エピローグ~大庭~
桜桃忌も終わり、悲しみをアルコールで割って飲みほし、仕事に戻って三日経ち、何でもない日が行き過ぎる。常連の客が旅から帰り、土産話を聞かせてくれることになっていた。
彼は来なかった。用意していたビールを一瓶開け、一人で飲んだ。やけ気味に急いで飲んだためか、頭がふらついた。酔いの幻想の中に、一瞬少女がちらついた。
彼女は来年も来るだろうか。気づけばそう考えてしまい、なかなか脳裏を離れなかった。今年は例年と違う様子だったから、特に心配だった。せめて自分の居場所に無事に帰って、誰かに守られていればいい。繊細なものが傷つかないように。そのまま布団に入って眠った。
次の朝に彼は来た。自分は軽く二日酔いだった。どうやら帰りの予定が少し狂い、帰りが遅くなってしまったらしい。
「いやぁ、可哀想なもんだよねぇ。何一つ原形をとどめなかったっていうから、新幹線ってつくづく恐ろしいねぇ」どうやら帰りの新幹線が福島駅で人身事故にあったらしい。「アンナ・カレーニナじゃないけど、周りの環境がどんどん崩れて、居場所が無くなっちゃったのかもね」
「そうですね」
「どんな人が、どんな気持ちで線路に下りたかは知らないけど、可哀想って思う乗客はどれほどいるのかね。自分のスケジュールがずれるのに気を揉みながらも、ちゃんと悲しめる人が」「どうでしょうね。わかりかねます」
それからは旅の思い出を聞かせてもらった。土地の食材をふんだんに使った食事に舌鼓を打ち、白神山地の自然を満喫したそうだ。旅の最後には津軽に赴き、太宰の生家やゆかりの地をまわったそうだ。また太宰か、そう思ったが、この土地に住む人は少なからず関心があって当たり前だろう。
青森。南北に長い日本だから、南北での寒暖の差は大きくなる。まだ見ぬその地は、どれほど寒くなるのだろう、もう梅雨には入ったのだろうか、それとも梅雨自体ないのだろうか。自分は何も知らないままだ。
東京へ向かって南に下りて半分ほどの故郷へ思いをめぐらす。その土地はよく駆け回ったからかなり細部まで知っている。だから東京の知人には穴場スポットだって教えるし、おすすめのお土産も紹介できる。
でも、自分は大切なものを置いてきてしまった。そして永遠になくしてしまった。親はもういないのだ。弱さを後生大事にし、自分が大事であることを譲らなかった両親。確かに彼らは弱かった。でも自分にはそれを認め、共存するだけの余裕がなかった。彼らの最期の顔は、おびえていた。それを冷酷にも、死に顔にぴったりだと思った。
道は二つに分かれ、永遠に戻ることのない地割れで引き裂かれてしまった。自分は両親のことを何も知らないに等しかったのだ。両親だけではない。目の前で会話をしている常連客のことだって、あの少女のことだって自分は何も知らない。今度こそ永遠に失われる前に知れるのか。
客の前で泣くのは嫌だったから、「サービスしますね」と言って調理場へ戻り、冷蔵庫から桜桃を取り出す。それを洗い、小皿に盛って客に出す。
ちょっと在庫を確認するので、ごゆっくり召し上がってください。そう言ってカウンターの下に潜り込む。果実酒の、瓶の中の、桜桃の表面が少し割れ、果肉がほどけていた。それを見て涙腺がついに決壊した。繊細なあの少女が、いや、全ての存在が傷つかないまま生きれたらいいのに。ただ純粋にそう思った。
日本の梅雨は、涙の谷。
神よ、無知は罪ですか?
※ネタバレ注意!
作品内容に関して。本当はもう少し幸せな話になるかな、と思っていました。桜だって壊れずに済んだだろうし、桃子も死ぬ必要はなかったかもしれません(大庭の両親は別です)。やっぱりそれらがこの小説に大きく影を落としている。大庭が成長するトリガーであって、同時に耐えがたい痛みにだってなってしまうんです。
結局桜と桃子は互い以外を求めてはいなかったし、大庭も誰かと深くかかわることはなかった。その両方にとってライフスタイルの転換、もしくは破壊ともとれる出来事のきっかけになったのが地震だったり、太宰文学にまつわることなんです。
文章について。所々で急に一人称から三人称に変えようとしていたのですが、うまくいっていたでしょうか。違和感を感じていただけたのなら策が奏功したのかもしれません。個人的に三人称は小説のエゴだと思っているので、「心情が内側からのありのままの形で表現し辛い=登場人物に死のイメージが接近している」という意味合いで試みたのですが、率直な間奏を頂けたら幸いです。
また、桜パートと大庭パートの文体の操作がうまくいっていないかもしれません。それについては次回以降改善していきます。
最後に。拙作を最後まで読んで下さった方、ありがとうございました!