第五話 鳴らない祝福
倉庫の奥は、静寂が深く沈んでいた。
埃まみれの譜面台の脚が、かすかに床を擦る音を立てる。
月明かりが窓から差し込み、楽器の木肌を淡く照らしていた。
傷や擦れ跡が、光を受けて微かに反射する。
エリシアは弓を持ったまま立っている。
肩の重み、顎当ての冷たさ、指先の感覚。
すべてが、存在として確かに手元にある。
音はない。
けれど、胸の奥で何かが、揺れていた。
「祝福……?」
低い声の人物が倉庫の隅に現れる。
前回よりも少し近く、肩幅と長い指が微かに揺れるのが見えた。
目は暗がりで光を吸い込み、感情は読めない。
だが、存在感だけが強く、空気の圧力として伝わる。
「鳴らない祝福だ」
声は静かで、確実に空気を揺らす。
弦に触れても音は出ない。
ただ、何かが反応しているのが分かる。
エリシアは楽器に触れ、指先を弦に滑らせる。
反応は微かで、音にはならない。
しかし、体の内側に振動として残る。
それは、音楽ではなく、祝福そのものの形のように感じられた。
「まだ、信じるか?」
声が、近くから響く。
振り返ると、人物の影は少し歪んでいる。
長い手足、肩の傾き、指先の小さな動き。
細部すべてが、意思を伴わず存在だけで何かを告げている。
エリシアは答えなかった。
手は弓を握ったまま。
胸の奥で小さな震えを感じるだけ。
音ではない“何か”が、確かにここにある。
「鳴らない祝福でも、意味はある」
低い声が言う。
弓を引くたびに、空気の振動が微かに伝わる。
音がなくても、祝福は存在する――それを体で感じる瞬間だった。
エリシアは弓を止めない。
止めた瞬間、すべてが消えそうな気がした。
肩の重さ、指先の感覚、楽器の木肌の感触。
音はなくても、確かに“鳴らす理由”がここにある。
月明かりの中で、二人の影がわずかに交わる。
音ではない、確かな何かが、存在として互いに届く。




