第二話:羅生門の鬼と、従者黒鉄の誓い -3
鬼の鋭利な爪が、風を切り裂き、黒鉄の腹部に深く突き立てられた。
鈍い音と共に、武士の装束が裂け、鮮血が滲み出す。黒鉄は苦悶の表情を浮かべ、その場に膝をついた。彼女の琥珀色の瞳から、痛みに耐える涙が滲む。
「ぐっ…!若様…!」
黒鉄の弱々しい声が、太郎の耳に届いた。その声は、彼の心を深く抉る。黒鉄の負傷を目の当たりにし、我に返った太郎は、焦りとともに鬼に再び挑む。しかし、鬼は傷を負わせた黒鉄を嘲笑うかのように、さらに猛攻を仕掛けてきた。
その時、空が急激に暗転した。それまで薄暗かった森は、一瞬で夜のような闇に包まれる。雷鳴が轟き、稲妻が空を切り裂く。太郎の力の暴走に呼応するように、天候が荒れ狂い始めたのだ。大粒の雨が降り出し、視界を遮る。地面は瞬く間に泥濘と化し、足元を滑らせる。
「黒鉄!くそっ…!お前だけは…お前だけは、傷つけさせない!」
太郎は、深手を負った黒鉄を抱きかかえ、鬼を睨みつける。彼の瞳には、怒りと、黒鉄を守りきれなかった悔しさが宿っていた。
「ははは!逃げ惑うがいい人間ども!その女も、すぐに息絶えるだろう!」
鬼は、下卑た笑みを浮かべながら、彼らを嘲笑する。その声は、雷鳴に混じって、森に不気味に響き渡る。
雷鳴と暴風が激しくなる音。森の木々は、激しい風に煽られ、大きく揺れる。枝が折れ、葉が舞い散る。泥濘んだ地面は、逃走を困難にさせる。足元は滑り、根が張り出した地面はつまずきやすい。太郎は、黒鉄を抱えたまま、必死に足を動かす。
「くそっ…!撤退だ、黒鉄!」
太郎は、黒鉄を抱え、滑りやすい地面を蹴り、森の奥へと駆け出した。雨は容赦なく彼らを打ち付け、体力を奪っていく。
嵐と雷鳴が轟く中、二人は雨風を避けるため、近くの洞窟へ駆け込んだ。
時刻は夜。洞窟の入り口は狭く、内部は薄暗い。湿った土の匂いと、微かな獣の匂いが混じり合う。二人の荒い息遣いだけが、洞窟内に響く。太郎は、深手を負った黒鉄をそっと地面に横たわらせ、その傷口を見る。
黒鉄の武士の装束は、血と泥で汚れ、痛々しい。腹部の傷口からは、どくどくと血が流れ続けており、彼女の体温が徐々に失われていくのが、太郎の手のひら越しに伝わってくる。
「大丈夫か、黒鉄!しっかりしろ!傷が深い…!」
太郎の声は、焦りと、黒鉄を案じる気持ちで震えていた。その手は、黒鉄の傷口に触れるのを躊躇うかのように、宙を彷徨う。その傷の深さに、太郎の心臓が締め付けられる。
「はぁ…はぁ…若様…申し訳…ありません…。足手まといに…なってしまい…」
黒鉄は、苦しそうに息をしながら、弱々しい声で呟いた。その顔は、血の気を失い、青白い。彼女の瞳は、かすかに揺れている。その視線は、今にも途切れそうだった。
「馬鹿を言うな!お前は俺を…!」
太郎は、黒鉄の言葉を遮る。彼女が自分を庇ってくれたことを思い出し、胸が締め付けられる。その痛みは、自分の無力さから来るものだった。このままでは、彼女の命が危ない。
洞窟の閉鎖的な空間で、太郎は自分の力を制御できない恐怖と、黒鉄を傷つけてしまった後悔に押しつぶされそうになっていた。
洞窟の壁に、外の嵐の光が影を落とす。
彼の心の中には、天界での破壊の記憶が、雷鳴と共に断片的に鮮明によみがえっていた。
眩い光、耳をつんざくような轟音、崩れ落ちる巨大な構造物、そして、その中心で膨れ上がる、自身の制御できない力の感覚――。
それらが、脈打つように彼の脳裏を駆け巡る。膝を抱え込み、沈黙する太郎の顔に、その影が深く刻まれる。その表情は、絶望と自己嫌悪に歪んでいた。
「俺のせいで…俺の力が…また…黒鉄を…!俺は…また、誰かを傷つけてしまうのか…?」
太郎の声は、絶望に満ちていた。その声は、洞窟の壁に反響し、彼の苦しみを増幅させる。
「この力は…本当に、俺のものなのか…?それとも…ただの厄災なのか…?」
太郎は心の中で問いかける。その問いは、答えの見つからない深い闇へと彼を引きずり込もうとしていた。彼の全身が、微かに震えている。
黒鉄は、そんな太郎の背中にそっと手を置いた。
その手は、冷たく、震えていたが、温かい優しさに満ちていた。弱々しいながらも、黒鉄の声は、洞窟の静寂の中に、確かな響きを持っていた。彼女の琥珀色の瞳には、太郎への深い信頼と、揺るぎない愛情が宿っている。洞窟の壁に、二人の影が寄り添う。
「若様は…一人ではありません。私が…いますから。どんな時も、若様の傍に。若様は、優しい方です。その力は、きっと、誰かを守るためにあるはずです」
黒鉄の言葉は、太郎の心に、温かい光を灯した。その言葉は、彼の絶望を、少しずつ溶かしていくようだった。黒鉄の指先から伝わる微かな体温と、そのひたむきな優しさに触れた瞬間、太郎の胸に、これまで感じたことのない熱が込み上げた。
それは、単なる仲間への感謝や、守るべき者への責任感とは異なる、もっと深く、甘やかな感情だった。彼女を失うことへの、強烈な恐怖。この温かい手を、二度と離したくないという、切実な願い。
「鈴蘭…」
太郎は、その名を呼んだ。それは、彼が彼女を「黒鉄」と呼ぶようになってから、ほとんど口にすることのなかった、彼女の本当の名前。その響きは、彼の中で、いま、新たな意味を帯びていた。
彼の瞳には、まだ迷いの色が残っていたが、黒鉄の存在が、彼に確かな希望と、そして、初めて自覚する「愛しい」という感情を与えていた。
「(微笑む)はい」
黒鉄は、微かに微笑んだ。その笑顔は、太郎の心に、静かな安堵をもたらした。彼女の温かい手が、太郎の背中を優しく撫でる。外の嵐の音も、二人の間には届かないようだった。