竜肉の実食
川のせせらぎと、木々を揺らす風の音。
それらを背景に今、焼肉の宴が始まろうとしていた。
簡易かまどの上に置かれた鉄板『鉄のスクロール』の上では分厚く切り分けられた竜の赤身肉が、自らの脂で揚げ焼きのような状態になっている。
ジュウウウウウ……という重厚な響き。
肉の表面から滲み出た脂が鉄板の上で跳ね、香ばしい匂いが爆発的に広がり、周囲の空気を濃厚に染め上げていく。
スフィアは真剣な眼差しで肉を見つめていた。
その金色の瞳は強敵と対峙していた時よりも遥かに鋭く、そして深い愛着に満ちている。
彼は小さなナイフの先で肉をそっと押し、弾力を確かめる。
表面はカリッと硬質に、しかし内側からは押し返すような弾力が伝わってくる。
「……よし、今だ!」
完璧な焼き加減を見極めたスフィアは、素早く肉をひっくり返す。
現れたのは、理想的な狐色に焼き上がった断面。
同時に立ち上る湯気が、ラファエルの鼻腔を直撃した。
「おお、こいつは……」
ラファエルが思わず喉を鳴らす。
だが、この至福の時を共有すべきもう一人が未だに意識を別の場所に飛ばしていた。
「おーい、メリア! 肉焼けたぞ! いつまで素材眺めてんだ!」
スフィアが声を張り上げる。
少し離れた川辺で竜の爪や鱗の山にへばりついていたメリアが、ビクリと肩を震わせた。
彼女はハッとしたように顔を上げ、口元を袖で拭うような仕草をしてから慌ててこちらへ駆け寄ってくる。
その瞳には、まだ金貨の輝きの残滓がちらついていた。
「やー、すみません。ついついトリップしちゃって」
メリアは悪びれもせず、てへへと舌を出す。
近くの岩に置いてあった自分の分の皿とフォークを手に取り、食べる準備だけは万端だ。
「まあ、いつものことだから今更だけどなー」
スフィアは呆れたように肩をすくめつつ、一番良い焼き加減の肉をトングで掴み上げる。
「日常茶飯事なのか……」
ラファエルは、メリアの金銭欲に呆れ果てる。
それを尻目にスフィアは二人の皿に熱々の肉塊を落としていく。
「ほら、まずは赤身だ。冷めないうちに食え」
皿の上にドン、と重い音がするような重量。
焼けた肉は分厚く、それはステーキというよりはもはや肉のブロックに近い。
表面は炭火の熱でカリッと焼かれ、中心部は淡くレアに仕上がっているのが断面から見て取れる。
分厚さに反してしっかり火が通っているようだ。
「いただきます!」
メリアとラファエルは声を揃え、ナイフを入れる。
驚くほどスムーズに刃が通る。
筋肉質に見えた竜の肉は、火を通すことで程よく繊維がほどけているようだ。
まずはスフィアが、自分の顔ほどもありそうな肉塊に豪快にかぶりついた。
ガブリ。
咀嚼するたびに、溢れんばかりの肉汁が口の中に迸る。
「ん~~~~~~っ!!」
スフィアが天を仰ぎ、至福の声を漏らした。
「竜の赤身は肉の味が濃いな! 野性味はあるけど臭みは全くねえ!」
彼の言う通り、竜の赤身は純粋な力強さに満ちていた。
脂身の甘さに頼らない、筋肉そのものが持つ鉄分とタンパク質の旨味。
それが塩だけのシンプルな味付けによって極限まで引き出されている。
「んぐ、んぐ……。美味い、これは美味いぞ!」
ラファエルも夢中で肉を頬張る。
王城で出される洗練された料理とは違う、噛むごとに『肉を食べている』という満足感に支配されていく。
赤身を平らげ、胃袋が活発に動き出したところで、スフィアは次の肉を鉄板に乗せた。
「次はこれだ。尻尾の根元、背中側の一番よく動く筋肉だ」
ジュワッ!
先ほどの赤身よりも繊維が太く、赤色が濃い肉が音を立てる。
竜が歩くたびにその全重量を支え、または敵を薙ぎ払うために酷使してきた最強の筋肉。
それが今、食材として目の前にある。
焼き上がりは早く、スフィアは手際よく切り分けて配った。
メリアがフォークで刺し、口に運ぶ。
噛みしめた瞬間、クニッとした強い弾力が歯を押し返した。
「んんっ……! この弾力、凄いです!」
メリアが目を見開いて感想を漏らす。
「硬いわけじゃないんです。噛むと押し返してくる感じ……。そして、噛み切った瞬間に繊維の間から濃厚なスープみたいな肉汁がジュワッと染み出してきます!」
彼女は恍惚とした表情で、口の中の肉を楽しんでいる。
噛めば噛むほど味が出てくる部位だ。
「だろう? ここは竜の全身のバネが集まる場所だからな。旨味の密度が違うんだ」
スフィアが得意げに解説しつつ、自身も尻尾肉を堪能する。
「さて、次は趣向を変えるぞ」
スフィアが取り出したのは、白と赤のコントラストが美しい、脂の乗った腹身だ。
分厚い脂肪層と筋肉が層を成しており、見るからにこってりとした輝きを放っている。
鉄板に乗せた瞬間、これまでの比ではない激しい音が響き渡った。
バチバチバチッ!
溶け出した脂が鉄板の上で跳ね、白い煙が猛烈な勢いで立ち上る。
その煙に含まれる甘い脂の香りが、三人の食欲中枢を直接刺激した。
炎が脂に引火し、一瞬だけ肉を包み込む。
スフィアはその炎を巧みに操り、表面を一気に焼き固めた。
「腹肉のグリルだ。熱いうちに食え!」
ラファエルは、脂が滴るその肉を口に運ぶ。
覚悟を決めて噛みしめると――。
「……っ!?」
言葉を失った。
溶けた。
肉が、口の中でほどけて溶けたのだ。
「これが肉の脂の味か……」
ラファエルは、口元を手で覆いながら呻くように言った。
「脂がまるで上質なバターのように舌の上で溶けていく。だが決してくどくない。脂の甘みが濃厚なのに、後味が驚くほど爽やかだ。これが竜の脂なのか……?」
その表情は使命を果たす王子ではなく、ただの美味しいものを食べて幸せな青年に戻っていた。
背徳感など、この圧倒的な美味の前では塵に等しい。
赤身、尻尾、腹身。
竜の持つ多様な味わいを堪能し、三人の胃袋も心も満たされつつあった。
だが、スフィアはまだ終わらない。
彼は大切に取っておいた「とっておき」を取り出した。
それは拳大ほどの大きさの、ピンク色がかった美しい肉塊。
きめ細かなサシが入り、表面は真珠のような光沢を帯びている。
「これが今回のメインディッシュ。竜の喉元、ブレスを吐くための器官を守る筋肉だ」
スフィアが恭しくそれを鉄板に乗せる。
音は静かだった。
だが焼けるにつれて漂ってくる香りは、これまでのどの部位よりも芳醇な肉の気配。
「竜ってのはな、ブレスを吐くときに喉が高熱や魔力に晒されるんだ。だからこの部位は熱に耐えるために特別に発達してる。強靭でありながら柔らかい。一頭からほんの少ししか取れない、最高級部位だそうだ」
スフィアの説明にメリアとラファエルが固唾を呑む。
表面に焦げ目がつき、中までじっくりと火が通ったところでスフィアはそれを三等分に切り分けた。
ナイフを入れた感触が、今までと全く違う。
抵抗なく、すっと刃が吸い込まれていく。
「よし、食うぞ」
スフィアに促され、二人はその最高級部位を口に運ぶ。
カリッとした表面の歯触りの直後、口の中で肉が爆発したかのような旨味の奔流が襲ってきた。
柔らかい。
とてつもなく柔らかいのに、しっかりとした食感がある。
矛盾するはずの二つの感覚が、奇跡的なバランスで同居している。
噛むたびに、肉汁と共に濃厚な活力が身体中に染み渡っていく感覚がある。
絶品という言葉すら生温かった。
「んん~~~~っ! クソんまいッ! ワイバーンとは違う、高位竜って感じの肉だな!」
スフィアが叫ぶ。
「凄いですね……。焼いただけのお肉なのにこんなに歯ごたえが柔らかく、それでいてメインディッシュとしての重厚さもある。こんなお肉、商業連合の最高級レストランでも食べたことがないです……!」
メリアが頬に手を当て、うっとりとする。
「エルセインには悪いが、これは食べる価値がある。これが竜の喉肉、最高級部位か」
ラファエルがしみじみと、噛みしめるように呟く。
言葉は要らない。
ひたすら目の前の肉を味わい尽くす。
至高の喉肉を食べ終え、メリアとラファエルは満足げに息をついた。
「ふぅ……。素晴らしい食事でした」
「ああ。一生の思い出になるだろうな」
二人が余韻に浸り、そろそろ片付けの相談でもしようかという空気が流れた、その時。
「よし、どんどん焼こう! 次は肩ロースだ!」
スフィアが、元気いっぱいに新しい肉の塊を鉄板に乗せた。
「えっ」
「えっ」
メリアとラファエルの思考が停止する。
まだ食うの?
メインディッシュは終わったのでは?
「何言ってんだ、まだ足一本分も食ってねえぞ! 竜はデカいんだ、食えるところは山ほどある! ハラミもタンも、頬肉もまだ手付かずだぞ!」
スフィアはトングをカチカチと鳴らし、食べる気満々だ。
彼の胃袋は、どうやら亜空間に繋がっているらしい。
メリアとラファエルは互いに顔を見合わせ、そして同時に苦笑した。
呆れではない。
この底なしの食欲と、食事を楽しむ純粋なエネルギーに当てられてしまったのだ。
「……ははっ。そうだな、ここで遠慮するのは無粋というものか」
ラファエルが腹をくくったように笑う。
「そうですね。下手したら太りそうですが……まあこれだけ新鮮な竜肉を食べる機会なんて、一生に一度あるかないかですしね! いっちゃいましょう!」
メリアも開き直って、フォークを構え直した。
美味しいものは食べられる時に食べておく。
それが食通の、そして冒険者の鉄則だ。
「おう! 食って食って食いまくれ! 宴はこれからだ!」
スフィアの号令と共に、第二ラウンド、第三ラウンドのゴングが鳴らされた。
ジュウウウウウ……!
再び肉の焼ける音が森に響き渡る。
肩ロースのステーキ、ハラミの炙り焼き、タンの厚切り塩焼き。
次々と繰り出される肉の波状攻撃に三人は果敢に立ち向かっていった。
太陽が西に傾き、空が茜色に染まっても宴は終わらず。
星が瞬き始めても肉を焼く炎は消えなかった。
結局、焼肉の宴が終わったのは深夜。
動くことすらままならなくなった三人は、そのまま川辺に寝転がり満点の星空を見上げながら眠りに落ちる。
幸福な満腹感と、心地よい疲労感に包まれて。




