超大物
釣りを続けて、しばらく時間が過ぎた頃だった。
穏やかな時間が流れる船上で、それまで静かだったスフィアの竿が前触れもなく限界までしなった。
「おっとぉ!? 俺にも来たぜ、強い当たり!」
スフィアは体勢を崩されそうになりながらも、喜びの声を上げる。
その手応えは、先ほどまでの小魚とは比較にならないほど重く、力強い。
「おお、頑張ってね兄さん」
ブルがのんびりとした声援を送る。
だが、その当たりは次第に尋常ではない様相を呈してきた。
竿は今にも折れんばかりに軋み、魔力でできた釣り糸は猛烈な勢いで海中へと引きずり込まれていく。
スフィアの小さな身体では到底支えきれず、足がずるずると船の縁へと引き寄せられていった。
「なんだ? ちょっと様子がおかしいようだが」
「釣り針が船体に引っかかったか?」
ピエールが眉をひそめ、ゼノが冷静に分析しようとするが、アレッタがそれを否定した。
「や、でも釣り糸は船から離れてるから……」
「海ですから地面に引っかかってるってこともないでしょうしね」
メリアの言う通り、ここは障害物など何もない大海原の真っただ中だ。
考えられる可能性は一つ。
――海中に、とてつもない大物がいる。
「ふんぎぎぎぎ……」
スフィアは歯を食いしばり、全身の筋肉を総動員して竿を支える。
しかし相手の力は圧倒的で、彼の身体はついに船の縁に乗り上げてしまった。
「ちょっとまずいですよあれ!」
「魔術師さんお願いします!」
アレッタが悲鳴に近い声を上げ、メリアの鋭い声が飛ぶ。
「はい!『水上歩行』!」
控えていた中年の魔術師が即座に反応し、杖を掲げるとスフィアの身体が淡い光に包まれる。
「これで海に落ちても溺れません! どうしても踏ん張りが利かなければ無理せず海へ! 竿を手放しても良いですが……」
「冗談! こんな当たり逃がせるかよ!」
魔術師の言葉にスフィアは叫んだ。
その金色の瞳には、恐怖ではなく、好敵手と出会えたかのような獰猛な光が宿っている。
食い意地が、恐怖心を完全に凌駕していた。
「手伝うよ兄さん!」
「総員! 我が友スフィア君の手助けをせよ!」
ブルの力強い声と、ピエールの号令が重なる。
その場にいた全員――メリア、ブル、ピエール、アレッタ、ゼノ、そして完璧な統率力を持つメイドと執事たちまでもが、一斉にスフィアの元へと駆け寄った。
ある者は竿を掴み、ある者はスフィアの身体を支え、またある者は前の者の腰を掴んで、人間列車のように一丸となって竿を引く。
魔術師は冷静に状況を判断し、その全員に次々と水上歩行の魔法をかけていく。
そして、次の瞬間。
「うおおおおおおっ!?」
海中の怪物の最後の一引きが、彼ら全員を容赦なく海へと引きずり込んだ。
ザッパァァァァン!という派手な水音と共に、全員が海に落ちる。
しかし、魔法の効果で彼らの足は沈むことなく水面を確と捉えていた。
そこから始まったのは水上での壮絶な綱引きだ。
「きっ……つい!」
先頭で竿を握るスフィアと、その後ろで彼を支えるメリアとブルの顔が苦痛に歪む。
海中に潜む怪物の力は凄まじく、水上という不安定な足場ではどれだけ踏ん張ってもじりじりと沖へと引きずられていく。
波しぶきが顔にかかり、視界が霞む。
それでも誰も手を離さなかった。
ピエールの鼓舞する声、メイドたちの力強い掛け声、執事たちの正確無比な連携。
全員の力が一つになったその時、ほんの一瞬だけ相手の引く力が弱まった。
スフィアはその好機を逃さなかった。
「いっけぇぇぇぇぇ!!」
渾身の力を込めて竿を天に突き上げる。
それに呼応するように、全員が最後の力を振り絞った。
海面がゴボゴボと不気味に泡立ち、大きく盛り上がる。
そして水面を突き破り、天を衝くほどの巨大な影が姿を現した。
――それは、もはや魚という範疇を遥かに超えた、伝説の生き物のようだ。
全長はピエール号の数倍以上はあろうかという長大な体躯。
全身を覆う鱗は、深海のサファイアのように深く、そして美しく輝いている。
巨大な顎が開かれ、そこには船のマストすら噛み砕かんばかりの鋭い牙が、幾重にも並んでいた。
天を睨むその瞳は、血のように赤く燃えている。
「あれは――海竜リヴァイアサン!? 海の覇者とも言われる海の中位竜です!」
メリアの悲鳴にも似た解説が、呆然とする一行の耳に届いた。
――海竜リヴァイアサン。
その名の通り、海における生態系の頂点に君臨する、獰猛極まりない肉食の竜。
その全身は貴重な魔法素材の塊でありながら、その強大な戦闘力の前にこれまで幾多の船団が海の藻屑と消えてきたという。
「この時期でもまず見かけない竜が、こんなところに……!」
――絶望的な状況。
誰もが言葉を失う中、ただ一人スフィアだけが冷静だった。
「メリアッ!」
彼は揺れる海の上で完璧なバランスを保ちながら、メリアに端的に尋ねた。
「あれ美味いのかッ!?」
「それ今聞くこと!?」
アレッタのツッコミが、虚しく海原に響く。
「超美味しいです! 魚の大トロと獣の霜降りの良いとこ取りでとろけるようだとか!」
「それ答えるとこッ!?」
答えるところなのである。
何故なら――。
「……そうか、美味いのか。それさえ聞けりゃあこっちのもんだ……!」
スフィアの口元が、獰猛な肉食獣のそれへと変わった。
金色の瞳が獲物を定める光を放ち、口の端からはキラリと光るよだれが垂れている。
彼の中でリヴァイアサンはもはや脅威ではなく、最高級の食材へと完全に変換されたのだ。
船から垂らされた縄梯子を使い、一行は素早く船上へと舞い戻る。
そしてスフィアはピエールに問いただした。
「ピエール! この船、大砲とか攻撃手段なんかねえのか!?」
そうだ、馬車が変形して船になるという不思議変形機構のある乗り物だ。
何かしらの武器があってもおかしくはない。
だが――。
「スフィア君何を言っているんだ。これは元馬車だぞ? 兵器なんて積んでいるわけないだろう」
「お前に言われたくねえなあ……!」
スフィアは頭が痛いかのように眉間を抑える。
確かに馬車に変形機構を積んでいる人間に言われたくないだろうな、とメリアは思った。
どうやら特殊な兵器はなく、真っ向から戦わなければならないようだ。
誰もが武器を手に取り臨戦態勢に入る中、ブルは背負っていた巨大な手斧と金属棍棒を手に取り、静かに言った。
「僕が先行するよ。注意を引いておく」
「ああ。頼む」
スフィアの信頼に満ちた返事を聞くとブルは力強く頷き、叫んだ。
「ブルズウルグス、出ます!」
彼が船から飛び降りたその瞬間、腕に巻かれた黒い腕輪が閃光を放つ。
光の中から現れた漆黒のパーツが、彼の巨体を瞬く間に包み込んでいく。
カシャン! ガキン! と小気味よい金属音を立てて組み合わさり、着水と同時に禍々しくも荘厳な漆黒の重鎧が装着を完了する。
水面に降り立ったブルは、もはやただのミノタウロスではなかった。
――牛頭を持つ、魔王軍の将軍。
あるいは、地獄の底から蘇った破壊の化身。
「ブモォォォォオオオッッ!!!」
彼は雄々しい雄叫びを上げ、その声は海竜の咆哮に勝るとも劣らない迫力で大海原に響き渡った。
「うおおおお! あの登場かっけえな! 装備換装やっぱいいな!」
珍しく食べ物以外のことでスフィアが興奮の声を上げる。
「メリア! 俺もああいう防具欲しい!」
「ええ……装備換装の魔法付与できる鎧結構お高いんですけど……」
「頼むよー! 買って買って!」
戦闘直前の緊張感の中、スフィアは子供のようにおねだりを始めた。
その無邪気な姿に、メリアの覚悟とお財布の紐は脆くも崩れ去る。
「しょ、しょうがないですねえ……これ終わってリヴァイアサン素材が手に入ったらそれ売って、ちょっと見繕いましょうか」
「やったー! きっとだぞ!」
約束を取り付けたスフィアは、満面の笑みで純白の剣を抜き放つと軽やかに船から飛び出していった。
その直後。
「僕も行くぞ!」
いつの間にか、こちらも豪華絢爛な鎧を身に纏ったピエールが勇ましく叫びながら船を飛び出した。
「えっ」
「えっ」
「えっ」
メリア、アレッタ、ゼノの呆れた声が重なる。
「とうっ!」
ピエールが水面に着地しようとした、まさにその瞬間。
海面から猛烈な勢いで飛び出してきた何かが、彼の鎧のどてっ腹にクリーンヒットした。
「ぐああああああああっ!?」
ピエールの身体はまるでボールのように吹っ飛び、水面をゴロゴロと派手に転がっていく。
「ピエール様あああああああっ!?」
「あ、弾丸魚ですねアレ」
大海原にアレッタとゼノの悲鳴が響き渡り、メリアはひとり冷静に解説する。
――弾丸魚。
その名の通り、弾丸のような速度で突進し、固い頭部で獲物を仕留める習性を持つ低位の肉食魔魚である。
大型の魔魚の周りに現れ、不意打ちで戦いを混乱させる厄介な存在だ。
なお、塩焼きにするとそれなりに美味い。
例えるなら秋刀魚に近いといったところだ。
「かっ……紙一重の、勝利だっ……た……!」
水上で仰向けに倒れながらも、ピエールはいつもの台詞を口にする。
「どう見ても負けてますが」
「ピエール様を回収――!」
ゼノの号令一下、メイドと執事たちが手際よく縄梯子で海面に降り、主君を担いで船上へと運び込んでいく。
ピエール様、あんた何しに出ていったの。
「ああいう魔魚もちらほら出てきますし、足元も水だから下から来るし絶対安全じゃありません。大人しく引っ込んでおいた方が良いですよ」
「よく言い聞かせますね……」
アレッタが疲れ切った声で答える。
こうして、前座の戦いはピエールの勝利で滞りなく終了し、いよいよ海竜リヴァイアサンとの本格的な戦いの火蓋が切って落とされたのであった――。
紙一重の勝利。




