王子一行と夜の野営地
夜の闇が街道を静かに包み込んでいる。
空には満月が皓々と輝き、その銀色の光が、野営する隊商の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。
ここは、王都と次の街とを結ぶ街道のほぼ中間地点に設けられたキャンプ地。
夜盗の襲撃を警戒し、複数の隊商が寄り集まって野営を行っているため、その規模はさながら小さな村のようであった。
円陣を組むように配置された馬車の周りでは、いくつもの焚き火が赤々と燃え盛り、パチパチと薪がはぜる音が夜の静寂に響く。
人々は思い思いに夜の時間を過ごしていた。
荷物の見張りをする屈強な傭兵たちが槍を手にゆっくりと巡回し、馬の世話をする馬丁が干し草を運んでいる。
焚き火を囲んだ商人たちは、明日の商談について熱心に語り合っていた。
あちこちから聞こえてくる話し声や抑えた笑い声、食器の触れ合う音は夜の孤独を和らげ、むしろ賑やかですらある。
そんな喧騒の中心から少し離れた焚き火の傍らで、一人の男が深いため息をついていた。
「はぁ……」
宮廷魔術師長エルセイン。
その雪のように白い髪は、揺らめく炎の光を反射して金色にも橙色にも見える。
普段の彼からは想像もつかないほどその肩は力なく落ち、美しい横顔には深い憂いの影が刻まれていた。
その視線は燃え盛る炎に注がれているようでいて、その実、何も映してはいない。
ただ三百年前の過去と、失われた未来の可能性の間を彷徨っているようだ。
「エルセイン。ほら夜食に麦粥をもらって来たぞ」
そこに、ラファエル王子が木製の椀を二つ持って現れる。
彼の声は夜の冷気の中で温かく響き、エルセインを現実に引き戻した。
「ああ、ラファエル……ありがとう」
エルセインは力なく顔を上げ、差し出された椀を受け取った。
湯気の立つ麦粥からは、素朴で優しい香りが漂う。
塩と、ほんの少しの干し肉で味付けされただけの簡素な食事だが、冷えた身体には何よりのご馳走に感じられた。
ラファエルはエルセインの隣に腰を下ろすと、自身の分の麦粥を匙ですくい、ふうふうと息を吹きかけて冷ましながら話しかける。
「まだ遺跡に聖剣が無かったことを気にしているのか? 無かったものは仕方ないだろう」
「そうなんだけどね……」
エルセインも、心ここにあらずといった様子で麦粥を口に運ぶ。
「三百年だからね……もしかしたらもう、という可能性も考えてはいたんだが、いざ目の前にすると堪えるものだね……」
三百年の時を経て、ようやく再会できると信じていた、かつての友との誓いの証。
だが、聖剣が収められていた祭壇はもぬけの殻となっていた。
あの時の光景が、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
「……やはり、邪教団『黒き翼』が?」
ラファエルの問いにエルセインは力なく、しかしはっきりと首を振った。
「それはない」
その答えは、あまりにも断定的。
ラファエルは驚いて匙を止め、エルセインの横顔を見つめる。
「断言するんだな」
「……持ち出されてから邪教団の手に渡った可能性はある。だが、持ち出したのは別の者だ。これは断言していい」
エルセインの瞳は椀を膝に置くと、ラファエルに向き直った。
「というと?」
「君は多分気付かなかっただろうね。聖剣の収められていた祭壇には結界が張られていて、それが破られた形跡はなかった」
「どんな結界なんだ?」
ラファエルが身を乗り出す。
エルセインは、かつての友と知恵を絞って練り上げた古の魔法について静かに、そして誇らしげに語り始めた。
「三重の結界でね。それぞれ効果が異なるんだが……まず邪念のある者を弾く結界。これは破壊願望、破滅願望などの他に、聖剣に対し金銭欲を抱くだけでも弾かれる」
その結界は邪な心を持つ者が触れようとすると、まるで静電気のように弾き返すのだという。
純粋な魔力の壁が汚れた思念を許さない。
「となると、噂を聞き付けた商人もダメか?」
「ダメだね、弾かれるだろう。次に純粋な心根を持つ者だけを通す結界。無欲な者しか通さない結界だ」
「先の結界とは違うものか?」
ラファエルの素朴な疑問に、エルセインは静かに頷く。
「一時的な邪念を判別するのが先の結界で、こちらはその者の魂の本質、邪悪に染まりやすいかどうかを判別している。普段は善良でも魔が差す、ということがあるだろう? タイプの異なる二重の結界で、本当に心の綺麗な者だけを通しているという事さ」
二つ目の結界は、まるで清らかな風のように心清き者だけを優しく通し、そうでない者は決して中に入れることはない。
「なるほどな。最後のひとつは?」
「こちらは結界というより加護に近いかな……聖剣を手にした時点で発動する魔法、未来予測の魔法だ」
「未来予測?」
「手にした者の未来を断片的に読み取り、演算する。そして聖剣を手にした場合に悪用する未来があるか判別するんだ」
聖剣アスティオン自身が、持ち主の未来を垣間見る。
それが剣に宿る古代の叡智。
「……万一、悪用する未来があったら?」
「剣の重みが増し、祭壇から動かせない。そういう魔法だ」
ラファエルは感嘆の息を漏らした。
それはもはや、単なる盗難防止の仕掛けではない。
聖剣自身が持ち主を選ぶかのような仕組みだ。
「随分厳重だな。もっと単純に勇者だけが持てるって事ではダメだったのか?」
「勇者が悪に傾くことも予想できたからね……その場合のカウンターとしても考えていたんだ」
エルセインの瞳に一瞬だけ遠い日の記憶がよぎる。
共に戦った勇者アルトリウス。
彼はただの人間だった。
清廉で勇敢、そして平和を愛するだけではなく、普通に小狡いところもあったし誘惑に弱いところもある普通の男だったのだ。
彼の長所と短所、その両方を知るエルセインだからこそ、この厳重な結界を施したのである。
「ううむ、よく考えられているな……」
「そうだろう? アルトリウスと何日も考えたものだよ」
懐かしむようなその声には友への深い信頼と、過ぎ去った日々への愛惜が滲んでいる。
「だが、それが持ち去られたと」
「……そうなんだよね……」
ラファエルの言葉がエルセインを現実に引き戻し、エルセインは再び深いため息をつく。
「いつ持ち去ったかわからないが、この条件で私の知らないうちに持ち去られてしまうとは……」
少なくとも、長い時を生きる竜と大陸一の勇者が二人で練り上げた結界は、好奇心旺盛な一匹の子猫獣人が遺跡探検の記念の戦利品として剣を持ち帰ることまでは想定していなかった。
そもそも、あの遺跡に巣食う強力な魔獣たちを打ち倒し、最奥の祭壇まで辿り着ける無邪気な子供など想定しろという方が酷というものだろう。
「ま、まあ善良な者にしか通れない結界だったんだ。少なくとも悪いことにはならないだろう」
ラファエルが必死に慰めの言葉を探し、エルセインは再び頭を抱える。
「結界が破られていなかったのが不幸中の幸いか……」
「聖剣を持ち去った人物と巡り合えればいいんだが……」
「どこにいるかもわからないからね……最悪、存命していない可能性も……」
エルセインの言葉が、夜の冷気の中に重く沈む。
三百年という時は人にとってはあまりにも長い。
いつ持ち去られたかはわからず、聖剣を持ち去った者が既にこの世にいない可能性も十分に考えられた。
――実際は、聖剣の持ち主は今日も元気に肉を食べているのではあるが。
「……とにかく、一旦王城に戻ろう。父上に事の次第を報告しなくては……」
ラファエルがそう言って立ち上がろうとした、その時。
近くの焚き火を囲んでいた商人たちの、ひときわ大きな話し声が二人の耳に届いた。
「なに、温泉街イドラに竜が出たって?」
「声が大きいって。……なんでも源泉近くの山奥にある遺跡群に竜が棲みついたうえに温泉が水になっちまってるってよ。竜が何かしたんじゃねえかって噂さ」
「そりゃ難儀だなあ」
「しかもそれだけじゃない。竜は誰かに飼われてるんじゃねえかって話だ」
「そんなまさか。竜が誰かに従うってのか?」
「竜が棲みつく直前、黒いローブに黒い翼の紋章を付けた男が源泉に向かったって話だ。そいつが竜を呼んだんじゃねえかって」
その言葉に、二人は弾かれたように顔を見合わせた。
先ほどまでの沈鬱な空気が、一瞬で張り詰めたものに変わる。
「……黒い翼の紋章……?」
「まさか邪教団『黒き翼』……?」
落胆に沈んでいたエルセインの瞳に再び魔術師としての鋭い光が宿り、ラファエルもまた、王子としての使命感を顔に滲ませる。
二人は無言で頷き合うと、まずラファエルが商人たちの輪へと歩み寄っていく。
「すまない、少し話を聞かせてもらっていいかな」
「やれやれ、落ち込んでもいられないな……」
エルセインの口元に、自嘲気味な笑みが浮かぶ。
失われた聖剣への感傷は、新たな脅威の出現によって戦いへの決意へと塗り替えられた。
――邂逅の時は、近い。
◆◆◆◆
――その頃、レナック王国の角笛亭は、いつものように夜の賑わいを見せていた。
一階の酒場からは、獣人たちの陽気な笑い声やジョッキのぶつかる音が、床板を通して微かに響いてくる。
そんな喧騒が届かない奥の廊下を、メリアが盆に乗せた夜食を運びながら静かに歩いていた。
「スフィアさん、お夜食持ってきたんですけど……」
軽く扉をノックしてから、メリアはスフィアとブルが共同で使っている部屋へと入る。
そこで彼女が目にしたのは実に奇妙で、そして微笑ましい光景だった。
部屋の中央では天井に届きそうなほど背の高いブルが、商業連合で手に入れた最新式の釣り竿を室内で振っている。
そのしなやかな竿の先から伸びる魔力の釣り糸。
その先端には、こんがりと焼かれた小さな肉団子が食欲をそそる香りを漂わせながら結び付けられていた。
そして――。
床ではスフィアが、その肉団子に向かって何度も何度も高くジャンプを繰り返していた。
「よっ、はっ、と……」
しなやかな体はまるで強力なバネが仕込まれているかのように躍動し、小さな肉球が床を蹴るたびに、ポン、という軽い音が小気味よく響く。
その光景はどう見ても、飼い主が猫じゃらしで愛猫と遊んでいるそれにしか見えない。
メリアは盆をテーブルに置きながら呆れたような声で尋ねた。
「……何してるんですか?」
「おう、メリア。見て分かるだろ? 跳躍力の鍛錬だよ」
スフィアは着地の勢いを殺しながら、息を切らしながらも至って真面目な顔で答える。
なるほど、全然わからん。
「あ、鍛錬だったんですねこれ」
正直、見て分かる者の方が少数派ではないだろうか。
「何度もジャンプして足腰を鍛えてるんだ」
「モチベーション維持に肉団子を取り付けてね」
ブルもまた、竿を巧みに操りながら真顔で補足する。
二人の表情と態度から察するに、これはおふざけではなく真面目なトレーニングらしい。
正直、どう見ても遊んでいるようにしか見えないが。
「へー……」
「俺は動きの速さが命だから、定期的にやらないとな」
スフィアはそう言うと、再び肉団子めがけて高く跳び上がった。
その集中した眼差し、無駄のない身体の使い方、そして空中での完璧な姿勢制御。
確かにそれは遊びではなく、極めて高度な身体訓練なのかもしれない。
いや、でも、やっぱり遊んでいるようにしか見えない。
「……しばらく見てていいですか?」
「良いけど、見てて面白いもんじゃねーぞ?」
「いえ、相当面白いですよ」
「そうか……?」
スフィアは自分の行動が人間からどう見られるかわかっていないらしい。
しばらくその光景を楽し気に眺めていたメリアは、ふと部屋の隅に目をやった。
そして、あるべきものが、あるべきでない場所にあることに気づく。
「そういえばスフィアさん、剣は?」
「あー、うん。実はブルが野菜で漬物作りたいけど漬物石無いってんで」
スフィアが顎で示した部屋の隅には、大きな漬物樽が置かれていた。
木の蓋の上には水が漏れないように麻布が敷かれ、そしてその重石として――あの純白の剣が、鎮座している。
「明日漬物石調達するまで漬物石代わりにしてる」
「何してるんですか」
メリアの声が一オクターブ高くなった。
「僕の手斧や金属棒じゃあ、ちょっと合わなくてさあ」
「お父さんから大事にしろって言われてたじゃないですか……」
商業連合で、あのロゼが、あれほど真剣な顔で「大事にした方がいい」と言っていた、あの剣を。
漬物石にしている。
「一日だけだから!」
スフィアは悪びれる様子もなく、鍛錬を再開しながら言い放った。
聖剣アスティオンはその日、ブルが作る自家製の漬物を美味しくするための漬物石として、その純白の光を部屋の隅でもの悲しく輝かせていた――。
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余談。聖剣を拾った当時のタマちゃん。
タマ「なんだこの部屋」
タマ「なんだこれ(祭壇を見ながら)」
タマ「うおー! この剣ボロいけどカッケー!」
タマ「持って帰ろっと!」
にゃーん! てちてちてち……。
お判りいただけただろうか。




