第三話 交換
倉庫の空気は、まだ冷たかった。
埃に混じった木の匂いが鼻をくすぐる。
エリシアは楽器を抱え、ゆっくりとケースから取り出した。
木肌の感触が手のひらに伝わり、乾いた表面の傷が微かに指先をくすぐる。
何十年も触れられてきた痕跡が、音のないまま存在していた。
「君は弾く」
先ほどの人物の声が、倉庫の隅から響く。
姿は暗がりに沈み、肩幅の広さと長い指だけが光を反射する。
指先がわずかに震え、弓の動きを真似ている。
初めて会う人物なのに、存在だけで場の空気を支配していた。
「僕は鳴る」
楽器の声。
音は出ない。けれど、空気の揺れとして伝わる。
エリシアは手を止めない。
触れるたびに、胸の奥で微かな振動を感じる。
「聞こえません」
エリシアは小さくつぶやいた。
それでも、弓を握る手は震えていない。
信じるものがないまま、体だけは動いた。
「それでいい」
楽器の声は、空間に静かに溶け込む。
説明も、意味もない。
ただ、「返事」を返すだけだ。
エリシアはゆっくり弓を持ち直す。
握る感触、指先の弦の硬さ、顎に伝わる冷たさ。
すべて、世界の一部として認識される。
「交換だ」
低い声の人物が言った。
動作は最小限。
それでも意思は伝わる。
彼の背丈、長い指、肩の傾きまでが、空気の密度に影響を与えていた。
「交換って……?」
言葉にした瞬間、指先の感覚が鋭くなる。
楽器の木目が、いつもより深く見え、微かに軋む。
「君は弾く。僕は鳴る」
声は再び、木と空気の間に振動として届く。
音ではない。
けれど確かに、存在を示す何かだ。
エリシアはゆっくりうなずいた。
まだ理由は分からない。
音も聞こえない。
ただ、体の動きだけが正しかった。
「なら、始めよう」
低い声の人物はそう言うと、倉庫の暗闇に溶け込む。
指先がわずかに動き、空気の密度を変える。
誰もいないはずの場所で、世界が微かに振動する。
楽器を抱えたまま、エリシアは弓を引く。
音はない。
けれど、胸の奥で小さく何かが動いた。
それが、初めての“交換”の証だった。




