新生活
能勢で邂逅を果たしてから、一週間が過ぎた土曜日。
家の前の川縁に咲く桜がすっかり花弁を散らし、新緑が芽吹き始めた五月の頭。
ついにその日はやってきた。あの仔犬を我が家にお出迎えするのだ。
名前は決まっていた。決めたのは姉だ。私も案を出したが、ダサいと斬って捨てられてしまった。ヒドイ話である。
ともあれ名前は「ラン」に決まり、誰もそれに反対しなかった。そして着々とランを迎える準備を済ませ、とうとうその時がきた。
それまで経験したことのない、新しい生活の始まりである。
それは仔犬にとっても同じことで、寧ろ単身で見ず知らずの土地や人間と関わらねばならぬのだから、その戸惑いは比ぶるべくも無かったはずだ。
最初の数日は、ケージ内を忙しなく動き回り、悲しげな声で母犬を探し求めていた。
夜には寂しげな声で母犬を求め鳴き続けた。
つい先日まで母のぬくもりを肌で感じ、兄弟達と戯れていたのだろう。寂しくて当たり前だ。
それでも数日が経ち、私達に敵意や害意が無いことを汲み取ると打ち解けるのは早かった。生来人懐こい性格なのだろう。
顔の前に手を出すと、最初は「なんだ?」とばかりに恐る恐るではあるが念入りに臭いを嗅ぐ。
嗅ぎ終わって満足すると、片足をあげて、手をはたくように前足を上下させる。「遊んでよ!」とばかりにこちらを見上げるので、指の腹で下顎を軽く突っついてやると、とても嬉しそうにじゃれてくる。
生きたぬいぐるみ。生まれたての動物をこう表現することはよくあるが、本当にそうだと思った。
生後二ヶ月も経っていない、仔犬特有の丸みがそれを強調する。
艶のある黒毛に覆われた体、ビーズの様にくりっとしたつぶらな瞳、時折小さな口元から覗くピンク色の舌。声をかけると直ぐに反応して、はち切れんばかりに振られる尻尾。
正に動くぬいぐるみだ。
それもとびきりやんちゃなぬいぐるみ。
ケージから出すとリビングの端から端まで走り回り、ダイニングの椅子の脚を噛み、たまたま床にあったぬいぐるみを咥えたまま振り回す。
かと思うとまたそこいら中を走り回っているのだ。
そんなこんなで一月が経ち、一年が経ち、ランは私達の家族として大いに愛情を受け、振り撒きながら生活を共にしていた。