第八話 届かぬ旋律
倉庫の中は、音のない夜に包まれていた。
エリシアは楽器を抱え、弓を軽く握る。
肩にかかる重み、顎当ての冷たさ、指先に残る弦の跡。
音は出ない。
しかし胸の奥で、微かな振動が広がる。
低い声の人物が、倉庫の隅から影だけで現れる。
長い指先がわずかに揺れ、肩幅や背筋の傾きで空気の圧力を変える。
目は暗がりに沈み、表情を読み取れない。
けれど、存在だけで空間全体を支配する。
「届かぬ旋律を、君は知っているか」
低く響く声。
言葉ではない問いが、空気を震わせる。
音として届かなくても、何かが反応していることを、体は理解していた。
エリシアは弓を滑らせ、指先で弦に触れる。
微かな軋みが手に伝わり、楽器が“応えた”ことを知らせる。
音はない。
しかし、胸の奥で確かに“返事”が伝わる。
影が近づく。
長い指先が、空間をかすめるように動く。
肩の傾き、背筋の角度だけで、問いかけの意思が伝わる。
音はなくても、反応は確かに存在した。
「音ではないけれど、届く」
エリシアは心の中でつぶやく。
胸に伝わる微かな振動が、楽器の返事だと認識できる瞬間だった。
月明かりが倉庫に差し込み、床に影を伸ばす。
影は揺れ、弓を引くたびに反応する。
音ではない旋律。
届かなくても、確かに存在する旋律。
エリシアは小さくうなずき、弓を止めない。
止めれば、すべての反応が消えてしまう気がした。
肩の重さ、指先の感触、楽器の木肌の冷たさ。
音はなくても、旋律は胸の奥で生きている。
倉庫の静寂は、音のない旋律で満たされ、
二人と一つの楽器だけが、世界の中心に立っていた。




