第九夜
第三章 怨霊と化した沙智の魂(影の少女)は新たな恋人にとり憑くが、祟神らによって排除されそうになる。助けを求める少女の声に応じたのは、頭に角のある異形の神タマホメだった。
「新神の皆様、そして本年他部署より転入されてきた皆様、死神課自殺対策班へようこそ。皆様を我が班の仲間にお迎えすることを職員一同心より歓迎いたします」
班の初任者研修はこんな挨拶で始まった。一月二日、入職式の翌朝のことだ。召集されたのは収容人数三百名ほどの大講堂で、前日オリエンテーションが行われた荘厳な本堂とは打って変り、座席が後列になるに従い高くなる近代的な建物だった。演台に立つ担当は特殊係の誰とかいうようやく中堅といった風情の男神で、黒ずくめの聴衆は会場の前三分の二ほどを埋めていた。私は中ほどの指定された席に座り、その右隣にナマメが、左隣にトミテが座っていた。二人と出会ったのはこの時だった。
「死神課は総勢八千四百名余りと比較的規模が大きく、そのうちおよそ三千名を我が自殺対策班が占めております。これは班全体、すなわち少年、青年、壮年、老年、特殊の各係を合計した数ではありますが、自殺予備軍への阻止的措置にこれだけの神員を投入しようという死神課の熱意が表れた数字であります。さて、本年も我が班に八十名の新神を迎えることとなりました。我が班は特に和気藹々とした、非常に風通しのよい働きやすい職場ですから、その点は是非とも安心していただきたい」
死神課に配属された新神百余名の八割が自殺対策班とは。私は早速げんなりした。大変なところほど若者が回されるというから、残りは過労死班や事後処理班だろうか。開場前に誰か「死神課の中でも生者と関わる部署だから」などと殊勝なことを言っとる奴がいたが、私はそんなポジティブな頭の持ち主ではない。それほど死にたい人間で溢れた下界に、これから毎日足を踏み入れねばならないのだ。
「しかしながら、他所と比較して離職率の高いことが我が班の実態であり、悩みとするところであります。特に初任から三年の間の新神の離職率が群を抜いて高い。しかもその多くは他部署への転出に留まらず、神の職を辞してしまう。その専らの理由は、人間の希死念慮と向き合ううちに自らが心を病み、ケースの死亡により無力感に苛まれ、この仕事に耐えきれなくなるというものであります。故に我々は組織としてこれを予防するよう職員を訓練する必要がある。それこそが本日より三日間の研修の目的なのであります」
長い前置きをそう締めくくり、担当は演台の後ろの黒板に板書を現した。
傾聴、共感的態度、ノットイコール、感情移入。
「結論から申し上げましょう。我々のケースに対する姿勢の基本は傾聴そして共感的態度です。しかしこれを人間への同情や同調と混同してはならない。あくまでも神と人の関係を保ち、希死念慮、悲嘆その他あらゆる事柄においてケースとは距離を置くことです。このことについてこれから詳しく解説してまいります」
私たち死神課の新神は教えられた。ケースの語る言葉に引き込まれてはならない。同じ目線に立ってはならない。必要なことは理解や共感ではなく、ケースに歩める道筋を示し、それを阻む障害を理に適う限りで取り除いてやることである――。
講義の後には実際の事例を用いた演習も受けた。後輩指導の先輩方が人間の役を演じ、新神はケースに泣かれたり苦しい話をされたりした場面での己の心の動きを理解するとともにそのコントロールの仕方を学ぶというものだった。訓練では上手くなっても、半年の間に七名の同期が班を去った。ナマメも当初は感情的に巻き込まれやすく、事例検討会に相談しては泣くので、辞めるのではないかと心配された一人だった。他方私は、トミテほどではないが、比較的すんなりと距離を置いた対し方ができるようになった方だった。素直に教えを守ってきたから、正しさでは人間を救えない歯痒さに悩みはしても、人間の心がわからないことはわかる必要がないから悩んでみたことがなかった。
《泥の底を這いまわる人間の苦しみが、神様のあんたにわかる?》
沙智のあの言葉を私は受け流した。あの研修で最初に教えられ、叩き込まれた通りに。
***
「気まぐれならば手出し無用です。タマホメ様」
人通りのない住宅街の片隅、街灯の白い光を受けて首領の太刀がきらりと光る。左右の二人も体制を立て直し、四方の屋根の上には射手が矢を番えて控えている。タマホメ様は少女を庇い包囲の中に立ち、正面に立つ首領の顔のみをじっと見据えていた。
「気まぐれか。必要があれば引き受けるのが私のやり方でな」
短く応え、袖の陰に少女を隠す。
「真実もらい受けようと仰せですか。どこの馬の骨とも知れぬ悪鬼の類を」
猶も太刀を構えつつ、首領は声に皮肉を込めた。
「さすがタマホメ様は慈悲深い。ご自分が重なり捨て置けませぬか」
タマホメ様は微かに笑ったようだった。
「悪いか」
鳥肌が立った。狩人らの間には苦々しげな溜息が広がり、もはや片は付いたと思われた。
「なるほど奇特なお方だ。そこまで望まれるならば上に諮りましょう。ところで」
首領がおもむろに私の方を振り向いた。向けられた刃の先がぎらりと光る。
「そこのおまえは何者だ? なぜこの場に死神がいる」
皆の視線が一斉に私に注がれた。その一瞬の隙に、タマホメ様は少女を抱えて首領の頭上をひらりと飛び越え、私の傍に降り立った。
「この子が呼んだ何某だろう。いずれにせよ、私の友の配下の者だ」
タマホメ様の大きな背中に、私はたじろぐばかりで答えられなかった己を恥じた。私は何の考えも覚悟もなく、ただ気がかりに引かれてこの場に来た。少女の命乞いのため飛び出そうとしていたのに、なぜいるのかと問い質されて申し開きもできない。だからイナミさんは釘を刺したのだ、半端な情に流されて、むやみに禁を犯すなと。
「故に話は私が聴く。おまえたち祟神は疾く去れ」
間近に見上げるタマホメ様の角のある横顔は美しく、恐ろしかった。涼しげな目差に底知れぬ凄みが滲み出る。それは二度目に茜を見た夜、屋根の上に感じたあの気配だった。
「今日のところはひとまずあなた様に預けましょう。我らとしても報告はしますが」
いかにも不服な様子で首領は言い捨て、これで済まされると思うな、とばかりに私を睨めつけると、皆を率いて去って行った。
雨が止んでいた。
「イザヨイとはおまえだな。冥府からもその名を聞いた」
上から囁きかけられて、呆然としていた私は我に返った。つやつや光る黒い瞳がタマホメ様の陰から私を見ていた。
「心配するな。ウミヤメには私から話してやる。近くまた会おう」
すぐに去ってしまわれる様子に慌て、私はタマホメ様の前に回り込んだ。
「あの――、ありがとうございました。どうかその子を」
頭を下げ、途中で言い淀む。よろしくお願いします、などと、私ごときが頼んでよいものだろうか。
クスッと笑う声が聞こえて、顔を上げるとタマホメ様と目が合った。
「おまえ、若い頃のウミヤメに似ているよ」
「……は」
タマホメ様はいたずらっぽく笑いなさった。その目尻に綺麗な笑い皺を幾筋も刻んで。
***
タマホメ様が窮地を救ってくださった。素直に喜んでおけばよいのだろうか。
私は沙智を救うことができなかった。救えなかったのと同じだ。
出たゴミは出たところに転がり、開けられた引き出しは開けられたまま、用意された食事は手つかずのまま、いつ積まれたのかわからない物の上に別の物が積まれてゆく。天井の電気は眩しすぎるからとシンプルなコンセントライトを間接照明に使い、久礼亜はゴミに埋もれゴミに同化するようにして生きていた。沙智の部屋も散らかってはいたが、満たされなさから買い物をし過ぎるのとはだいぶ趣が異なる。自暴自棄を形にした荒れ方である。
「誰か死んだの」
ベッドから体を起こし私の顔を見るなり、久礼亜は眉を曇らせそう尋ねた。
「いいえ。どうしてそう思うの」
答える代りに彼女はベッドの下を空けようと足で物を退かした。復元した床に立ち、私に手を伸べてベッドに座るよう誘う。そうして私を座らせ正面に立つと、彼女はようやく「顔」と言葉を漏らした。
「神様も十字架を背負うんだね」
俯いた顔の口元はどことなく嬉しそうに歪んでいた。恭しく床に跪き、私の手を取り膝に額をつける。
「神様、ボクは今日も何もしませんでした」
久礼亜が私との関わりに唯一求めたのが、この奇妙な「懺悔」の儀式だった。
「気分転換になることも一つも思いつきませんでした。片づけないといけないのに、片づける気力が湧きませんでした。明日のためにできること、しなくちゃいけないことを考えてみることもしませんでした」
どれも長期的な目標としてできるようになるといいと話していたことである。
「変わらないといけないのに。そのために必要なことをボクは何一つすることができませんでした。神様、怠け者のボクを罰してください」
「罰してください」は彼女が決まって使う締めの言葉だった。久礼亜が考えたこの儀式は何とも言えず居心地の悪い嫌な感じを私に抱かせる。十四の時からだと聞いた。その頃家出を繰り返していた彼女は、同情的な顔をして近づいてきたこの部屋の主から「養う」と称して四年半に亘って虐待され、半年ほど前に「裏切り」に遭うまでその自覚がなかった。肉親から逃れようとしていた少女にはその男が救世主に思われ、最終的に売られて捨てられるまでその「愛」を信じて疑わなかったらしい。
久礼亜は無防備に首を垂れ、この頃自ら短く刈り込んだ頭を大人しく私に撫でられていた。骨の飛び出す白い項には黒い蜘蛛の刺青が彫り込まれている。まだ自分の物だというのか、男は久礼亜の体にこの禍々しい印を遺し、姿を消した。ライフラインは止められず、部屋を追い出される気配もない。男の思惑通り、彼女は檻の中に身を置き続けている。
「食事を摂りなさい。久礼亜」
私が息を吹きかければ冷え切った皿は元の温かい状態に戻る。とはいえ彼女の食卓に並ぶのは毎度レトルトの粥とスープだけだった。私が命じ、食べられるよう呪いをかけるから、久礼亜は仕方なく匙を取る。彼女が皿に涙を落としながら食べるのを、私は見守る。
本当は人間に救済を委ねるのが望ましい子だと、以前イナミさんは言っていた。神の業で人間の間のそういった支援団体に繋ぐことは正当な措置として認められている。
「あなたを助けてくれる人たちのところへ行きませんか。何度も言うけれど、ここを出ることはいつでもできるんです。私に任せてさえくれれば、手筈はすべて整えてあげる」
本人の合意など待たずに動かす手もある。問題は、そうした場合に久礼亜がどう出るのかまだ見極めがつかないことだ。環境の劇的な変化に適応できずに、それこそ自殺してしまうかもしれない。かといって、みすみす衰弱死させるわけにもいかない。厄除けの結界で彼女に危害を加えようとする者たちからは護っているが、こんなに暗く不衛生な場所にいては久礼亜が病気になってしまう。栄養も足りていない。私の方で見切り発車の判断をしなければならない時が遠からず来るだろう。
「……それよりもどこか遠くへ行きたいな。名前も顔も変えて」
匙から粥の汁をぽたりと垂らして、久礼亜は呟いた。
「でもきっと、ボクは言うだけで何もしないんだ」
「私が力になります」
窪んだ目を伏せ、彼女は首を振った。
「ボクが望むなら、でしょう。神様、ボクは何も望めないみたい」
「みたい、というのは?」
「どうなりたいのか考えてみようとしたんだけど……今から何かをやり直してみたって、どうせ何にもならないって、どうしても思っちゃう」
言いながらおもむろに左手を伸ばし、私の手に指を絡める。
「それが今のあなたの正直な気もちなんですね」
彼女はこくんと頷き、そして続けた。
「今さら明るいところに出たって、ボクの場所なんかないと思うよ」
――そこから立ち直って生きている人もいますと、私の口から言えるだろうか。
所詮あんたは神様だと沙智は言った。私の反応を引き出そうとした言葉で、沙智の病が言わせた言葉だと、わかっている。けれどそれは、真実だ。
人間の苦しみはわからなくてもいい。問われるのは冷静かつ適切な判断と措置の技量である――私が教えられ守ってきた信条を、タマホメ様との邂逅が揺るがしていた。
率直に言って私は圧倒されたのだ、タマホメ様の威厳に。祟神には嫌味を言われたが、人から鬼へと変わりそして神となられたタマホメ様は他のどんな神とも違う。恐ろしい角にも長く白い御髪にも、背負われたものの違いが表れていた。
そのタマホメ様が大丈夫だと仰るならば、あるいは人の心にも響くだろう。就学精霊から現役で神試験に通った私の言葉にそんな重みはない。
何もない。
■登場人物
イザヨイ:生命省人間庁人口調整局死神課自殺対策班青年係の新神
イナミ:直属の上司。三期目で祟神課から異動してきたばかり
ウミヤメ:死神課の長。イザヨイの憧れ
タマホメ:冥府の神様。人の娘から鬼となり、神になった
トミテ/ナマメ:死神課自殺対策班青年係の同期
祟神たち:首領はイナミの元部下。怨霊を取り締まる
沙智:怨霊を生した二十八歳の女性。組紐は牡丹色
影の少女:怨霊と化した沙智の魂。祟神に追われ、窮地に陥る
茜:眞輝に付き纏う幽霊(※前回登場:第五夜)
眞輝:二十五歳の青年。組紐は柿色
久礼亜:十九歳の少女。組紐は檸檬色(※初出:第四夜)
■組織構成
人間庁>衛生局、人口調整局
衛生局:
福神課(縁班他)
貧乏神課
祟神課(怨霊班他)
人口調整局:
産神課(安産班、運命班他)
死神課(老衰班、病死班、事後処理班、自殺対策班、過労死班)
――※自殺対策班:少年係、青年係、壮年係、老年係、特殊係
疫病神課