プロローグ其の二~大庭~
「オーバーさん、お、か、わ、り!」
常連客の、酒に酔っているのではないかと思わせるくらいの大声で私はようやく注文に気づいた。顔をぴしゃりと叩いてすぐにコーヒーの準備。こうばしい香り。
「あんたが仕事中にうたた寝とは珍しいね」とその客は言った。初老の男性だ。初老といってもまだエネルギーに満ちた顔つきで、毎朝店に来てから図書館やジム、小旅行に行っている。人より五年早く退社して、その分老後を楽しむという算段らしい。彼曰く「早く退社しても神に咎められないくらいには働いた」そうで、余った金と時間で誰もが羨みそうなセカンドライフを展開している。これまた彼曰く「老後は人生のロスタイムだから、四十年あまりで失ってきたものを取り返さないといけない」とのことだった。その言葉から、自分の人生をマネジメントする意志と、それを実行に移す強さを感じた。私のようなその日暮らしの人間にも深く染み入る言葉だった。だから今日も美味いコーヒーを淹れるために必死だ。
「実は寝不足でしてね」と言い、コーヒーをドリップする。一つ一つの手順に注意深く。
「そんなことは言い訳にならないんだよ」と、優しい彼の声。注意はするものの、必要最低限しか声を張ることはない。先程の居眠りは大きな過失だ。「一体何があったんだい?」
「昨日は法要があったんです」「誰の?」「名前は知りません。ただ、毎年行っているんです。2011年から」
彼は腕を組み、ふむふむと二回頷いた。コースターと共にカップを差し出す。
「それは君にとって大事なことなんだね?」続いてコーヒーをすする音。
「はい。供養する気持ちに、相手の名前によって変わりはないと考えているので」
彼がコーヒーを飲んでいるので、しばしの無言。BGMにしているクラシックのピアノがよく響く。彼はサービスのロールパンをかじり咀嚼してから、
「大事なことの後にはしっかり考える時間が必要だよ」と口にした。
「そうかもしれません」と言い首肯すると、
「そういう時には誰かに話すか、文字に起こすかするといい。言葉にすることで気持ちに整理がつくからね」
「はい」
彼は勘定のために財布を取り出しながら「3日間ほど来ないけど心配しないでくれ」と言った。「どこか行かれるんですか?」と問うと「青森の方をさすらってくるよ」とつぶやいて上を見た。まるでその先に大空が広がっているような仕草だった。青森も既に梅雨入りしているのだろうか。私は東京と東北の一部以外の地区のことをあまり知らなかった。
「わかりました。お気をつけて」
彼は店を去り、この空間を沈黙が支配した。実際にはBGMの続きが流れていたが(アコースティック・ギターのソロの曲目だ)、私にはそう感じられた。
コーヒーカップを下げなければ。洗わなければ。
洗うものはそれだけか?
そういえば、と思う。前の家から持ってきた原稿用紙、まだあるだろうか。話す相手など客以外にいないのだから、気持ちを整理するには文字に起こす以外に手段がない。
手短に洗い物をし、控室兼自宅を探す。すると目当ての品が箪笥の下から二段目に見つかった。
この仕事を始めたのには、二つ理由がある。一つは、人とゆっくり話ができること。そして二つ目は自分の時間が持てること。少なくとも客の少ない時間にはそうだった。だから本を読む時間もできたし、調べ物をしたり、小物を自分の手で作ったりできた。
たまには何か書いてみるのもいいだろう。そう思った。「客の居ぬ間に洗濯」と、彼が言いそうなフレーズが浮かんだ。早速洗い出そう。「大庭珈琲館」と書かれたボールペンの芯を繰り出す。