王城パート①
王城パートはひとまず、おおよその流れだけ把握する感じで大丈夫です。
ここはレナック王国。
大陸の内陸寄りに位置する、山と平原に抱かれた中堅国家である。
港は王都にひとつだけで海路輸送力に乏しく、通商は主に陸路で行われる国だ。
この国のどこかにいるという、光の精霊竜『聖竜ルミナス』。
その恩寵たる穏やかな気候と肥沃な大地に恵まれたこの国には、遥か昔から語り継がれる一つの伝承が存在する。
勇者と邪神竜の戦いの物語だ。
時は遡ること三百年。
『聖竜ルミナス』の対にして双子竜たる闇の精霊竜『邪神竜ヴァルノス』は世界を我がものにせんと欲した。
この脅威に対し選ばれし『伝説の勇者アルトリウス』は『聖竜ルミナス』より勇者の紋章と聖剣を授かり、激闘の末にこれを封印したという英雄譚。
これは単なる作り話ではなく、実際にこの地で繰り広げられた歴史の真実とされる。
現に王家の宝物庫にはアルトリウスが使用したとされる武具のいくつかが、国宝として厳重に保管されているのだから。
しかし、三百年という歳月は人々の記憶を風化させるには十分すぎる時間と言える。
今の国民にとって、その伝承はあくまで「おとぎ話」の域を出ない。
親が子供を寝かしつける際に語る寝物語や、吟遊詩人が酒場で奏でる古い歌の中で語られる程度。
広く親しまれてはいるものの、それがかつて現実にあった脅威であると肌で感じている者は皆無に等しい。
平和とは、過去の痛みを忘却の彼方へと追いやるもの。
人々の記憶は薄らぎ、いつかは完全に風化されてゆくのだろう――。
誰もがそう思い、疑いもしなかった。
だが、運命の歯車は音もなく、しかし確実に軋みを上げ始めていたのだ。
レナック王国の心臓部たる王城。
その最奥に位置する玉座の間はかつてないほど深刻な、張り詰めた空気に支配されていた。
高い天井に響くのは、呼吸音すら躊躇われるほどの重々しい沈黙のみ。
普段であれば豪奢なシャンデリアの下、絢爛豪華な装飾が施された広間は国の行く末を論じる廷臣たちの囁き声や、華やかな衣装の擦れる音で活気に満ちているはずだ。
しかし、今日ばかりは違う。
そこにいる全ての者が口を閉ざし、視線を床に落としている。
玉座に座する国王の顔には深い憂いの影が刻まれていた。
眉間には深い皺が寄り、組まれた手には白くなるほど力が込められている。
彼はゆっくりと顔を上げ、広間の中心に立つ人物へと視線を向けた。
「……宮廷魔術師長エルセイン、もう一度確認する。宝物庫にある予知の秘宝が示した未来に偽りはないのか」
国王の重く、しわがれた声が静寂を破って響く。
問われた人物は宮廷魔術師長エルセイン。
彼はその場に跪くことなく、ただ静かに佇んでいた。
雪のように白く、絹糸のように滑らかな長髪。
年齢不詳の整った顔立ちに理知的な瞳。
どこか人間離れした神秘的な雰囲気を漂わせる彼は王の問いに対し、感情の読めない表情で静かに首を振る。
「残念だが予知の秘宝に偽りはない。近いうちに邪神竜ヴァルノスが完全復活を遂げる。正確な時期は……秘宝でも判然としないがね」
その言葉が落ちた瞬間、廷臣たちの間にさざ波のような動揺が走った。
息を呑む音、小さな悲鳴、衣擦れの音。
彼が発した名は、この国ならば誰もが知っている名前だったからだ。
邪神竜ヴァルノス。
三百年前に大陸全土を恐怖と絶望の底に叩き落とした、悪意の化身たる黒き竜。
当時の英雄アルトリウスとその仲間たちが血の滲むような犠牲を払って封印した、災厄の象徴。
それが復活する。
おとぎ話の中だけの存在だと思っていた絶望が、現実となって牙を剥こうとしているのだ。
「三百年もの間、我々は邪教団『黒き翼』の活動を監視し、封印の強化に努めてきた」
重臣の一人が、悔しさと焦燥を滲ませた声で口を開く。
額には脂汗が浮かび、声は微かに震えている。
「しかし、彼らはいつの間にか封印の宝玉を盗み出して偽物と入れ替え、我々の想像を上回る執念で復活の儀式を進めていたのです。各地から集めた触媒、人知れず攫われ生贄となった無数の魂……全てが水面下で、邪神竜の復活に注がれたようです」
王国の諜報機関も無能ではなかったはずだ。
だが、三百年の怨念を抱く邪教団の狂気は常人の想像を遥かに超えていたということか。
監視の網をすり抜け、彼らは着々と世界を終わらせる準備を整えていたのだ。
国王は拳を強く握りしめた。
玉座の豪奢な肘掛けに爪が食い込む音が微かに響く。
国の、いや世界の終わりを告げる報告。
だが王として、ここで絶望に膝を屈するわけにはいかない。
「それでも希望が全て失われたわけではない。そうだな、エルセイン?」
すがるような響きを含んだ王の問いにエルセインは静かに、しかし力強く頷いた。
「預言書によれば、邪神竜が再び現れる時。聖竜ルミナスによる祝福の紋章を受けし者――勇者が、この大陸のどこかに現れているはずだよ」
「勇者、か……」
国王は深い、深い溜息をついた。
軍事力や魔法技術ではなく、古臭い伝承の中の存在に国運を託さねばならない。
何と頼りない響きだろうか。
しかし、人知を超えた邪神竜に対抗しうるのは同じく人知を超えた勇者の力のみ。
それが今の王国に残された唯一にして絶対の希望なのだ。
王の瞳に、決意の光が宿る。
「騎士団長」
「はっ」
列席していた武官の中から、白銀の甲冑に身を包んだ壮年の騎士が進み出る。
「直ちに王国全土に触れを発令せよ。内容はこうだ――『身体に特定の紋章を持つ人間は、至急王城に参内せよ。紋章の確認が取れ次第、王国が手厚く優遇し、特別な地位を与える』紋章の形状は図にして、詳細に記載するのだ」
預言書に残された勇者の紋章。
それを持つ者こそが次代の勇者である。
「御意」
騎士団長が立ち上がる。
ガチャリ、と甲冑が鳴る音が広間に響く号令のように聞こえた。
宮廷魔術師長エルセインが、その白い髪を軽く揺らしながら補足するように口を開く。
「邪神竜ヴァルノス復活の件は、まだ国民には秘匿するのかい?」
「当然だ」
国王は厳しい表情で即答する。
「復活が確定したわけではない今、民に無用な恐怖を与えてはならん。パニックは秩序を崩壊させる。触れの表向きの理由は『王国建国祭に向けた特別な人材発掘』とでもしておけ。紋章を持つ者は古い血筋の証と説明すればよい」
苦しい言い訳かもしれない。
だが、真実をもたらし民に恐慌を与えるよりはマシだ。
王は立ち上がり、マントを翻す。
「たとえ王国の全てを賭けても、勇者を見つけ出す。でなければ、この大陸に未来はない」
王の言葉は、玉座の間にいる全ての者の胸に深く突き刺さった。
もはや後戻りはできない。
滅びか、救済か。
賽は投げられたのだ。
玉座の間に、再び重い沈黙が降りる。
西の窓から差し込む夕陽が窓を透過して赤い光を落とし、廷臣たちの不安に満ちた顔を血のように染め上げていく。
それは来るべき災厄の予兆か、あるいは希望を告げる赤か。
運命の歯車は、既に誰にも止められぬ勢いで回り始めていた――。
――ただし。
この重厚で緊迫感あふれる王国上層部の動向や世界の命運を懸けた悲壮な決意は、実のところこれから始まる物語の本筋とは、あまり深い関わりがない。
ひとまず、王城でのシリアスな幕引きと共に一旦ここで筆を置くこととする。




