温泉街と竜害
「ここが温泉街イドラかー」
スフィアが窓枠に手をつき、感嘆とも呆れともつかない声を漏らす。
旅路の果てに辿り着いたその街は、彼らが今まで訪れてきたどの都市とも異なる特異な景観を有していた。
険しい山々の谷間を縫うように拓かれたその場所は、自然の地形をそのまま活かした立体的な構造をしている。
急峻な斜面にへばりつくようにして無数の建物が立ち並び、それらを繋ぐように石畳の坂道や階段が網の目のように張り巡らされていた。
特筆すべきは「水」の存在感だ。
街の至る所を、大小様々な川が血管のように流れている。
ある場所では建物の軒下を穏やかに潜り抜け、またある場所では石垣の隙間から勢いよく迸り、小さな滝となって下段の水路へと注ぎ込む。
耳を澄ませば、街全体が常にせせらぎと水音の協和音に包まれているのがわかる。
ゴーレム馬車はその複雑な地形に合わせて整備された大通りを、ゆっくりとした速度で進んでいく。
通りには朱塗りの欄干を持つ太鼓橋がいくつも架けられ、川面にその鮮やかな影を落としている。
川岸には柳に似たしなやかな枝を垂らす木々や、天に向かって真っ直ぐに伸びる青々とした竹林が植えられ、風が吹くたびにサラサラと涼やかな音を奏でていた。
建物は石造りが主流の街とは異なり、そのほとんどが木造建築である。
黒く塗られた板壁に白い漆喰のコントラスト。
屋根には灰色に燻された瓦が整然と並び、軒先には風流な提灯が吊るされている。
その光景はどこか懐かしく、それでいて異国情緒に溢れたノスタルジックな空気を醸し出していた。
「水気が多くて木造建築が多いですけど、商業連合とはまた全然違う雰囲気ですね」
メリアが御者台から身を乗り出し、興味津々といった様子で周囲を見回す。
海上の都市である商業連合も木造船の集合体ではあったが、潮風に晒された荒々しさとは対照的に、ここは山林の湿潤な空気に守られた静謐さが漂っている。
「あっちはひたすら活気があったけど、こっちはなんか落ち着いた感じだね」
手綱を握るブルも、目を細めて街の空気を味わう。
山の冷涼な空気と、木々の香り。
それが彼の故郷の辺境を思い出させるのか、その表情は穏やかだ。
「日向ぼっことか、のんびりできそうだな」
スフィアが屋根の上で毛づくろいをしている三毛猫を見つけて呟く。
ここは戦いや商売の喧騒を忘れて羽根を伸ばすための休養地であり、スフィアの言う通りのんびり寝られれば、さぞ気持ちが良いだろう。
馬車は石畳を軋ませながら街の中心部へと向かう緩やかな坂道を登っていく。
通りの両脇には土産物屋や甘味処が並び、本来であれば多くの観光客で賑わっているはずの場所だ。
ふと、豪奢な装飾が施された大きな建物の前を通りかかった。
入り口には剣と盾の紋章が掲げられている。
この街の冒険者ギルドの支部のようだ。
スフィアの金色の瞳が、その入り口に掲示された一枚の張り紙に吸い寄せられる。
そこには討伐推奨とされる魔獣の似顔絵と特徴が記されていた。
「マッシュ・ボアか……」
スフィアが喉を鳴らす。
――マッシュ・ボア。
湿気の多い山岳地帯に生息する、菌類と共生した特異な猪型の魔獣である。
その最大の特徴は、背中や頭部に笠を開いた巨大なキノコを生やしていることだ。
戦闘時にはキノコから幻惑作用のある胞子を撒き散らし、吸い込んだ者に極彩色の幻覚を見せて混乱に陥れる厄介な相手として知られている。
しかし、スフィアが見ているのはその危険性ではない。
この魔獣、実はとんでもなく美味なのである。
背中のキノコは加熱すれば毒素が消えて極上の食材となり、本体の肉にもキノコの芳醇な旨味成分がたっぷりと染み渡っている。
焼けばキノコの香りが立ち上り、煮込めば出汁いらずの濃厚なスープが取れる。
さらに、張り紙の横には『金色の王冠個体発見情報!』という書き込みまである。
稀に現れる、黄金色に輝く巨大キノコを生やした個体――通称「王冠個体」は幻惑作用も強力だが、その味は筆舌に尽くしがたいほどの絶品だという。
スフィアの口の端から、つらりとよだれが垂れた。
彼の脳裏には既に、炭火で炙られて脂を滴らせるマッシュ・ボアの姿が浮かんでいる。
「おい、ちょっと寄って……」
「スフィアさん。まずは宿に着いてチェックインの手続きからですよ」
馬車を止めようとしたスフィアの野望は、メリアの冷静な声によって即座に阻まれた。
「そうそう、今回は遊びに来たんだからね。宿の料理を楽しんでからでもいいでしょ? ここは有名な観光地なんだし、宿のご飯もきっと美味しいよ」
ブルも御者台から諭すように言う。
「むう……まあ、そうだな」
二人の言にスフィアは渋々と引き下がる。
確かに、特賞で当たった宿はこの街でも指折りの老舗旅館らしい。
そこでの食事もまた、今回の旅の大きな目的の一つだ。
マッシュ・ボアは逃げない。
後で狩ればいいだけの話だ。
馬車がギルドの前を完全に通り過ぎると、スフィアは気持ちを切り替えるようにパンフレットを広げ、再び料理のページを眺め始めた。
湯煙蒸し、温泉饅頭、湯釜鍋。
その写真を見つめる彼の瞳は真剣そのものだ。
馬車はさらに街の奥へと進んでいく。
そこで、ブルがふと違和感を口にした。
「でも、有名な場所って割には人の気配がまばらだね」
言われてみれば、その通りだった。
通り過ぎていく店はどこも綺麗に暖簾を掲げ、商品の陳列も整っている。
手入れの行き届いた植栽、塵一つ落ちていない石畳。
寂れた雰囲気など微塵も感じさせない、一流の観光地としての佇まいがある。
しかし、肝心の「人」が少ないのだ。
店先で呼び込みをする店員の姿はあるが、通りを歩く観光客の姿は数えるほどしかない。
時折すれ違う人々もどこか足早で、表情に不安の色を浮かべているように見える。
「うーん? 確かに人が少ないですね」
メリアも首を傾げる。
パンフレットには「予約困難な人気温泉街」と謳われていたはずだが、この静けさはどうしたことだろう。
「人気が無くて寂れてる……ってわけでもなさそうだよな」
スフィアが店先の様子を観察しながら言う。
店員たちの動きには活気があり、いつでも客を迎える準備は万端に見える。
客が来ないから暇そうにしているのではなく、客が「来られない」あるいは「外出を控えている」といった雰囲気だ。
「まあ、ひとまず宿に行きましょうか。奥の大きな滝の近くの建物ですよ」
メリアが地図を確認し、指差す。
街の最奥部、山肌から豪快に流れ落ちる大滝のすぐ脇に、その威容を誇る建物が見えてきた。
数奇屋造りを思わせる複雑な屋根の重なり、黒く光る柱、そして広大な敷地。
それが今回彼らが宿泊する予定の宿『龍泉閣』である。
ゴーレム馬車は重厚な門をくぐり、手入れの行き届いた前庭へと滑り込んでいった――。
◆◆◆◆
宿のロビーにて。
高い天井には太い梁が渡され、磨き上げられた床板が黒光りしている。
壁には見事な水墨画が掛けられ、生けられた花が上品な香りを漂わせていた。
しかし、その格調高い空間にメリアの素っ頓狂な声が響き渡った。
「え? 温泉が出ない?」
カウンターの向こうで、宿の男性店員が深々と頭を下げていた。
作務衣のような制服を着た初老の男で、その顔には苦渋の色が滲んでいる。
「ええ、誠に、誠に申し訳ありません」
チェックインの手続きをしようとした矢先に告げられた、あまりにも衝撃的な事実。
温泉街に来て温泉が出ないとは、パン屋に行ってパンが無いと言われるようなものだ。
いや、それ以上かもしれない。
「じゃあ源泉もダメになってるのか? 湯煙蒸しは? 温泉饅頭は? 湯釜鍋は!?」
スフィアがカウンターに詰め寄る。
彼にとっての「温泉旅行」の定義は、すなわち「温泉料理を食べ尽くすこと」と同義である。
温泉が出ないということは蒸気も出ないということ。
それはつまり――。
「そちらも……源泉の熱を利用して調理するものですので……現在は提供を停止しておりまして……大変申し訳ございません」
店員の無慈悲な宣告にスフィアの足から力が抜けた。
「そんな……」
彼はこの世の終わりを見たような絶望的な表情で、その場にぺたんと座り込んでしまった。
頭の中で踊っていた湯煙蒸しの野菜や肉たちが、プツリと消えていく。
持っていたパンフレットが虚しく床に滑り落ちた。
「いったいなんでそんなことに」
ブルが困惑して尋ねる。
自然に湧き出るはずの温泉がそう急に止まるものだろうか。
ブルの疑問に店員は周囲を憚るように一度視線を巡らせてから、声を潜めて答えた。
「なんでも……山地に竜が出て、そいつが源泉の脈を塞ぐように居座って温泉を出ないようにしているとか。つまり竜害ですね」
ピクリ。
絶望の底に沈んでいたスフィアの三角耳が、大きく動いた。
「竜、ですか」
メリアが冷静に聞き返しつつ、横目で座り込んだスフィアを見る。
その背中から、ゆらりとどす黒いオーラが立ち上り始めているのを彼女は見逃さなかった。
「その竜はギルドの依頼対象とか……?」
ブルもまた、嫌な予感を覚えながら横目でスフィアを見る。
兄貴分の食い物の恨みは恐ろしい。
ついでに竜肉に対する執着も恐ろしい。
「いえ、今は腕利きの冒険者の方々も他の依頼で出払ってしまっておりまして……。
ギルドに緊急依頼として張り出してはいるのですが、討伐に行けるような実力者がおらず……。業を煮やした街の組合全体で、高額の懸賞金を懸けているところなのです」
店員が指差したロビーの目立つ柱には『緊急! 求む! ドラゴンスレイヤー!』と書かれた大きな張り紙が掲示されていた。
そこに書かれた金額は、確かに目が飛び出るような額だった。
「もう倒せるなら誰でもいい、身分は問わんという感じで……。つい先ほど、どこかの流れ者なのか冒険者らしき二人の男性が名乗りを上げて、竜退治に向かわれたそうです。早く倒されるといいのですがねえ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
スフィアがバネ仕掛けのようにすくっと立ち上がった。
「どうやら、俺たちの出番のようだな……!」
振り返ったスフィアの顔は先ほどの絶望顔とは打って変わって、獰猛な狩人のそれになっていた。
金色の瞳はギラギラと輝き、口の端からは隠しきれないよだれがツーと垂れている。
ブルが慌てて止めに入る。
「いやいや。ちょっと待ってよ兄さん」
「なんだ、どうしたブル! 早く行かないと獲物を横取りされちまうぞ! 竜だぞ竜! しかも温泉を止めるような不届き者だ、成敗して肉を頂く権利は俺たちにある!」
順番的には、先に名乗りを上げて向かった二人組から獲物を横取りしようとしているのは完全にこちらの方である。
「いや、でもさ。今回は僕らが行く必要ないでしょ?」
ブルが諭すように言う。
「ワイバーンの時は成り行きだったんだって? そして黒鉄牛は依頼対象だった。群牙猪とリヴァイアサンは向こうから襲ってきた遭遇戦だし、ヒュドラは依頼対象の確保に絶対倒さないといけなかった。でも、今回の竜は違うよね?」
ブルの主張はもっともだった。
今回、自分たちは休暇で来ているのだ。
それに既に他の誰かが討伐に向かっているというなら、わざわざ危険を冒して割り込む必要はない。
「温泉に入りたくはあるけど、先に二人向かっているなら任せておけばいいよ。僕らは待ってればいいんじゃない?」
「まあ、そうですね。今回は私たち、関係ないといえばないですし。無理に行く必要はないかと」
メリアもブルに同意する。
懸賞金や竜素材は魅力的だが、彼女は金より命を大事にしている。
そんなメリアとしては、これ以上無計画な戦闘に巻き込まれるのは避けたいところだ。
宿は最高級、部屋も素晴らしいはずだ。
温泉が出なくとも、部屋でのんびりするくらいの贅沢は許されてもいいだろう。
「でもなあ……」
スフィアは納得がいかない様子で唸る。
彼の頭の中は「竜=美味い肉」という図式で埋め尽くされており、それがすぐ近くにいるのに指をくわえて見ているというのは我慢ならないらしい。
その時だった。
ロビーの奥から、数人の女性たちが話し込みながら通りかかった。
「あらいややわぁ。まぁだ竜は居座ってはりますのん?」
「そうどすえ。竜が温泉止めてはったら、ウチらおまんま食い上げどす」
独特の艶やかなイントネーション。
美しい着物を着崩したその姿。
彼女たちは、この宿で働く芸者たちだ。
全員揃って牛頭であり、その頭には立派な角が生えている。
牛獣人の芸者たちである。
細身ながら筋肉質で豊満な肢体を着物に包み、長い尻尾を揺らしながら憂いを帯びた表情で嘆いている。
「どこぞのたくましい殿方が、竜を倒してくれはらへんやろか」
「ほんま、そんな英雄様がいてはったら、ウチ惚れてしまいそうどす」
「ふふふ、ほんまやねぇ」
ため息交じりにそう話しながら、彼女たちはしずしずと奥へと去っていく。
――その場に、静寂が落ちた。
メリアは気を取り直して、スフィアに向き直る。
「……とにかく、既に討伐隊は向かっています。今回は宿でのんびり待ちましょう。ね、ブルさん?」
同意を求めて振り返ったメリアは、そこで言葉を失った。
ブルが、仁王立ちしていた。
その全身からは目に見えるほどの熱気が立ち上っている。
鼻息は荒く、瞳は燃えるように熱い。
「何言ってるんだい、メリアさん」
低く、腹の底から響くような声。
「温泉街の危機だよ? か弱い女性たちが、困って泣いているんだよ? 僕たちが行かないでどうするのさ!」
「えっ」
メリアが目を丸くし、スフィアが呆れたように指摘する。
「お前、今行くの渋ってなかったか?」
「僕は過去に囚われないタチでね。そんなことは忘れたよ。さあ早く行こう! すぐに!」
ブルはスフィアの言葉など聞こえていないかのように、拳を握りしめて断言した。
その背中には「モテたい」という邪念が、オーラとなって渦巻いているように見える。
「何だか知らんが、とにかく良し! ブルが来てくれるなら百人力だぜ!」
スフィアは詳しい理由はともかく、ブルがやる気になったのなら好都合とばかりに拳を突き上げる。
利害の一致である。
「あー、もー。結局こうなるんですね……」
メリアは天を仰いでがっくりと肩を落とした。
食欲と色欲、それぞれの支配の前には理性など無力なのである。
医者も匙を地面に叩きつけるほどに。
「わかりましたよ、行けばいいんでしょ行けば! でも、せめて宿に荷物置いてから行きましょう! 帰りにゴーレム馬車使うでしょ? 荷物運ぶの手伝ってください! もう!」
メリアはやけっぱち気味に叫んだ。
こうして、食欲に突き動かされる猫と、色欲に突き動かされる牛、そして諦めの境地に達して懸賞金と竜素材を狙う事にした元商人の娘。
三人のパーティはそれぞれの欲望を胸に、竜が待ち受ける山岳地帯へと足を踏み入れることになる。
二つの物語が交差するまで、あと少し――。




