第16話 prisoner of war/戦争捕虜
「それで、どうして私までが勧誘に動かねばならぬ!」
無能がやかましく騒ぐ。
懐に大量の銀貨を携えた無能を引き連れて、アルバンは今コロッセウムにいた。
アルバンの傍にいる無能。
アーデルベルトの側近である伯爵家の次男坊エドガーは、相変わらず喧しかった。
「アーデルベルト様はどうした!?」
「荒くれ者がいるコロッセウムになど、行きたくないだとさ」
野蛮にして粗野であると。
単純に、荒くれ者たちがうろつく場所に決闘裁判以外の用で行きたくない――それと。
「剣闘士なんて下品な連中に直接声をかけてやり、勧誘するだなんて。次期王太子の名が泣くと仰っておられる」
アルバンは、そう冷たく告げた。
愚かな奴だ。
全くもってアーデルベルトは自己肥大の極まりない阿呆であるのだ。
世の中には、頭の下げどころ次第では、自分の格が上がることさえも理解できないのだ。
アレクサンダー王やアルミン王太子なれば、ここで出会う上級剣闘士に気安く声をかけ「貴殿の活躍は御前試合で眼にしたことがあるぞ。実に素晴らしい動きであった。私自ら貴殿に剣を習いたいくらいだ」と褒め称えていたであろう。
王族に直接声をかけられ、そこまで褒め讃えられて悪い気分のする人間などいない。
それに、実力の高い剣闘士にはスポンサーもいる。
市議や豪商や貴族といった、名誉と資産を溢れんばかりに抱えたスポンサーだ。
その彼らでさえも、自分が抱える剣闘士が「王族にさえ褒められた」とあれば、悪い気はしないだろう。
王家への好感だって、自然に湧くというものだ。
人間関係とは、世の中とはそういう風に出来ている。
その王族として相応しき儀礼作法や世辞というものを理解できぬから、アーデルベルトは愚劣である。
王族どころか貴種ですらなかった。
「……」
兄クラウスが羨ましい。
アレクサンダー王に仕え、王太子アルミンの側近として認められた兄が。
あの二人は根っからの王族であるのだ。
騎士がその剣を捧げるに相応しかった。
アーデルベルトのような、どうしようもない愚図とは違った。
実はあの二人とアーデルベルトは血がつながっていないのでは、と最近は疑っている。
王妃がそこら辺の庭師を、ベッドに引きずり込んだのではないか。
そんな下世話な思考を余所に。
「理由はわかるが……」
エドガーが頷いた。
こいつもとんでもない阿呆である。
わかっては駄目だろ。
本来はこんなメリットがありますよ、と側近として進言せねばならぬのだ。
アルバンも昔はちゃんと進言していた。
それを理解する知能を、アーデルベルトが有していなかったので諦めたが。
もういい。
私の役目はただのスパイだ。
アーデルベルトが勧誘に動かないのは、むしろ良いことであったと考えよう。
アルバンはそう見限った。
本当は――ここでアルバンに一任してもらうのが理想であったのだが。
適当な剣闘士を見繕って敗北に誘導することも出来た。
だがしかし。
チラリ、と横を見る。
「私とて『伯爵家』の次男エドガーだぞ、荒くれ者の剣闘士風情と直接交渉なんて出来るか!」
伯爵家の馬鹿次男エドガー。
アルバン一人に任せるのも心苦しいと、アーデルベルトが世話を焼いた。
こいつも自己肥大型の馬鹿だ。
何の役にも立たないから、正直いらない。
「私は『公爵家』の次男だが、まさか私に全部押し付けるつもりじゃなかろうな」
冷たく、そう告げてやる。
こいつは権威に弱い。
貴族としても、アーデルベルトの側近としても、立場が上なのは明確にアルバンであった。
それもエドガーは分かっている。
「……」
悔しそうに黙り込む。
とはいえ、このエドガーが剣闘士をマトモに勧誘できるかと言えば、答えは否であった。
結局のところ、アルバンが交渉をしなければなるまい。
何もかもをだ。
「どうやって交渉するつもりだ」
ほら、何も考えていない。
自分が全てをやらなければならないと思うと、本当に憂鬱だ。
それでいて、明らかに弱い剣闘士をここで選ぶと、エドガーの不信を買う。
アルバンは溜め息を吐きたくなったが、辛うじて堪えた。
「興行主と面会の約束を取っている。これから彼と出会い、上級剣闘士を紹介してもらうつもりだ」
「なるほど」
コロッセウムに入る。
剣戟の音が聞こえる。
コロッセウムの横に隣接されている、剣闘士養成学校からの剣戟の音であった。
エドガーはいかにも野蛮であるとばかりに、眉を顰めていた。
アルバンは約束していた通り、興行主が用意した客室へと入る。
「お待ちしておりました、アルバン様。お会いできて光栄です」
興行主が姿勢を正し、丁寧に礼を口にする。
体格の良い――元は彼も剣闘士であると聞いたことがある。
御前試合の優勝者で、剣奴の立場から貴族にまで成り上がった英傑である。
コロッセウムのことは専門家に任せるのが相応しかろうと、アレクサンダー王の直々の御言葉により、彼が興行主を務めている。
その説明をエドガーにはしていない。
この馬鹿はその立身出世譚を聞いて尊敬するどころか、元剣奴と馬鹿にするからだ。
ありとあらゆる人間が自己の努力により勝ち取った名誉という物が全く理解できず、生まれた立場で人間の価値が決まると真剣に考えているのだ。
剣奴や農奴に神はいないと、本気で考えているのだ。
死ねばいいのに。
「……アルバン様、どうされましたか?」
「いや、失礼。貴方の身体に見惚れておりました。さすがにコロッセウムの興行主でありますな。私などでは敵いそうもない」
「はっはっは、褒められても菓子ぐらいしか出せやしませんぞ」
興行主殿は陽気に笑った。
何故アルバンは世辞などを言っているのだ、というエドガーの不思議そうな視線を黙殺する。
とにかくも、交渉を始めなければならない。
「さて、興行主殿。話はすでに手紙にてしたためた通り、どうか決闘裁判に力添えを願いたい」
「正直、難しいところですなあ」
興行主は困った用に首を傾げた。
「まず大前提ですが、上級剣闘士を求めておられるのですよね?」
「そうなる。相手は――上級剣闘士ヴォルフガング卿だ。生半可な剣闘士では試合にすらならん」
「理解しております。ご存じの通り、上級剣闘士の登録数は36名に限られております。要するに、残り35名から戦える剣闘士を選出することになりますな」
わかっている。
興行主が言いたいことなど全てわかっているが、説明をじっくりと聞く。
横のエドガーのような馬鹿にでもわかるようにだ。
「さて、では残り35名から自由に誰かお選びください、とはいきません。当然ですが、剣闘士に怪我は付きもの。ここで現在休養中の7名が脱落し、残りは28名となります」
おそらくは興行主も理解しているのだろう。
このアルバンと言う奴はともかく、エドガーとやらはとんでもない馬鹿だぞ。
先ほどから自分の事を貴族と看做さず、ただの自由民風情としか見ておらぬ目つきをしていると。
完全に感づかれていた。
だからこそ、こうやって子供でもわかるように噛み砕いて話をしているのだ。
馬鹿には馬鹿向けの話し方があるのを、興行主は理解しているのだ。
「そして、決闘裁判はコロッセウムにおいて剣闘試合、騎士の訓練がない日取りを選んで行われることになっております。当然ですが、剣闘試合を近日中に行う予定の剣闘士は参加することが出来ません。怪我をしている剣闘士など無意味でしょう? ヴォルフガング卿相手では何の役にも立たない」
「仰る通りで」
素直に頷く。
「また、決闘裁判にて怪我をされるのも困るのです。あくまで興行主としては剣闘試合が優先ですからな。決闘裁判の数日後に試合を控えた剣闘士の選出もお断りします」
何もかも興行主の仰る通りである。
これも素直に頷いたが。
「決闘裁判を優先することは出来んのか? 剣闘試合など後回しで構わん」
エドガーが口を出した。
馬鹿は喋るな。
そう言いたいが、代わりに興行主が口にした。
「剣闘試合は市民の大事な娯楽であります。アレクサンダー王の王命で為されている施政に何かご不満でも?」
馬鹿は喋るな。
こちらは王命で剣闘試合をやっているのだと。
興行主はそう口にした。
エドガーは何も言い返せずに黙った。
黙ったが。
懐から銀貨の入った袋を取り出した。
「これでどうだ!」
袋からは銀貨が溢れている。
テーブルにぶちまけられた袋の中から、その銀貨の幾枚かが零れ落ちた。
それを拾い上げ、興行主は答えた。
「この小銭がどうかしましたか?」
本当に不思議そうに。
何を言っているのだ、この馬鹿はと言いたげに尋ねた。
そうなのだ。
その程度の銀貨で上級剣闘士は雇えない。
「なんだと?」
「この小銭がどうかしましたか、と言いました。何か勘違いをなさっているようですが、この程度の小銭は上級剣闘士ならば一試合で得られる金額です」
その通りである。
なんならば、スポンサー貴族同士の名誉がかかった大事な試合ならば、それ以上の額だってもらえた。
上級剣闘士とは、この広い王都でたった36名しかいない上級剣闘士とは。
「何人の観客がこのコロッセウムに詰めかけ、何人の豪商や貴族が対戦結果に莫大な金銭を賭けているとお考えで? この程度の銀貨で上級剣闘士は雇えません」
つまるところ、王都市民の中でも数万人が名前を知るところの人気者、スタープレイヤーなのだ。
下手な貴族よりも金を稼げる。
望めば、貴族としての地位も、騎士としての名誉も、それこそ王都に屋敷を買える金だって。
何もかも手に入るのが、上級剣闘士だ。
そんな上級剣闘士が、ただイザベラ嬢の名誉のために闘うと名乗り出ているのだ。
それも命懸けで。
ああ、もう嫌だ。
本当にヴォルフガング卿とだけは戦いたくない。
絶対に、絶対に彼とだけは御免である。
このアルバンなど、一度の蹴りだけでアリーナ(円形闘技台)から吹き飛ばされるわ。
ヴォルフガング卿目当てに、コロッセウムに集まった観客相手に恥を掻くのも御免である。
公爵家次男としての権威など一瞬で消し飛ぶ。
王都中の笑い物になり、もう王都付近にはいられなくなるであろう。
兄クラウスのいう通り、王都を離れて何処か遠い土地で領主にでもなるしか、人生の選択肢がなくなる。
「さて、そろそろ真面目な交渉と行きましょうか」
興行主殿は、もうエドガーに視線を向けていない。
お前はさっさとその小銭でも拾っていろ間抜けと言いたげに見捨て、アルバンに視点を向けた。
マトモな会話が可能なのは、アルバンだけだと認識したのだ。
「一人だけ決闘裁判に応じてもよいという上級剣闘士がおります。もちろん、条件は金銭ではありません」
「その条件とは?」
「故郷への帰還です。アーデルベルト様は『ともかく』として、王妃の権威であれば、恩赦も可能でしょう? 決闘裁判に志願したのは戦争捕虜の上級剣闘士『トラクス』だけです」
戦争捕虜か。
アルバンはその一言で全てを理解し、何も理解していないエドガーを見た後で。
コロッセウムに訪れる色々な貴族や豪商のスポンサーと親しく、世情に詳しい興行主が、アーデルベルトを「心の底から」馬鹿にしているのにも気づいていない。
それを確認した後に、しっかりと頷いた。
「仕方あるまい」
どうせなら、ハッキリとエドガーを小馬鹿にして断ってくれればよかったが。
エドガーがいる手前、アルバンはその話を受けるしかなかった。
アーデルベルトの不信を買えない、スパイの限界であった。