『清水公園の夕焼け 〜二十年後の助手席に、彼女が乗ってきた〜』第3話 別れの物語
運命というものは、時に残酷なまでに、守りたいものを奪っていきます。
九月の始まりとともに、季節は残酷な影を落とした。 真理の家だった果物店は、いつの間にか静かにその幕を下ろしていた。軒先に並んでいた色鮮やかな果物籠は姿を消し、暗い色のシャッターが冷たく閉じられている。
ある日、本屋のドアが重々しく開いた。 入ってきた真理の表情を見た瞬間、直樹は息を呑んだ。いつも弾んでいた彼女の面影はなく、そこには深い絶望が張り付いていた。
「お父さんが……病気で、亡くなったの」
絞り出すような声とともに、彼女は直樹の胸にしがみついた。 直樹は何も言えず、ただそっと彼女の細い肩に腕を回した。どれほどの時間そうしていたか分からない。二人は椅子に座り、静かに言葉を交わした。
「お店は、どうなるの?」 「お兄さんが仲買の仕事を続けるし、お姉さんとお母さんが守るから大丈夫だって……。でも、私には何かが終わってしまった気がするの」
彼女は力なくうつむいたまま、震える声で続けた。 「直樹、ハグして。悲しくて、たまらなくて……壊れちゃいそうなの」
直樹は黙って彼女を強く抱きしめた。 真理は目を閉じ、少しだけ体温を取り戻すと、「ありがとう。少し、ほっとした」と言い残して、静かに去っていった。
それから二週間、真理は姿を見せなかった。 十五日目の午後、ようやく彼女が顔を見せたとき、その頬は少し痩せこけていたが、瞳には微かな光が戻っていた。
「元気、出た? 勉強、する気になったかな」 「うん、やるよ。やらなきゃいけないから」
二人は並んで机に向かった。 真理の解くスピードは以前よりも早く、正確だった。時折、彼女は顔を上げて、昔のようにふわりと笑った。その笑顔に、直樹は「ああ、これで大丈夫だ」と自分に言い聞かせた。
――けれど、神様はまだ彼女を許さなかった。
年が明け、大学入試共通試験が終わった一月。 真理の声には、久しぶりに晴れやかな響きがあった。 「真理、どうだった?」 「きっと大丈夫。手応えはあったよ」
その直後だった。一家を支えていた兄が、市場の出口で信号待ちをしていた際、わき見運転の大型トラックに追突された。一週間の昏睡状態の末、兄は意識を取り戻すことなく息を引き取った。
一家は、大黒柱を失った。 母と義理の姉は泣く泣く会社をたたむ決断をし、住み慣れた家も手放すことになった。義姉は子供を連れて実家へ帰り、残されたのは、母と真理の二人だけだった。 孫を送り出す時、声を上げて泣き崩れる母の姿を、真理はどんな思いで見つめていたのだろうか。一年のうちに二度も家族を失い、家の灯火は今にも消えそうだった。
一月三十日、夜七時。 真理が店のドアを押し、直樹の前に現れた。 その姿に、直樹は言葉を失った。まだ少女のあどけなさを残しながらも、その横顔には、逃げ場のない現実を背負った者の凛とした覚悟が宿っていた。
「お母さんがね、『ちゃんと挨拶してきなさい』って」 「……どうしたの?」 「明日、この街を出ていくの」
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。 「どこへ行くんだ?」 「……言えない。倒産して、逃げるように引っ越すんだもの。恥ずかしくて、言えないよ」
彼女は直樹の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。 「どうして神様は、私にこんな試練ばかり与えるんだろう……っ」
「僕に……僕に何か、助けられることはないかな」 直樹の絞り出した提案を、真理は静かに首を振って拒んだ。
「直樹、あなたは就職が決まったばかりじゃない。あなたにはあなたの人生がある。私には、お母さんがいる。……これ以上、甘えられないよ」
しばらくの沈黙の後、彼女は涙を拭い、顔を上げた。 「十九歳の私が、母を支えなきゃ。自分の将来も、自分で切り拓かなきゃいけないの。……直樹、私、少しは強くなったと思う」
そう言って彼女は、無理に口角を上げて笑ってみせた。涙に濡れたその笑顔は、あまりに清らかで、そして遠かった。
「直樹、今まで支えてくれてありがとう。本当に……大好きだったよ」
それを最後に、彼女は夜の闇へと消えていった。
書いていて私自身も涙が止まりませんでした。自らの意志ではなく、運命によって引き裂かれる二人。真理の「少しは強くなったと思う」という笑顔が、あまりに切ないです。




