居場所は過去となって3
それが紛れもない献身であったことを知ったのは、一週間後のこと。
じじいが久しぶりに外出すると言った。じじいはこの森の専門家として有識者会議にも呼ばれる学者人だったので、私は今回も特に疑問も持たず見送りをした。森の端まで。じじいのいるところなら、それほど怖くなかったということもあった。
「いってらっしゃい、じじい」
「ああ、キリノ。頼んでいた仕事はやってくれたかい?」
「うん」
この頃には、脚の調子の悪いじじいの代わりに私が森番の仕事を行うことも多くなっていた。
「ありがとう。夕食は、食卓に置いておいたからね」
そうして、極めていつも通りに、じじいは森を出て行った。
私は疑いもせずにツリーハウスに戻り、食卓になんの気なしに目を向けてーー異変に気付いた。
卓上には果物を重しにして、見慣れぬ白い封筒がのっぺりと置いてあったのだ。
無機質なそれに鳥肌が立った。じじいが私に宛てたものであることは明白だった。ここには誰も来ないのだから。
(じじいがわざわざ私に手紙なんて、今まで一度もなかったのに)
私は今度こそ総毛立って、転げるようにして手紙を手に取った。重しの果物が弾みで転がって、床に落ちた鈍い音がどこか遠く聞こえる。
震える手で封を破り、便箋を広げ……。
勢いのまま出入り口に走り、梯子など目に入らないとばかりにそのまま地上へと飛び降りた。
『キリノヘ
僕はもう帰って来られない。
往生際悪くも森に固執していたが、キリノ一人に僕を看取らせるのは忍びないと思った。
だから、旧王都の弟一家に面倒を見てもらうことにした。僕の異母弟は政権交代前は子爵位を継いでいて、じじいの一人や二人変わらないと言ってくれてね。
一人にしてしまって、本当にすまないと思っている。どうか恨まないでくれ。キリノには生活に関するあらゆる知識を教えてきたので、僕がいなくても生きて行けると信じているが、寂しがりやなので心配している。
僕の分まで森を守っておくれ。森に愛された子よ。
自分を大事にしなさい。僕の大切なキリノを蔑ろにすると、僕は悲しい。
キリノとの日々はどんな苦労も楽しくて、僕は目に入れても痛くないとはこういうことかと思ったよ。時々でいいから僕を思い出してくれると嬉しい。
マクシミリアン=フォン=アルブレヒト、お前の義父より』
* * *
走って走ってさっき見送った場所に戻ったが、じじいの姿はどこにもなかった。意を決して、背中に流れる嫌な汗には気づかないことにして街に走り出す。
「じじい……森番の、マクシミリアンを見ませんでしたか!!」
大通りに止まっていた辻馬車の馭者に捲し立てた。
「森番のマクシミリアンです! マクシミリアン=フォン=アルブレヒト!! 【私の義父で、灰色の目をしています! さっきこっちに来たはずなんです!! きっとまだそんなに遠くにはーー】」
「なんて言ってんのか、全然分かんねえな」
馭者の男は、心の底からそう思っているようだった。馭者の迷惑そうな顔に思わず怯む自分を叱咤して、ならばもう一度、名前だけでも、と思いーーーーひゅっと喉が鳴った。
いま、私は、どこの言葉を使った?
周りを見ると、通りすがる人々が不思議そうに私を見ていた。ヒソヒソと交わされる彼らの会話は聞き取れないが、むしろそれでよかったのかもしれない。
「異国の言葉だ」などと断ぜられた日には、燻すような郷愁に身をやつしていただろう。
代わりに私は、衆人環視の現状から心を逃す術を失うことになったが。
「……ぁ……っ」
目の前が真っ暗になって、混沌の影がぐんと伸びて私の喉元まで迫り上がってきた。
私の頭はみるみる恐怖でいっぱいになり、気付けば一目散に来た道を戻っていて、自身の意志薄弱さを呪っても呪いきれなかった。
それでも、じじいのいない街で、私の心の休まる場は、最早森にしか無かったのだ。