表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/43

第一話 返事

音が、なかった。


消えたのではない。

最初から、そこだけが含まれていなかった。


エリシアは舞台の中央に立っている。

照明は計算された角度で落ち、床板の継ぎ目が細く光る。

楽器を支える肩が、ほんの少し下がっていた。

体に対して、楽器はわずかに大きい。


顎当てに頬を乗せると、首が自然に傾く。

意識して直そうとしても、弾き始めると必ず戻る角度だ。

弓を取る前、左手の指を一本ずつ伸ばす。

関節は柔らかく、指先だけが硬い。

爪は短く切りそろえられ、白い部分がほとんど残っていない。


弦に触れた。


空気は確かに動いた。

弦も、確かに震えた。

それでも、音楽だけが、判断できなかった。


遅れているわけでも、狂っているわけでもない。

正しいまま、意味を持たない。


客席の端で、何かが一瞬ずれた。

視線を上げると、観客は皆、同じ姿勢で前を向いている。

背筋の角度も、拍手の準備も、揃いすぎていた。


演奏は止まらなかった。

終止の位置も、間の取り方も、体が覚えている通りだった。


拍手が起こる。

早すぎず、遅すぎず。


袖に戻る途中、

黒いジャケットの女性が通路の端に立っていた。

首から下げた名札は裏返り、靴の踵だけが少し擦り切れている。

彼女は拍手の終わりを数える癖があるらしく、

指先が無意識に、二拍遅れて動いた。


「よかったよ」


言い方は丁寧だったが、

声は喉の奥まで届いていない。

エリシアは歩幅を変えず、口角だけを上げた。

鏡に映ったその表情を、あとで思い出せる気はしなかった。


夜。

人の通らなくなった通路を抜け、倉庫の扉を押す。

蝶番が、鳴るはずの位置で鳴らなかった。


中は暗い。

使われなくなった譜面台が二つ、脚の長さを揃えられないまま置かれている。

椅子の背には一直線の傷があり、何度も磨かれた跡だけが新しい。


ここなら、誰にも聞かれない。


エリシアは楽器を構えた。

弓を引く。


やはり、音は分からない。


「……まだ弾くんだ」


声は、距離を持っていなかった。

背後でも、天井でもない。

方向という概念が、最初から当てはまらない。


エリシアは弓を止めなかった。


「聞こえてないのに」


「誰ですか」


「楽器」


答えは短い。

弓先が、わずかに下がる。


「冗談は」


「冗談なら、指が震えてない」


言われて初めて、左手に力が入りすぎていることに気づく。

エリシアは弓を下ろした。


壁際のケースの中で、木が擦れる音がした――

そう感じただけかもしれない。


留め金は一つだけ戻りが悪く、

内張りの布は中央だけが平らに潰れている。

同じ重さが、同じ場所に、長いあいだ置かれてきた跡だ。


「音、なくなったね」


「……はい」


「困る?」


すぐには答えられなかった。

困っているとも、困っていないとも言えない。


「分かりません」


「いい返事だ」


空気が変わった。

温度でも湿度でもない。

時間が、一拍だけ遅れたような感覚。


「君、弾く理由をまだ捨ててない」


「理由なんて」


「ある。だから、ここに来た」


エリシアはケースから目を離さなかった。

木肌は乾き、縁には小さな欠けがある。

直されていないのではなく、直されなかった痕だ。


「交換しよう」


「何を」


「君は弾く。僕は鳴る」


「聞こえません」


「それでいい」


弓を持ち直す。

拒むための言葉は、形になる前にほどけた。


弦に触れる。


音は、やはり分からない。


それでも、胸の奥で、何かが動いた。

揺れと呼ぶには小さく、

無視するには、正確すぎた。


「今のが、返事?」


「そう」


「音じゃないんですね」


「音になる前のものだよ」


エリシアは弓を止めなかった。

止める理由のほうが、見つからなかった。


「そのうち、返事はしなくなる」


「いつですか」


「君が、音を信じなくなった日」


倉庫は静かだった。

だが、完全ではない。


そのときの位置だけは、

あとになっても、妙に正確に思い出せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ