白粥の香り
それでも正月の三ヶ日が明けたころには少し熱も下がってきて、イオン飲料か麦茶くらいは胃に収まるようになってきた。
私は、這うようにしながら自分の吐いた跡を拭いてまわった。塩素殺菌もして、汚れものはまとめてゴミ袋に放りこんだ。
その頃には猫の運んだ『ごはん』は更に増えていて、名前もわからない茶色い小鳥まで混ざっていたのだが、顔をそむけながらも丁寧に庭の隅に運んで埋め、手をあわせた。
何かと片付け仕事をしているだけで体力の消耗がはげしく、一通り済んだ後には、私はまた敷きっ放しの蒲団にどさりと身を投げ出した。
コンビニにすら行けそうにもない。
私、このまま、溶けて消えてしまうのだろうか……激しい動悸と脳内に飛び交う極彩色のパターン図に全意識を集中させながら、私はまた、浅くも暗い眠りに吸い込まれていく。
どこか遠くから、落ち葉を焚く煙の香りがしたような気がした。待って今その煙のうえに乗っかっている思い出をおもいだすから、私はすっかり小さな少女になって叫んでいた……
いつの間にか、十日市くんがいた。
彼の背中がコンロ前に見える。
「ったく、すぐに連絡くれれば飛んできたのに」
ぶつぶつ言いながら、昆布だし、椎茸だし、出汁だし~、なんてリズムに乗せて、上機嫌で何か煮ている。
ぷうん、と胃に響くような良い香りが部屋に満ちていた。
「……スキー行ったんじゃ?」
「寒いからやめた。さぁて、できたかな」
小さな土鍋も、家から用意してきたのだろうか、彼は両手に布巾を巻き付け、あっちっち、と言いながら土鍋を運んできた。
ほうら、米からちゃんと手間かけて煮たんだぞ、と自慢げにふたを開けてみせる。
湯気がものすごくて、中身は全然見えない。
「何それ」
「白粥だよ、出汁はふんだんに使っているけど、塩は入ってない」
「うげえ」
確かに匂いだけは美味しそうだ。でも、味がないお粥なんて。
「それにしてもどうやって家に入ったの」
玄関は鍵が掛かっていたはずだ。彼はしゃあしゃあと、こう言った。
「猫が縁側にいたんで、もしかしたら、と思ってさ」
掃き出し窓の鍵を掛け忘れていたのだ。
「白粥、食えよ」
「味がないと、食べられないもん」
「食えよ」
「いやだ」
「じゃあ、猫がくれたモグラを持ってくる?」
「うげ」まだあの彼女は、私に食料を運んでいたようだ。
「食えよ」
「誰がモグラを」
「違うよ、お粥」
「いただきません」
「食わないと、入院だぞ」
「いやだ」
「点滴だよ、痛いぞ」
「……いやだ」
「腕、細っこいし、血管も細いみたいだし」
「見ないでよ」
「痛いぞ」
「痛いの、やだ」
「じゃあ食えよ」
「だったらさ」
私はわずかに残った力で半身を起こした。
「こないだみたいな唐揚げ作ってよ、それか豚テキ」
「えええ」腑抜けた声をあげてから、十日市くんは急にまじめな顔して言った。
「新村さんの現レベルは1です」
「なにそれ」
「唐揚げを食べていいのはレベル20から」
「えええ」今度、間抜けな声を上げたのは私だ、たぶん。
「生姜焼きがレベル18、そんで豚テキは」
「分かったよ」急に腹が立って、十日市くんの手からレンゲをもぎ取った。
「食べればいいんでしょ、食べれば」
「えっ、モグラを」
「お粥だよ!」腹立ちまぎれに大きくひと匙すくって口に運ぼうとしたら
「待って待って、ふーふーするから」
まじめな顔のまま、彼の顔が近づいた。そして、
ふー、ふー、ふー
神妙な顔で、レンゲのお粥を冷ましている。
その顔が妙に可笑しくて、妙に胸に響いて、
「はい、どうぞ」
そう言った彼に目をやることもできず、私はレンゲだけを見つめてそっと口に運んだ。
出汁の旨み、ほろりと口の中でほどけるような米粒、やさしい甘み。
そして、なぜか涙があとからあとからこぼれ落ち、レンゲの上にそっと乗っかった。
「……しょっぱい」
「塩分、自給自足だね」
たまに十日市くんは、うがった事も言うんだ。
それとも私が耐久性高くなったのかな?
久しぶりにちょっぴりだけ、笑顔が出せた。