ジークハルト視点2
自宅に着く頃には、空は暗褐色に染まっていた。
「ただいま帰りました」
玄関のドアを閉めて、コート掛けに彼女に借りた外套を掛けた。植物の繊維で作られた薄手のそれは、まだいくらか湿っていた俺のシャツを見兼ねて彼女が寄越したものだ。人嫌いを隠さないわりに、世話焼きだと思う。こういう所は、よくわからない。
食卓の蝋燭を灯すと、今日は父の当番だったようで、彩り豊かな野菜料理が並んでいる。父は肉をさわるのが苦手で、その代わり母の時は逆に『早く大きくなれ』と言わんばかりに肉ばかりになるのだ。
両親は、とても忙しい。
食後の感謝を述べた後、皿を片付けて、両親の寝室を覗く。
父がいた。
大きな身体を寝台に預け、死んだように眠っている。眉間に刻まれた皺が、濃い疲労を滲ませていた。今日も帰れないと言っていたが、仮眠をとりにきたのだろうか。
(帰ってきて良かった)
父の顔を見られただけでも、その甲斐あったというものだ。
父の休息を妨げぬよう扉を閉めようとしたが、気配に聡い父は目だけ動かしてこちらを認めた。いつから起きていたのだろう。
「お帰り、我が子。こちらに来なさい」
「ただいま帰りました、父さん。起こしてしまった?」
「いいや。……三日ぶりだね?」
「四日ぶりだ」
「そうか」
燭台をサイドテーブルにことりと置き、寝台の父に歩み寄りながらそんな会話をした。
大きな手に腕をさすられ、学校はどうだ、と訊ねられる。まだ一週間も過ごしていないから判らないと答えようとして、やめた。
「今日、『お友達』があてがわれた。だがあの子なら、本当に友達になれるかもしれない」
「ふむ」
父のこの相槌は、続けろという意味だ。
「森番の子だ。森の外と内で全く性格が違う。あの子も俺を怖がっている節はあったけれど、俺を上に置こうとはしなかった。笑ったり、睨んできたりするんだ。学校と森とで笑い方が違っていた」
自分が女の子に間違われたことは、笑われるに違いなかったので黙っていた。
「森番とは、懐かしい名前だ。あの者、私より一回り以上年上であったが、まるで少年のような目をしていてな。頼んだ覚えのない報告書もなかなか面白かったよ。晩年に子どもを拾い育てていたというのは、真であったか」
「そうだと思う。あの子の家に、沢山の書物が積まれていた」
子供には、とても読めないような学術書が。
父は暫し沈黙すると、呟いた。
「おまえのその子は、おまえと目を合わせるが、見つめているうちに、目を逸らす。違うかい」
「違わない。……何故?」
「ハルト、我らの視線が、時に後ろ暗い者を怯ませると前に話した。覚えているか?」
「もちろん。」
「後ろ暗い者と言ったが、あれは厳密には、隠したい事がある者であり、忘れたい過去がある者であり、消えぬ傷を負った者でもある。我らが代々慰問に向かうのが一度きりであった理由がここにある。……その子供が果たしてどれに当てはまるのか判らぬが、……いや、やめておこう」
父は空色の瞳をふと遠くに巡らせ、懐古するように瞼を閉じた。目尻の皺が僅かに深まる。
「出会った頃の母さんも、この目を見て泣いた事があった。……母さんは、内に内にと心を押し込めてしまうひとだからな。次帰って来たら、思い切り甘やかして、一緒に料理をして、それから……」
父に半ば覆い被さる形で抱きしめられながら、今頃母は何をしているだろうと思う。
「……会いたいな……」
呟いたのは父だ。
俺はもう抱擁されるような年じゃない、なんて照れ隠しも言う気にはならなかった。
明日になればまた、父は別人の顔で家を出るだろう。母と同じ目的を胸に、母と同じように自分を偽って。
(はやく、帰って来てほしい)
博識なんて言葉じゃあ足りないくらいの知識を持つ母は、それこそ国中を飛び回っている。それが誰の為かなんて、何の為かなんて。
憶えていない位小さな頃から、両親が幾つもの顔を使い分けているのを見てきた。ある時は自分の顔に最も映える笑みを貼り付けた母を、ある時は凍るような真顔で誰かを睥睨する父を。
目眩がするような恐怖と緊張を、確かに感じたのだと思う。
しかし頭のどこかで、冷静な自分が『今の自分が取るべき振る舞い』を確実に考えていた。その通りに振る舞えば、両親を困らせないということもわかっていた。せめて、足を引っ張らないですむのなら。
どうして、そうしないでいられるだろうか。
王家の血がそうさせるのだと、この振る舞いは両親を心配させるのだとわかるようになったころには、もうその顔しか持っていなくて。
「その子に友達になって欲しいと伝えたら、友達とはゆっくりとなっていくものだと言われた」
「母さんと、似たようなことを言う子だね。仲良く出来そうかい」
「友達になる努力をする許可を、貰った」
一拍して、くくく、と振動が伝わってくる。それでは精一杯頑張りなさい、と笑うので、大真面目に頷いた。