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第二話 聞こえない音楽

倉庫の静寂は、まだ残っていた。

埃の匂いが鼻をくすぐる。

外の街灯の光が、窓の隙間から細く差し込み、床に細長い影を落としている。


エリシアは楽器を抱え、ゆっくりと歩いた。

肩にかかる重みは、弓を構えたままの姿勢でしか支えられない。

手首には、弦の跡がうっすらと残っている。

長年の演奏の証だが、見る者に説明する必要はない。


楽器は静かだった。

だが、存在感だけは確かにあった。

木肌の模様は深く、乾いた表面にはかすかな傷と擦れ跡がある。

そこに、長く誰かの手が触れたことがわかる。


「……まだ、聞こえないのか」


低い声が背後から響く。

振り返ると、暗がりに、人物の輪郭が浮かんだ。

背は高く、肩幅は広い。

長い手足の先に、微妙にぎこちない指先の動きが見える。

初めて会う人物だが、自然に「何かを観察している」と分かる。


「あなたは……」


「誰でもいい」

声は、まるで音のない波のように、空気だけで伝わった。

目を合わせると、彼は微かに首を傾げた。

目の色は深く、まるで暗闇に沈む湖のようだが、感情は読み取れない。

指先が、ほんの一瞬、弓に触れた瞬間を真似した。


「音がないのに……」

エリシアは小さくつぶやいた。

口から出る言葉は、体の緊張で震えている。

彼の姿勢は静かだが、存在だけで圧を放つ。


「音楽とは、そういうものだ」

そう言った瞬間、わずかに空気が揺れる。

弦を触らずとも、心が微かに反応する。

音ではない反応。

まるで、何かが返事をしているようだった。


エリシアは楽器を抱き直し、立ち止まった。

長く抱き続ける肩の痛みも、寒さも、感じなかった。

ただ、確かに“触れられた”感覚だけが残る。


「君は、音楽を信じていない」

低く響く声は、空間の隙間に滑り込む。

「でも弾く」

それだけが確かな証拠だ。


エリシアはうなずいた。

弓を握る手の力が、わずかに抜ける。

誰かに理解されなくても、音が聞こえなくても、

指はまだ動けることを知っていた。


外の街灯の光が少し揺れ、倉庫の影が伸びる。

その光と影の間に、楽器の影も揺れた。

音ではない何かが、確かに生きているように。


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