第十六話:竜宮への誘い、乙姫との出会い -2
その時、彼らの耳に、近くの岩場から子供たちの騒がしい声と、何かが叩きつけられるような音が聞こえてきた。好奇心に駆られた琥珀が、そちらへ目を向ける。
見ると、数人の子供たちが、一匹の大きな亀を取り囲み、棒でつついたり、石を投げつけたりして、いじめているのが見えた。
亀は甲羅を震わせ、苦しげに首を引っ込めている。
その周囲には、無邪気な悪意が微かに漂っていた。
「ねぇねぇ、太郎兄ちゃん!あそこに、亀さんが子供たちにいじめられてるよ~!かわいそう~!」
琥珀が、眉を下げて太郎の袖を引いた。その声には、亀への同情と、子供たちへの怒りが混じっていた。
「むっ、何をしている! 子供とはいえ、弱き者をいじめるなど、許されぬ! 若様、私が成敗して参ります! このような行い、武士として見過ごせません!」
黒鉄が、すぐに反応し、刀の柄に手をかけた。彼女の琥珀色の瞳には、怒りの色が浮かんでいる。
「待て、黒鉄。俺が行く」
太郎は、静かにそう言うと、子供たちの方へと歩み寄った。
彼の全身から、微かな神気が放たれ、子供たちの悪意を鎮めるかのように、穏やかな空気が周囲に広がる。
彼の足取りは、迷いなく、しかし威圧感を与えることなく、子供たちへと向かう。
「お前たち、その亀をいじめるのはやめなさい。弱い者いじめは、武士道に反する。それに、命あるものを粗末にしてはならない。この亀も、生きているんだ」
太郎の声は、穏やかだが、その中に確かな威厳が宿っていた。子供たちは、太郎の放つ神気に気圧されたかのように、棒や石を落とし、顔を見合わせる。彼らの顔に、恐怖の色が浮かんだ。
「うわぁ……ごめんなさい……」
子供たちは、しゅんとして、逃げるように去っていった。
太郎は、いじめられていた亀にそっと近づき、その甲羅を優しく撫でた。亀は、怯えたように首を引っ込めていたが、太郎の温かい手に触れると、ゆっくりと首を伸ばし、太郎の掌にそっと頬を擦り寄せた。
その瞳は、まるで感謝を伝えるかのように、潤んでいた。
「大丈夫か? もう、誰もいじめないからな。安心していい」
太郎は、亀に優しく語りかけた。その声は、広がる海のように穏やかだった。亀は、さらに太郎の手に擦り寄るように、甲羅を微かに震わせた。
その時、いじめられていた亀の体が、微かに光を放ち始めた。その光は、単なる光ではなく、まるで海の底から湧き上がる生命の輝きのように、青みがかった桃色に変化していった。
光は次第に強まり、亀の甲羅を包み込む。
甲羅は、まるで水に溶けるかのように、あるいは蜃気楼のように揺らぎ、徐々にその輪郭を失っていく。光が最高潮に達した瞬間、甲羅が剥がれ落ちるように消え去ると、その場には、紺色の長い髪を波のように揺らし、優雅な衣を纏った女性が立っていた。
彼女の髪は、深海の藻のようにしなやかに流れ、衣は真珠の輝きを宿し、水滴が滴り落ちるたびに微かな音を立てる。その瞳は、海の深淵を映し出すかのように深く、穏やかながらも芯の強さを感じさせる。
まさに、村人が話していた「浦島太郎の物語」に登場する乙姫その人だった。
彼女の登場は、周囲の海を瞬時に穏やかにし、それまで感じられた不穏な魔力を完全に鎮めていく。
その場に満ちていた強大な魔力も、乙姫の存在によって、清らかな霊気へと変わり、周囲の空気は、まるで竜宮城の内部にいるかのように澄み渡った。
乙姫の足元からは、微かな水の波紋が広がり、その波紋が触れた場所から、海面が穏やかに輝き始めた。
「乙姫様……! まさか、あの亀が……! 乙姫様ご自身だったとは……! 驚きました……!」
太郎は、その神々しい姿に、驚きと畏敬の念を込めて名を呼んだ。彼の槍を持つ手が、微かに震える。
「まさか、乙姫様ご自身が、このような形で……。我々は、乙姫様の最初の試練を、知らず知らずのうちに受けていたのですね……。恐れ入ります。その真意、お見事です」
黒鉄は、乙姫の圧倒的な存在感に、思わず言葉を詰まらせた。彼女の瞳は、乙姫の優雅な姿に釘付けになっている。
「うわ~! 乙姫様だ~! 本物のお姫様だ~! キラキラしてる~! 亀さんが乙姫様だったなんて、びっくりだね~! まるで魔法みたい! すごーい!」
琥珀は、目を輝かせ、喜びの声を上げた。彼女の小さな体が、ぴょんぴょんと跳ねる。
「乙姫殿……この海域に満ちる魔力は、貴女の力で鎮められたのですね。見事です。そして、亀の姿で我々を試されていたとは……その真意、恐れ入ります。我々の行動を、全て見通しておられたのですね」
天音は、冷静な声で乙姫に語りかけた。彼女の白い羽が、乙姫の放つ清らかな霊気に呼応するように、微かに揺れる。
「へっ、乙姫様ってのは、あんたのことか! 噂通りの美人さんじゃねぇか! 亀の姿でいじめられてたってのは、ちょっと笑えるがな! まさか、そんな姿でいるとはな! 驚いたぜ!」
八重は、豪快な笑みを浮かべた。その瞳には、乙姫への素直な賞賛が宿っている。
「ようこそ、太郎殿。そして、あなた方の仲間たち。私の使者を助けてくださり、感謝いたします」
乙姫の声は、透き通るように澄んでおり、海の波音に溶け込むように響いた。その声は、聞く者の心を安らがせる、不思議な力を持っていた。彼女の瞳は、太郎の優しさに触れたかのように、温かく輝いていた。
乙姫は優雅に微笑むと、太郎たちを竜宮城へと誘った。
海面が再び渦を巻き、光の道が彼らの足元に現れる。
その道は、海の底へと続いているようだった。
光の道は、海底へと続く階段のように、彼らを導いていく。




