアルフレッドがこの世に生を享けた。
父親が違う姉弟ではあるが、二人はとても仲が良い。
馬車を降りると楽しそうな姉弟の声がヴィンセントの耳に微かに届いた。
今日は天気も良いし庭に出ているのかもしれない。
先代侯爵夫妻亡きあと、現在はオスカーの実弟ジョー・カーディナルが爵位を継承し、残された子供達を養育している。
屋敷に通されカーディナル侯爵夫妻に挨拶を済ませると、部屋の外では彼らの息子が待っていてくれた。
「ヴィンセント様、ご無沙汰しております」
「久しぶりだな、ウィリアム。まだ領地にいたんだな……普段ならこの時期はもう学院に戻っているのに。反抗期は終わったのか?」
「反抗期なんかじゃないですよ……王都の方が好きなだけです」
「親と離れていたいだけだろう? ウィリアムは子供だな」
「まだ言いますか……そういう貴方はもう少し子供らしい顔をされたらどうです? そんなことでは学院でいらない敵を作りますよ」
最初は身分の差に恐縮していたウィリアムだが、今ではあちらから軽口を叩いてくるくらいに気安い関係になっている。昔のしおらしい態度が嘘のようだ。
「ああ、こんなところでお客様を足止めしてはいけませんね。エスティとアルが庭でお待ちかねですよ。朝からそわそわしながらお茶の準備をしていましたから」
「そうか、それは楽しみだな」
ヴィンセントは僅かに表情を柔らかくし、姉弟の待つ庭園へと足を進めた。
◇
ウィリアムに案内された侯爵邸の庭園では、彩り豊かな花々と生命力を感じさせる濃緑の木々が、日の光を浴びて美しく輝いていた。
「ヴィンス様!お待ちしておりました!」
「姉さま、待って!」
エステファニアがこちらに気づき、満面の笑みを浮かべて走り寄ってくる。その後ろには懸命に姉を追いかけるアルフレッドと、それに付き添う専属侍女モニカの姿も見えた。
「なかなか会う時間がつくれず悪かったな、ニア。元気そうで安心した」
「ヴィンス様もお元気そうで何よりです。お会いできないのは寂しかったですけれど、入学準備のためでは仕方がありませんもの。それより……」
エステファニアは一度言葉を切って姿勢を正し、晴れやかな笑みを浮かべた。
「ヴィンス様、この度は貴族学院へのご入学おめでとうございます!」
「ああ、ありがとう」
王立貴族学院――通称『学院』は十三歳から十九歳までの貴族子女が集まる学び舎だ。中等科と高等科に分かれており、王都に集まってきた生徒たちは学院の敷地内に併設された寮で共同生活を送る。アーデンフォレスト王国の貴族は、貴族学院中等科を卒業することで初めて社交界で一人前として扱われる。
エステファニアが来年入学するまでは会える時間が格段に減るが、貴族として生きるのであれば〈学院に行かない〉という選択は許されない。
入学まで二週間と日も迫っており、ヴィンセントもここでの挨拶が済めば、すぐに出立する予定だった。
「カーディナル侯爵に許可をいただいたから今夜はこちらに泊まる。またしばらく会えなくなるからな、代わりに今日は何でも付き合うぞ」
「本当ですか! 嬉し――」
「えっ!? ヴィンセント様、お帰りにならないんですか? 夜は姉さまと二人きりで遊べると思っていたのに」
最愛の姉との時間を奪われると知ったアルフレッドが口を尖らせた。
「アル、あまり二人の邪魔をしないようにね。アルは秋になってもエスティと一緒に遊べるだろう? ほら私と一緒に下がろうね」
「でもウィル兄さま……」
駄々をこねるアルフレッドを、ウィリアムが優しく窘める。
ヴィンセントはそんな彼らを静観しつつ、エステファニアを後ろからゆるく抱きしめ、彼女の頭に軽く口づけた。
心優しい友人はこちらに気を利かせてくれたようだが、アルフレッドは自分が相手からどう見えているのかをよく理解していて、人の気持ちを掴むのも上手い。元々幼い従姉弟に同情的なウィリアムにとっては分が悪いだろう。
「気遣いはありがたいが私は構わないぞ、ウィリアム。アルフレッドは夜更かしができないし、内緒話はベッドですれば良いだけだ……なあ、ニア?」
「まあ!今日はヴィンス様と一緒にお休みしてもいいのですか? 嬉しいです!」
エステファニアがパッと振り返り、弾んだ声をあげながら無邪気に抱き着いてくる。懐っこい子犬のような可愛らしさに思わず頭を撫でてやると、彼女は満足げな笑顔でその手を受け入れた。
こちらに気づいたアルフレッドは膨れっ面になり、その横ではウィリアムが狼狽していた。その姿が愉快でたまらなかったので、ヴィンセントはこれ見よがしに少女を抱きとめる腕に力を込めた。
「いやいやいや、だめでしょう。何をおっしゃってるんですか、エスティはもう十二歳なのだから流石にそれは不味いです。あと近すぎますよ、ヴィンセント様!」
「どうせアルフレッドが潜り込んでくるし、隣室では侍女が控えている。一緒に眠るだけなんだから何も問題ないだろ。それに私以外の男に気を許さないようにちゃんと言い聞かせてるぞ」
一人焦る友人の心を思いやり、ヴィンセントは婚約者との約束を再確認した。
「ニア、私との約束は覚えているな?」
「もちろんです!ヴィンス様とアル以外の殿方とは二人きりでお会いしてはいけないのですよね。親友のヴィンス様とのお約束ですもの、ちゃんと守っていますよ」
「ああ、そうだ。ニアは私との約束が守れて良い子だな」
ウィリアムが顔を手で覆い何やらブツブツと呟いているが、傍らに控える彼の専属従者に任せておけば問題ないだろう。
「さあ、お茶の支度をしてくれたんだろう? 案内してくれ」
「そうでした!ヴィンス様の好きなお菓子も沢山ご用意しましたの!」
「僕もお手伝いしたので一緒にご案内します!どうぞこちらへ」
楽しげに笑い、軽い足取りで先導していく姉弟とともに、ヴィンセントはその場を後にした。