居場所は過去となって2
* * *
「キリノ、ちょっとこちらにおいで」
そう呼びかけたじじいの声はまるで今にも枯れそうな古木のようで、私は言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。
こちらを見るじじいの瞳は不自然な程に穏やかで、慈愛に満ちた瞳が、今だけは何故だかとても、嫌だった。
(そんな、諦めた目を、しないでよ)
いつもの、悪戯っぽくて気力に満ちた、研究者の目が好きなのに。
何かを諦めたみたいな、終えてしまったみたいな顔を、しないでよ。何があったというのだ。
金縛りにでもあったかのようにじじい手製の小椅子から動かない私に痺れを切らしたのか、とうとうじじいから距離を縮めてきた。
いつもは本で埋まった長椅子の端ににちょこんと座るのに、今は私の座る小椅子の前に膝をついて、愛おしげに私の両の手に自身の両手を被せた。
「どうしたの。今日のじじい、ほんとにじじくさいよ」
何も気付いていないふりをしたくて、いつものように憎まれ口を叩く。いつもなら「僕はまだまだ若い!」などとほざくはずなのに、
「そりゃあ、もう年だからね」
今日は、戯れには応じてくれなかった。
そよそよと流れる風が、いつもは心地いいはずなのに、今だけは流れていってしまうのを恐れた。
分かっていたからだ。この時間は、狭間なのだと。
じじいが話を始めるまでの、ひとときの静けさだと。
下がっていた視線をじじいに合わせた。静謐な光をたたえる、酸化した銀鼠のような濃い灰色の瞳。
じじいは、本物の老人になっていた。
「今から聞くことには、正直に答えるんだよ」
厳かに言うじじいに気圧されて何も言えなくて、何かがおかしいと思ったまま続く言葉を待つ。
「キリノ。お前は、この森が好きかい?」
「好き。大好きだよ、森もじじいも」
いつもは照れてしまって言えない言葉がするりと口から飛び出た。どころか、それでは足りないと手のひらがじんわり汗ばんだ。漠然とした焦燥感に突き動かされるように、じじいに抱きついた。私から抱きしめるのは、初めてだった。
じじいは私を抱き返し、尚も問うた。それは確認の形であったけれど。
「まだ、外の人たちは怖いんだろう?」
外、と聞いてびくりと震えたのが何よりの返答になっていた。
黙り込んだ私はじじいにぎゅうと抱き竦められ、柔らかく、それでいてはっきりと呟かれた。
「大丈夫、お前は守られている。お前が望むならば、いつまでも此処にいていいんだよ。外が怖くなくなるまで、或いはお前が外に出たいと思えるまで」
身体を離す際、つむじに触れたものは、祝福だったのだろうか。
じじいは私に何も悟らせなかった。でも、私は知っていたはずなのだ。大事なことほど誤魔化してしまう彼の性質を。もう少し考えれば、気付けるものだった。その『もう少し』を怠った私は、きっと、心のどこかではこうなることをわかっていたのだろう。
分かっていたから、気づかないふりをして、今の甘美なぬるま湯に執着して、それが冷え切ってしまうまで、絞り尽くすような、真似を。
逃げたのだ、私は。
そのことに気がついた時、私はこの世界で唯一のものを、二つ無くしたのである。