海へ! 海へ!
――商業連合という独特な海上都市の起こりは、今から百年ほど前に遡る。
この近海では年に二度、春と秋の特定時期に潮流と海底から立ち上る魔力の流れが複雑に絡み合う現象が起こる。
その結果、様々な種類の魚が一斉にこの海域に集まってくることが発見されたのだ。
まるで見えない魔法陣が海中に描かれているかのように、魚たちは規則正しくこの一帯に現れる。
最初は近隣の漁村から漁船が集まり始めた。
豊富な漁獲を求める漁師たちが、この恵まれた漁場を目指して船を出すようになる。
やがて漁期の間だけでなく漁船同士が停泊し続けるようになり、船上での物々交換や商取引が始まった。
魚以外の商品を扱う商人たちは、この商機を見逃さなかった。
漁師相手に道具や食料、日用品を売る商船が集まり、次第に海上に浮かぶ仮設の市場のような様相を呈していく。
船と船を板で繋ぎ、より大きな商業スペースを確保する工夫も生まれた。
こうして自然発生的に形成されたのが、現在の商業連合の原型である。
そして豊漁祭は、この年に二度訪れる大漁の時期に合わせて開催される祭りとして定着することとなる。
当初は漁船同士が漁場を占有し、漁獲量による利益の独占を巡って争いも絶えなかった。
しかし海上都市が発展し、魚以外の様々な商取引が活発になるにつれて商人たちの間でひとつの発想が生まれる。
『――魚を撒き餌にして人を呼び込み、他の商品を売った方が遥かに儲かるのではないか』
この商魂逞しい発想転換により、豊漁祭は大きく変貌を遂げた。
現在では複数の漁船団が協力して大規模な漁を行い、訪れた人々に無料で釣りを楽しんでもらう盛大な祭りとして知られている。
魚釣りは客寄せの手段となり、本当の利益は祭りに集まる大勢の人々への商品販売から生まれるのだ。
そして目敏い商人は自分も恩恵に与ろうと参入し、豊漁祭で商業連合の品揃えを見た顧客たちはリピーターとなって再びここへ訪れる好循環が生まれる。
この独創的な商業スタイルこそが、商業連合を海上交易の一大拠点へと押し上げた原動力となっている――。
◆◆◆◆
青い海原を船体が滑るように進んでいく。
二本マストの客船は全長二十メートルほどの中型船で、船首には波を切り裂く美しい女神の彫刻が施されている。
甲板は磨き上げられた木材で作られており、陽光を受けて温かな茶色に輝いていた。
船べりは海面に近く、手を伸ばせば海水に触れられそうだ。
潮風は頬を撫でて通り過ぎ、船は規則正しく上下に揺れながら航行している。
甲板の手すりに身を寄せて、スフィアとブルは初めて見る大海原に目を見張っていた。
「すっげーなあ。一面水だぜ」
スフィアが小さな手で手すりを握りしめながら呟く。
その金色の瞳は驚きに満ち、三角の耳がぴょこぴょこと動いている。
「うん、湖に船でこぎ出した時みたい……いや陸地が霞んで見えるからもっと凄いね」
ブルも大きな身体を手すりに預けながら、感嘆の声を上げる。
彼の大きな瞳は水平線の彼方まで続く青い海に釘付けだ。
故郷のちょっと大きい程度の湖とは比べ物にならない壮大なスケールに、心底圧倒されている。
波が船腹を叩く音、帆が風を受けてはためく音、そして遠くでカモメが鳴く声。
どれも彼らには馴染みが無いもの。
普段見慣れた陸地の風景とは全く異なる光景に、二人は子供のような興奮を隠せずにいるようだ。
「こんだけ水があったら飲み水に困らねえなあ」
スフィアが素朴な感想を口にする。
しかし、その感想を正すようにメリアが口を開いた。
「ところがそうもいかないんですよ。海の水飲んでみました?」
メリアは商業連合出身であり、船旅や海には馴染みがある故にそう言った。
その言葉に、スフィアとブルは顔を見合わせて同時に首を傾げる。
「……? 何か問題でもあるのかな」
不思議そうな表情を浮かべたブルが、慎重に船の手すりから身を乗り出し、大きな手を海面に向けて伸ばす。
スフィアたちが乗った船の船べりは海面との距離が近く、ブルなら楽に海水に手が届くのだ。
すくい上げた透明な海水が彼の手のひらに溜まり、陽光を受けてきらめいている。
「ちょっと味見してみようか」
スフィアも興味深そうに身を乗り出し、ブルの手からほんの少しだけ海水を受け取る。
二人は同時にその水を舌先で舐めてみると――。
「しょっぱ!!」
二人の声が重なり、思わず顔をしかめる。
スフィアは慌てて口の中の海水を吐き出し、ブルも大きな手で口元を拭う。
その塩辛さは想像をはるかに超え、とても飲み水として使えるものではない。
「海の水は塩辛いんですよ。蒸発させて塩を取り出せば飲み水になりますけどね」
「でもこんな場所で火起こしなんてできないでしょ?」
ブルが疑問を投げかけながら、まだ口の中に残る塩味に困った表情を浮かべる。
木造船の上で火を起こすのは危険すぎるし、そもそも燃やすものも限られるだろう。
海に詳しくない二人に対し、メリアは海についての知識を教えていく。
「そこで船には魔術師が一緒に乗船する習慣があるんですよ。火を起こして飲み水確保したり、水を操って溺れた人を救助したり、風で船の動きを補佐したり、音を飛ばしてSOS飛ばしたり、あと水上歩行の魔法を使ったりですね」
メリアが甲板の向こうに視線を向けると、そこには青いローブを纏った中年の魔術師が立っていた。
彼は三人の会話を聞いていたようで、気づかれると小さく会釈を返してくる。
その手には魔法の杖が握られ、いかにも経験豊富そうな風貌である。
「緊急時に魔術師の存在は重要ですからね。海に慣れた魔術師のいない船は基本的に出航できません」
どうやら陸と海では魔術師の存在価値が違うようだ。
海上の商業連合出身かつ元商家のメリアは流石にこういう事情に詳しかった。
「へー、陸とは随分違うなあ」
スフィアが感心したように呟く。
陸上では魔術師の存在は便利だが必須ではない。
しかし海上では生存に直結する重要な存在になるのだろう。
「陸は魔術師居なくてもなんとかなるもんね」
ブルもスフィアと同様に頷いて感心する。
二人は魔法を使えないが、辺境の村でも現在拠点の街でも特に不便を感じたことはないからだ。
「そんなわけで向こうの大陸の魔法国メギストスとは関係が深かったりするんですよ」
メリアが船の進行方向を指差しながら説明する。
その指の先には水平線があり、まだ見えない大陸の存在を想像させる。
街にいる間も何度か漏れ聞いた魔法国メギストス。
魔法技術がこちらの大陸より進んだ先進国だそうだが、一体どういう場所なのだろうか。
「へえー」
スフィアが素直に感心の声を上げ、ふとした疑問を口にした。
「ところでなんで海の水ってのはこんなしょっぱいんだ?」
「うーん、まだ解明されてないんで諸説あるんですが……」
スフィアの素朴な疑問にメリアが困ったように答える。
海の水は昔からしょっぱいもの、という常識で止まっており解明しようという者はいない。
解明されなくとも別に困ることはなく、解明して何の意味があるのかという意見が一般的であり、解明するとしても途方もない資金と時間が必要であるため誰もやらないのだ。
いつか遠い未来で暇な金持ち研究者が解明するのだが、それは後の時代の話となる。
「一応、定説では世界創世の女神さまが流した涙である、とされていますね」
まあ教会が言い出しているだけで信憑性はあまりないのだが。
聖典にそう載っているからそうなんだろう、というだけである。
「涙かー。なんかばっちくない?」
「女神さまの涙をばっちいって言わないでくださいよ! 罰当たりですよ!」
「ばっちいだけに罰当たりってか?」
メリアとスフィアがそんな会話を交わしていると、船内に響く魔法で増幅された声が聞こえてくる。
『もうじき商業連合に到着いたします。乗客の皆様は下船準備をお願いいたします』
船長らしき男性の声が、船全体に響き渡る。
その声は魔術によって増幅されており、甲板の隅々まで明瞭に届く。
「見えてきましたね。あれが商業連合です」
メリアが興奮を抑えきれない様子で船首の方向を指差す。
その表情には故郷への愛着と誇らしさが混じり、久しぶりの帰郷に心が躍っているようだ。
「おおー!」
スフィアが目を輝かせながら声を上げる。
水平線の彼方に、薄らと巨大な影がぼんやりと浮かんでいる。
それは陸地ではなく、無数の船が集まって形成された人工の都市だ。
大小様々な船舶が複雑に組み合わさり、まるで海上に浮かぶ巨大な迷宮のような姿を成している。
商業連合という名前に相応しく、活気に満ちた港湾都市の雰囲気が海の向こうから漂ってくるようだ。
船は着実にその巨大な海上都市へと近づいていく――。
商業連合の歴史は、こういう祭りがある海上都市ならこうなんだろうな、と割と勢いで書いています。




