ワイバーンとの遭遇(ラストに挿絵あり)
――お金が、欲しかった。
切実な、心からの叫びだ。
メリアの実家はかつてそれなりに名の通った商家だった。
日々の糧に困ることはなく、将来への不安など微塵も感じさせない穏やかな暮らしがあったはずだ。
だが、商いの世界とは時に非情なもの。
ある日、たった一度の事業の失敗で実家は一夜にして多額の借金を抱えることになった。
とはいえ不幸中の幸いと言うべきか、メリアの親はただでは転ばないやり手の商人だった。
破産寸前で踏みとどまり、債権者たちを説き伏せ、再建計画を練り上げたのだ。
その結果、多額の借金とはいっても常識はずれな天文学的数字ではなく、二十年か三十年、普通に細々と地道に働いていれば返しきれる現実的な額へと落ち着いた。
しかし、まだ若いメリアはともかく両親にとっての二十年、三十年という歳月はあまりにも重いだろう。
死ぬまで働き続け、借金を返し終わった瞬間に墓に入るような人生など娘として到底許容できるものではない。
メリアは両親が止めるのも聞かず一念発起して家出同然に故郷を飛び出し、二年ほど前に冒険者となった。
理由は単純明快。
上位の冒険者は儲かるからだ。
一攫千金。
遺跡の秘宝や高ランク魔獣の素材を上手く当てれば、数十年かかる借金返済を一瞬で終わらせられる。
そんな夢を見た。
だが現実は甘くはない。
いや、厳しすぎた。
メリアにはモンスターをなぎ倒す剣の才能も、天変地異を引き起こす魔法の才能も無かった。
あるのは商人譲りの計算高さと少しばかりの口の上手さ、そして小器用さだけ。
冒険者ギルドのランクは底辺を這いずり回り、依頼報酬はスズメの涙。
早々に行き詰ることになる。
そして今日。
一攫千金を諦め、せめて日銭を稼ごうと山奥へ薬草を採りに来てみれば――。
「ガァァァアアア!!」
大気を震わす咆哮が静寂な山道を切り裂いた。
運悪く、はぐれワイバーンに出会ってしまったのだ。
見上げれば、そこには絶望が具現化したような姿がある。
体長三メートルはあろうかという翼竜が風を起こしながら降り立ち、鋭い牙をむき出しにしてメリアを見下ろしている。
爬虫類特有の縦に割れた瞳孔が、メリアという獲物を完全にロックオンしていた。
鼻孔から噴き出す荒い息が生臭い風となってメリアの頬を撫でる。
母譲りの美しい銀髪が緊張と恐怖の冷や汗で額にべたりと張り付く。
足が震え、腰から下の感覚がない。
手元にあるのは錆びかけた薬草採取用のナイフ一本。
これでどう戦えというんだ。
鱗一枚剥がせるかすら怪しい。
無理だ。
無理すぎる。
走馬灯のように両親の顔が浮かぶ。
私の冒険はこんな名もない山奥で、誰にも知られずに終わるのか。
お父さん。
お母さん。
借金を返すどころか葬式代という新たな出費を強いる親不孝な娘を、どうか許してください。
そう覚悟を決め、ギュッと目を閉じた時だった。
「ニ"ャ"――――!!」
空気を切り裂くような鋭い鳴き声。
猫が喧嘩するような響きだが、その音圧は明らかに愛玩動物のそれではない。
やけに迫力のある咆哮とともに頭上の枝葉を揺らしてワイバーンに飛び掛かる小さな影が現れたのだ。
「え、ええええ!?」
メリアは状況が全く分からず、驚きのあまり腰を抜かしてへたり込む。
それでも生存本能が働き慌てて近くの茂みの陰に身を滑り込ませた。
心臓が早鐘を打つ中、そこから恐る恐る様子を窺う。
信じられない光景だった。
小柄な影は確かにあの巨大なワイバーンと正面から戦っている。
ワイバーンの巨体に比べれば、その影は豆粒のような大きさだ。
風が吹けば飛びそうなサイズなのに、なぜかお互い互角――いや、影の方が押しているようにさえ見える。
目を凝らすと、その正体が見えてきた。
灰色の毛並み、ピンと立った耳、しなやかな尻尾。
猫だ。
いや、二本足で立ち、武器を振るう猫の獣人。
彼が手にしているのは、自分の身の丈ほどもある純白の剣身の大剣。
人間サイズでいえば片手剣相当だろうが、彼の体格からすれば間違いなく特大の大剣だ。
それをあろうことか片手で軽々と振り回している。
「フンッ!!」
巨大な剣身がワイバーンの鋭い爪と激突するたび、ガギィンッ! と金属の甲高い音が山に響き渡り、火花が散る。
パワー負けしていない。
それどころか衝撃でよろめいているのはワイバーンの方だ。
ワイバーンが翼を大きく広げて威嚇し、突風を巻き起こす。
しかし獣人はその風すら利用するかのように臆することなく剣を頭上に構え、真正面から立ち向かっていく。
「ガァァァ!」
ワイバーンが首を鞭のように振り回し、凶悪な牙で噛み付こうとする。
岩をも噛み砕く顎が迫る。
だが、獣人の動きは風よりも速い。
軽やかに飛び跳ねて空中で軌道を変え、噛みつきを紙一重で回避すると着地と同時に回転の勢いを乗せて大剣を横薙ぎに振り抜いた。
ズバッ!
剣先がワイバーンの脇腹を浅く切り裂く。
硬質な鱗が紙のように裂け、鮮血が舞った。
その鮮やかな身のこなしに、メリアの恐怖はいつしか興奮へと変わっていた。
「が、頑張れ――――っ!! そうそう、そこ! その調子――――っ!! あっ危ない! 後ろ後ろ! 尻尾来てる! きゃ――――っ!! うわあああ、避けた! すっごい!! やった――――っ!!!」
メリアは思わず格闘場を観戦するような大声で応援してしまっていた。
茂みから半身を乗り出し、手をぶんぶん振り回し、時にはその場で飛び跳ねながら、まるで自分のことのように一喜一憂している。
数秒前まで死を覚悟していた人間の姿ではない。
後になって「我ながらなんという場違いな」と激しく自省することになるが、今は目の前の英雄劇に釘付けだった。
そして、決着の時は訪れる。
「『対獣解体術』――!」
小さな影が鋭く叫んだ瞬間、大剣を両手で握り締めて地面を蹴った。
爆発的な跳躍力。
彼は弾丸のように空高く舞い上がり、太陽を背に受けてシルエットとなる。
ワイバーンが首を持ち上げ、迎撃しようとしたその隙を彼は逃さない。
空中で剣を頭上に大きく振りかぶる。
重力と、回転と、全身のバネを乗せた必殺の一撃。
彼は一気に急降下し、身の丈ほどもある大剣――重ねて言うが人間でいえば片手剣相当の剣だが、彼にとっては大きな剣だ――の切っ先を突き立てた。
ザンッ!!
鈍い音が響く。
剣は鱗の隙間を縫ってワイバーンの首の付け根、延髄の深くに深々と突き刺さった。
「『首肉』」
「ガァ……ア……」
断末魔の呻き。
致命傷を負ったワイバーンは翼を無様にばたつかせながらよろめき、そして、ズズンと地響きを立てて巨大な身体がゆっくりと地に伏した。
瞳から光が消え、完全に動かなくなる。
静寂が戻った山道に、ただ一人の歓声が響く。
「わあああああ! やったああああああ!! 勝った――――っ!!!」
メリアは両手を高々と上げて大声で大喝采。
あまりの興奮ぶりに茂みから完全に身を乗り出し、小躍りして喜んでいる。
土煙が晴れた戦場に立っていたのは、一匹の獣人。
灰色の短い毛並みに刻まれた、美しい銀色の縞模様。
太陽の光を受けて、その毛並みは宝石のようにくっきりと浮かび上がっている。
背丈はメリアの腰ほどしかない小柄な体躯。
ぬいぐるみのような愛らしさすら感じるフォルムだが、彼が背負っていた剣は今もワイバーンの血を滴らせ、只者ではないオーラを放っていた。
彼が剣についた血を振って納刀する。
その仕草は歴戦の戦士そのもの。
「あ、あの……」
メリアの声に気づいた猫獣人がピクリと耳を動かしてこちらを振り向く。
鋭い金色の瞳。
そこには猛獣の如き光が宿っている。
口元は引き締まり、ぶっきらぼうな表情でこちらを睨むように見ている。
命の恩人だ。
感謝を伝えなければ。
しかし、彼は鋭い視線でメリアをじっと見つめる。
メリアが思わず身構えた、その時。
彼の口から発せられた第一声は予想の斜め上を行くものだった。
「おい人間。そこのワイバーン肉、いらないなら俺がもらうぞ」
なんともストレートな物言いだった。
敵意も警戒もなく、ただ純粋な食欲がそこにあった。
「あ、はい。どうぞ……」
メリアが戸惑いながらも了承すると、猫獣人は「そうか」と短く返事をして、表情を緩めた。
彼は腰に下げた小さなナイフを取り出し、慣れた手つきでワイバーンの死骸に近づく。
その視線はもはや戦士のものではなく、市場で極上の食材を見つけた料理人のそれに近い。
どこから手をつけようか、どの部位が一番脂が乗っているか、品定めするように真剣に眺めている。
「えーっと……」
助けてもらったお礼を言うべきか、それとも彼の狩りの邪魔をしてはいけないのか。
メリアは何か話しかけるべきかと迷っていたが、彼が肉を見つめながら「血抜きが……」と呟いたのを聞き、ふと思い出したように手を叩いた。
「あ、そうそう! さっきあっちの方に川があったんです。確か、あの木立の向こうに……」
薬草を探して歩き回った時に見つけた、冷たい水の流れる清流。
そういえばあっちにあったなと思い出してのことだ。
その言葉を聞いた瞬間。
猫獣人の金色の瞳が、カッと見開かれ、ぱっと輝いた。
頭上の三角の耳がぴょこんと立ち上がる。
尻尾が嬉しそうに左右に揺れる。
「マジか! じゃあそっちで作業すれば血を洗い流せるな! 肉も冷やせるし、内臓の処理も楽になる!」
明らかに嬉しそうな表情を浮かべながら、彼はワイバーンの死骸を見つめた。
どうやら肉の鮮度や処理にかなりのこだわりがあるらしい。
その様子はやはり戦士ではなく、上質な食材を前にした狩人か料理人そのものだ。
「俺はスフィア。冒険者だ」
純白の愛剣を背中に背負い直しながら彼は簡潔に名乗る。
挨拶もそこそこに、意識は既に肉へと向いているようだ。
「私はメリア。同じく冒険者です。助けてくれてありがとうございました」
メリアも慌てて姿勢を正し、自己紹介とお礼を返す。
「気にすんな。それじゃあ、川まで案内してもらえるか?」
言うや否や、スフィアはワイバーンの前足を両手でガシッと掴むと「ふんぬっ」と掛け声を上げて引っ張った。
ズルズルズル……。
巨大な死骸が動く。
体長三メートルはある巨体を、メリアの腰ほどの背丈しかない小柄な体躯で意外なほどあっさりと引きずり始めたのだ。
その力強さと見た目のアンバランスさにメリアは改めて驚かされる。
蟻が自分より大きな獲物を運ぶ姿に似ているが、これは規格外すぎるだろう。
「こ、こっちです」
メリアは慌てて先頭に立ち、木立の間を縫って川へと向かう。
後ろからは、ズルズルという重い音と、時折聞こえる「美味そうだな……」「肩ロース……いや、鮮度がいいからもっと別の……」というスフィアの呟きが聞こえてくる。
彼は特に苦しそうな様子も見せず、巨体を引きずりながら黙々とついてくる。
時折、地面に引っかかった死骸を器用に持ち上げて、岩や倒木などの障害物を越えていく様はシュールですらあった。
こうして。
一攫千金を夢見て薬草採りに失敗した、ちょっと頭と口が回るだけの平凡な見習い冒険者メリアと。
ただひたすらに美味しい肉を求めて旅をする、小さな猫獣人スフィア。
凸凹な二人の、奇妙な出会いが始まった。
二人はまだ知らない。
この何気ない、食欲に導かれた出会いが壮大な冒険へと繋がっていくことを――。




